染み付いた敬意
食堂の中は活気に満ちていた。
夕食時ということもあり、一日の終わりを労う冒険者たちの豪快な笑い声と木皿が触れ合う音が絶え間なく響いている。
「だからさー!あの時絶対、お前魔獣から一歩逃げてただろ!」
「逃げてねぇって!あれは間合いを測るための高度な戦術だ!」
安酒の匂いと、飾らない剥き出しの喧騒。
荒っぽくて騒がしくて、けれどどこか他者を拒まない温かな空気。
ミレアナは、目の前に運ばれてきた湯気を立てる素朴な肉の煮込み料理を見つめ、静かにパチパチと瞬きをした。
スプーンで小さく掬い、口へと運ぶ。
「……本当に、美味しいわ」
「でしょ?」
向かい側の席で、レーヴがまるで自分が作ったかのように得意げに笑う。
「だから俺を信じろって言ったじゃん」
「意外だったわ。貴方の舌の基準を少し見くびっていたみたいね」
「ひっど。これでも美味い店のリサーチに関しては、ギルドで三本の指に入る自信あるんだけどな」
レーヴがわざとらしく肩を落とす。
その賑やかな横顔とは対照的に、隣の席のリオネルは手元の料理に一切手を付けることなく、無言のまま周囲への鋭い警戒を維持していた。
「リオネル、貴方も食べれば?身体が持たないわよ」
「後ほどいただきます」
「冷めるわよ。料理は温かいうちに食べるのが一番の効率よ」
「問題ありません」
相変わらずの頑固さだった。
ミレアナは呆れを通り越して、小さく息を吐いた。
すると、その様子を見ていたレーヴがふいに料理を突つく手を止めて口を開いた。
「お、珍しくちゃんと力が抜けてるじゃん」
「……何がよ」
「顔」
ミレアナのスプーンを持つ手が、僅かに止まる。
レーヴはテーブルに頬杖をつきながら、覗き込むように楽しそうに目を細めた。
「最近たまーにさ、ちゃんと年相応の女の子の顔するよね、アンタ」
「意味が分からないわ」
「だって出会ったばっかの頃なんて、一瞬でも隙を見せたら死ぬ病気かよってくらい気張ってたじゃん」
さらりと言い放たれた言葉に、ミレアナは返す言葉に困った。
自分ではそんな自覚は微塵もない。
だがレーヴは時々、こちらが最も無防備な瞬間を、妙に的確に見抜いてくる。
「……貴方、人の観察をして弱みを探るのが趣味なの?」
「んー、まさか。アンタ限定かもね」
「迷惑ね」
「えー?」
そんないつものような軽口を交わしていた、まさにその時だった。
がちゃりと、食堂の厚い木製の扉が開く。
隙間から冷たい夜風が一瞬だけ足元を駆け抜け、鎧の擦れ合う硬い音と共に、数人の男たちが入ってきた。
その先頭。
見覚えのある、見紛うはずもない端正な焦茶色の髪がミレアナの視界の端へ滑り込んでくる。
───ユリウスだ。
彼は店内へ一歩足を踏み入れた瞬間、喧騒の奥にいるミレアナの姿を捉えた。
そして、完全にその場の動きを止めた。
そして次の瞬間。
彼は迷いのない足取りでミレアナの前へと歩み寄り───
「……ミレアナ様」
右手を胸に当て、深く何よりも敬虔に頭を垂れた。
どよめいていた食堂が、嘘のように一瞬で静まり返る。
がちゃんと、離れた席で誰かが呆然として酒杯を床へ落とした音が、妙に大きく響いた。
「……は?」
「様……? 」
周囲の冒険者たちが、にわかにざわつき始める。
当然だった。
王都からやってきた精鋭、しかも見るからに家柄の良さそうな上位騎士の男が、辺境のうらぶれた食堂で一介の新人冒険者にすぎない少女へ、反射のように最高位の礼を取ったのだ。
しかも“様”という敬称を付けて。
ミレアナの膝の上で指先が僅かに強張る。
「……顔を上げてください、ユリウス卿」
自分の感情を極限まで押し殺した、冷徹な響き。
ユリウスがゆっくりと顔を上げる。
その整った表情には、あからさまに「しまった」という苦渋の色が滲んでいた。
癖だったのだろう。
かつて王宮で彼女を絶対的な上位者として仰ぎ、王太子の婚約者として、命を捧げるべき令嬢として接してきた、長年染み付いた敬意。
状況を頭で理解するよりも早く、身体が先に動いてしまったのだ。
周囲の好奇と不審に満ちた視線が、一気に自分たちへと集中するのを感じる。
ミレアナは静かに、小さく息を吐いた。
最悪の展開だった。
隠していたかった。
自分が何者であるかなど。
少なくとも、この居心地の良い温かな場所では、ただの「ミレアナ」でいたかったのに。
「……知り合い、だったよな? 」
ぽつりと、対面の席からレーヴが言った。
いつもの軽い茶化すような調子ではない。
静かで平坦な響きだった。
ミレアナは唇を噛み、答えない。
代わりにユリウスが、己の失態を少しでも取り繕おうと苦々しげに口を開いた。
「……以前王都で、大変お世話になった御方だ。私が一方的に敬意を表しているだけで、それ以上の意味はない」
「“お世話になった”っていう関係だけで、こんな雑多な食堂の真ん中で、そんな絵に描いたような騎士の礼を取るもんかね?」
レーヴの視線がユリウスを射抜く。
ユリウスは言葉に詰まり、黙り込んだ。
それ以上は言えない。
だが、これだけの証拠を突きつけられて誤魔化しきれるはずもなかった。
その重苦しい沈黙だけで、周囲への証明としては十分すぎた。
食堂の空気が、さらに不穏にざわめき始める。
「王都って……おいおい」
「いやあの態度、絶対ただの一般人じゃねぇだろ」
「様、だぞ?貴族だろ、それもかなり上の……」
ひそひそと品定めをするような不躾な声が飛び交う。
ミレアナはゆっくりと目を伏せた。
こういう視線にはかつて嫌というほど晒されてきた。
家柄への値踏み、得体の知れない者への警戒。
そして、一瞬にして引かれる見えない境界線。
“ミレアナという個人”を見るのではなく、その後ろにそびえ立つ巨大な背景と権力を見る目。
それがこの温かい食堂にも持ち込まれてしまった。
すべてが瓦解していくような冷ややかさを感じ取った、その瞬間。
「……へぇ」
レーヴが、小さく鼻で笑った。
その場にそぐわない声音に、ミレアナは僅かに驚いて顔を上げる。
レーヴは木製の椅子へ深く背を預けたまま、相変わらず気怠げに頬杖をついていた。
「だから時々、変に育ちが良くて高尚な知識がダダ漏れだったわけだ」
「……」
「なるほどね、納得」
驚くほどに、普通の声だった。
彼女の正体を暴こうとする追及でもなければ、責める怒りでもない。
ただ謎が一つ解けて腑に落ちたと言わんばかりの、どこまでも軽い言い方。
ミレアナは僅かに目を瞬いた。
胸のざわめきが、急速に形を変えていく。
レーヴはそんな彼女の動揺を見つめ、いつものようにふっと悪戯っぽく笑ってみせた。
「ま、今さらアンタがどこの誰だろうが、ぶっちゃけ俺にはどうでもいいし。別に驚かないけどね」
その言葉が、彼女の耳に届いた瞬間。
ミレアナの胸の奥が今までにないほど大きく、劇的に揺れ動いた。
周囲の冒険者たちはまだ、怪訝な目で彼女を遠巻きに見ている。
ユリウスもまた、自分の失態の重さに複雑極まりない顔を崩せないでいる。
それなのに目の前のレーヴだけは、何一つ変わらない温度のままでそこに居てくれた。
まるで、彼女の背負う重苦しい肩書きや家柄なんて最初から一切どうでもいいのだと、そう笑い飛ばしてくれるかのように。




