触れたくない温度
冷たい夜風が、宿の重厚な石造りの廊下を静かに吹き抜けていく。
喧騒の食堂を出てからしばらく。
ミレアナ、レーヴ、リオネルの三人は今日一日の疲労を背負いながら宿の二階廊下を歩いていた。
先頭を行くリオネルの背中は言葉こそ発しないものの、相変わらず「不審者を絶対に近づけない」という強い圧を放ち続けている。
その後ろを、ミレアナとレーヴが等間隔の歩幅で並んで歩いていた。
「……で、実際のところさ。ほんとに何者だったわけ?」
不意にレーヴがいたずらっぽく横目でこちらの顔を覗き込んできた。
いつもの軽い声音。
だが瞳の奥にはいつにない静かな探りの光が灯っていた。
ミレアナは少しだけ不快そうに目を細める。
「……聞くのね」
「そりゃね。気にはなるでしょ」
「先ほどは、私の素性について詮索はしないと言っていたはずだけれど」
「詮索はしないよ?」
一秒の迷いもない即答だった。
「ただ、俺は聞くだけ。アンタが答えたくないって言うなら、この話はそこで綺麗さっぱり終わり。無理に暴くつもりなんてないよ」
本当に妙な男だ、とミレアナは内心で思った。
図々しく懐に踏み込んでくるくせに、こちらの境界線を決して踏み荒らさない。
本当に越えてはいけない一線を見極めて、直前でぴたりと止まる。
だから、どうにも調子が狂うのだ。
「……元々は、王宮のかなり中枢に近い場所にいたわ」
「うん」
「……それだけよ」
「ふぅん、そっか」
レーヴは本当にそれ以上何も追及しなかった。
普通であればそこでさらに深く問い質すだろう。
王宮で何をしていたのか。
なぜ地位も名誉もあるはずの王都を離れたのか。
どうしてこんな最果ての辺境都市へ流れてきたのか。
だが彼は本当にその一言で満足したように、あっさりと追求を止める。
まるでミレアナ自身がいつか自分の意志で全てを打ち明けてくれるその日まで、何年でも待つと心に決めているみたいに。
「……意外ね」
「何がさ?」
「貴方の性格ならもっとここぞとばかりに根掘り葉掘り聞いてくるかと思ったわ」
するとレーヴは、歩調を緩めて少しだけ困ったように苦笑した。
「まぁ、知りたいのは本当だけどさ」
「……」
「でもさ、本人が必死に隠して大事に守ってる仮面を外から無理やり力ずくで剥がされるのって、誰だって嫌じゃん」
その瞬間、ミレアナはわずかに目を見開いた。
レーヴはまっすぐ前を向いたまま淡々と、どこか遠い目をして言葉を続けた。
「アンタ、ずっとそういう息苦しい場所にいたんでしょ。自分の意志なんて関係なく周りから勝手に価値を値踏みされて、勝手に都合のいい存在だと決めつけられて必要なところだけ都合よく切り取られる、そういうお堅い場所」
夜風が、二人の間を通り抜ける。
ミレアナは何も答えられなかった。
唇を噛み締め、沈黙を守る。
なぜこの男は時々こちらの心の最も深いところにある核心へ、まるで最初から知っていたかのように当たり前みたいに触れてくるのか。
「……貴方、本当に、底の知れない変な人ね」
「あはは、それよく言われるわ」
レーヴがいつものように気楽に笑う。
まさに、その時だった。
前を歩いていたリオネルが、不意にぴたりと足を止めた。
「……?」
ミレアナが怪訝に顔を上げる。
廊下の奥、宿の窓際に数人の地元冒険者たちが集まって談笑していた。
彼らはミレアナたちの接近に気づいた瞬間、一斉に会話を止めて気まずそうに、そして避けるように視線を逸らした。
(───あぁ、まただ)
ミレアナの胸の奥が静かに、氷が張るように冷えていく。
よく知っている空気だ。
これは対等な“冒険者仲間”としてではなく、自分には手の届かない“高位の貴族様”として遠巻きに扱い始める、絶対的な距離を測る目だ。
面倒で息苦しい。
酷く、疲れる。
心の防衛本能から、彼女の足が無意識のうちにその場で止まってしまった。
その瞬間、ぐいと手首を強い力で引かれた。
「……え」
驚いて視線を走らせると、気付けばレーヴがミレアナの華奢な手首を素手でしっかりと掴んでいた。
「ちょっと、こっち」
「っ、ちょ、ちょっと……」
そのまま半ば強引に方向転換させられ、近くにある薄暗い空き階段へと引っ張り込まれる。
「おい、レーヴ!! 貴様、お嬢様に何を───」
背後からリオネルの殺気立った低い声が飛んだが、レーヴは振り返りもせずに片手をひらひらと振った。
「すぐ返すって! ちょっと借りるだけ!」
「返すとはどういう意味だ!」
「まぁ、言葉の綾、言葉の綾!」
軽口を叩きながら、レーヴはトントンと軽快な足取りで階段を上がっていく。
ミレアナは頭の中が混乱したまま、手首に残る彼の確かな体温とその広い背中をただ見上げていた。
「な、何を……」
「避難」
「は?」
「アンタ、ああいう空気苦手でしょ」
図星だった。
ミレアナは反論の言葉を完全に失う。
そうして着いたのは普段は誰も使わない小さな踊り場。
レーヴはようやく満足したように足を止めた。
開かれた大きな窓の外には、辺境都市ボーデンの素朴な夜景が一面に広がっている。
点々と灯る酒場の温かな灯り。
遠くそびえる見張り塔の松明。
その向こうに広がる、漆黒の原生林。
遮るもののない冷たい夜風が、階段を駆け上がって少し火照っていたミレアナの頬を優しく撫でた。
「……勝手に連れ出さないでちょうだい」
「ごめんごめん。悪かったって」
口ではそう言うものの、その表情には一片の反省の色もなかった。
ミレアナが不満を露わにして眉を寄せると、レーヴは困ったように小さく笑った。
「でもさ、あのままあの場所に居たら、アンタまた無理して完璧なお嬢様のフリしてただろ?」
「無理はしてないわ。私は常に合理的に動いているわ」
「するね、絶対にする」
被せ気味の、強い否定だった。
レーヴの瞳がまっすぐにミレアナを見つめる。
「アンタさ、平気な顔して痛みを隠すのが無駄に上手いんだよ」
「……」
「だから周りの人間も誰も、アンタが傷ついてることに気付けない」
どこまでも静かな声だった。
いつものからかいや冗談の気配は微塵もない。
本気で彼女を案じる声音。
ミレアナは耐えかねて視線を窓の外へと外した。
胸の奥が妙に落ち着かない。
「……別に、このくらい平気よ」
「うん」
「本当に、大したことないわ」
「うん」
「……何故、そこで意地悪く否定してこないのよ」
その瞬間レーヴが耐えきれずにぷっと吹き出した。
「いや、だってさぁ。アンタの今の反応、完全に『平気じゃない人のテンプレ』みたいになってるんだもん」
「……」
「図星突かれて黙り込むところまで含めて、完璧に分かりやすすぎる」
「ひどく腹立たしいわね、貴方」
「あはは、最高の褒め言葉として受け取っとくわ」
レーヴが笑う。
本当に、心底楽しそうに。
だが笑い顔を見つめていると、さっきまで彼女の胸へ鉛のように張り付いていた息苦しさが嘘のように少しだけ薄れていくのを感じていた。
ミレアナは不意に気付いた。
この男は最初に出会ったあの日からずっと、こうやって自分が限界を迎える前に、強引に“外の世界”へ引っ張り出してくれていたのだと。
王都では、誰もこんな風に自分に接してはくれなかった。
誰もが肩書きや利用価値や公爵家という立場ばかりを見て、その内側にある“ミレアナという一人の人間”に直接触れてくる者など、ただの一人も居なかった。
けれど、目の前にいるレーヴは決定的に違う。
ミレアナが黙り込めば顔を覗き込み、表情が固まればおどけて笑わせようとして、無理をしていると察すればこうして勝手に連れ出す。
物理的にも精神的にも、あまりにも距離感がおかしい。
本当に、常識では考えられない。
それなのに、どうしてこれほどまでに嫌ではないのだろう。
むしろ───。
「……っ」
思考の海に沈んでいた、その瞬間。
不意にレーヴの指がミレアナの滑らかな髪へとそっと触れた。
「ほら、やっぱり。ここに葉っぱついてた」
さらりと何でもないことのように言う。
彼の指が彼女の長い黒髪から、小さな枯れ葉を優しく摘み取った。
それだけ。
時間にしてわずか一秒にも満たない、他意のない接触。
なのに、どくりとミレアナの心臓が大きく跳ね上がった。
「……ミレアナ?」
あまりにも反応がないことを不思議に思ったのか、レーヴが指を離し首を傾げて顔を覗き込んでくる。
あまりにも、顔の距離が近すぎる。
街の明かりを反射する整った顔立ち。
妖しく輝く瞳。
夜風にさらさらと揺れる銀髪。
本能的に、ミレアナは逃げるように弾かれたように一歩後ろへと下がった。
「……っ、 距離が近すぎるのよ、貴方は!」
「え、今さら? 何が不満なの?」
「今よ、今……っ」
「いや、ただ髪の葉っぱ取っただけじゃん。怒る要素あった?」
「だから、その一連の行動のすべての距離感がおかしいと言ってるのよ……!」
普段の彼女からは到底考えられないほど語気が強く、感情が剥き出しになっていた。
レーヴは一瞬だけぽかんと呆然とした後、その彼女の尋常ではない狼狽ぶりに堪えきれずお腹を抱えて吹き出した。
「あははっ! 何それ、ウケるんだけど!」
「……笑わないで」
「いやだってさ、アンタがそんな、年相応の女の子みたいな分かりやすい反応するの初めて見たからさ。新鮮で面白いわ」
「……っ」
ミレアナはきつく顔を背けた。
意味が分からなかった。
命懸けの戦場であっても冷静沈着でいられるはずの自分が、どうしてこの男が相手だとこうも簡単にペースを乱され、調子を狂わされてしまうのか。
そんな彼女の横顔をじっと見つめながら、レーヴはふっとその悪戯っぽい笑みを僅かに薄めた。
そして、夜風に消え入りそうなほど小さな声でぽつりと呟いた。
「……ほんと、かわい」
「……え? 今、何か言ったかしら」
「いーや? 何も言ってませーん」
絶対に今、何かを言った。
だがその真意を問い詰めるよりも先に、彼女の胸の奥は小さくざわめいていた。




