変わらない距離
食堂の空気は完全には元に戻っていなかった。
あちこちから聞こえるざわざわとした小声。
好奇と、それ以上に腫れ物を窺うような値踏みする探る視線。
さっきまで大声で笑いながら酒を飲んでいた冒険者たちも、どこか落ち着かない様子で遠巻きにこちらを窺っている。
ミレアナはスプーンを持ったまま、静かに視線を落とした。
それは王都にいた頃、何度も嫌というほど見てきた目だった。
目の前にいるミレアナという人間そのものではなく、その背後にある剥き出しの肩書きや不可侵の立場を見る視線。
勝手に距離を測る目。
勝手に序列を決めて縮み上がる空気。
目の前の景色が、王宮のあの冷ややかな空間と同じものに変貌していく。
「食べないの?」
重苦しい沈黙を切り裂いて、向かい側からレーヴの気の抜けた声が飛んできた。
ミレアナが顔を上げる。
彼は先ほどと何一つ変わらない、いつも通りの顔で平然と煮込み料理を口へ運んでいた。
「冷めちゃうよ。せっかく熱々で美味いのにさ」
「……少し、食欲がなくなったわ」
「えーもったいないなぁ」
あまりにも緊張感のない返事。
けれど、その徹底されたいつも通りの温度が冷え込みかけていたミレアナの胸へ妙に深く、温かく沁み渡っていく。
レーヴは器を置くと、不躾にこちらを覗き込んでくる周囲の視線をちらりと見回した。
「あーあ。アンタら、ほんっと分かりやす」
皮肉の混じったその一言に、聞き耳を立てていた近くの冒険者たちがびくりと肩を揺らした。
「別に何も変わってないでしょ。隠してただけで、このお嬢様、元からめちゃくちゃ変だったじゃん」
「レーヴ」
「いやだってさ、普通のそこら辺の新人冒険者が、地下水路の超難解な術式解析なんてスラスラやらないって。な? リオネルもそう思うだろ」
「お嬢様について変だと思ったことは一度もない」
「あーはいはい。お前に聞いたのが間違いだった」
レーヴはけらけらと笑う。
わざと声を大きくして、周囲の張り詰めた空気を強引に崩しにかかっている。
ミレアナは彼のその意図にすぐに気付いた。
「それとも何? 実はめちゃくちゃ偉い人でしたっていう肩書きの方が魔獣の群れより怖いわけ?」
「いや、怖いっていうかよ……」
話を振られた近くの席の冒険者が、居心地悪そうに頭を掻く。
「あの王都騎士団の、見るからに偉そうな騎士が直立不動で頭下げるレベルだぞ? ぶっちゃけ普通にビビるだろ、住む世界が違いすぎるっていうか……」
「はは、まあ、それもそうか」
レーヴは、なるほどねと笑う。
そして不意にミレアナへ、まっすぐ視線を向けた。
「でもさ」
その瞳が柔らかく細まる。
「アンタはアンタだし。急に中身が変わったわけじゃないしね」
「……」
「俺は最初に出会った時から『普通じゃないな』と思ってたよ」
さらりと言ってのける。
まるで「隠された背景」が何であろうと、今さらそれを確認しただけだと言いたげに。
その言葉にミレアナの胸の奥の塊が、少しだけ緩んでいく。
怖かったのだ。
本当の素性を知られた瞬間これまで築いてきた関係が一瞬で瓦解し、果てしない距離を置かれることが。
腫れ物を触るような態度に変えられてしまうことが。
だがレーヴは変わらない。
本当に、驚くほどに。
「……貴方、少しは動揺するということを知らないの?」
「んー?」
レーヴはスプーンを咥えたまま、少し考えるように首を傾げた。
「まあ確かにね。俺の予想よりはだいぶ……想定の斜め上を突っ走ってたけどさ」
「上?」
「うん。もっとこう、王都のどっかのでかい商家のお嬢様が親の過保護に嫌気が差して家出してきた、とかそのくらいかと思ってた」
「随分と狭い予想ね」
「だってアンタ、たまにめちゃくちゃ箱入りっぽいっていうか常識知らずなとこあるじゃん。世間知らずの極みっていうか」
「失礼ね」
ミレアナが侮辱を覚えて真顔になるとレーヴはそれがツボに入ったのか、急に吹き出した。
「あははっ! その顔、その顔!」
「……笑うところではないわ」
「いや、その至極真面目で澄ました完璧な顔のまま、世間知らずな反論してくるのが面白くてさ」
「……」
的確すぎて否定できないのが、ひどく腹立たしい。
ミレアナは悔しげに小さく眉を寄せる。
すると。
「───ミレアナ様」
頭上から、静かで重みのある声が降ってきた。
ユリウスだった。
幾分か冷静さを取り戻している。
「先程は配慮を欠いた行動、大変申し訳ありませんでした」
真っ直ぐで一片の曇りもない謝罪。
ミレアナは数秒の間彼を見つめて沈黙し、やがて小さく、溜息混じりに息を吐いた。
「……もういいわ。顔を上げてください、ユリウス卿」
ユリウスは僅かに安堵したように静かに目を伏せる。
だが、安穏とした時間は続かなかった。
「でもさ」
レーヴが底冷えするような笑みを浮かべて言葉を挟む。
「次また同じことやったら、俺アンタをつまみ出すからね」
再び空気が凍りつく。
「……レーヴ」
「いやだってさ。本人がこれだけ必死に隠したがってたんだからさ」
軽い口調、おどけたような仕草。
なのにその目は、寸分も笑っていなかった。
ユリウスが静かに、鋭く目を細めてレーヴを睨む。レーヴもまた、不敵な笑みを崩さないままその視線を真っ向から受け流す。
一瞬、言葉のない鋭利な殺気と意志が火花を散らしてぶつかり合った。
ミレアナはレーヴの意図に気付いていた。
この男はさっきからずっと、周囲の好奇の目からも自責に駆られる騎士の追及からも、自分を庇い守ろうとしてくれているのだと。
食堂を後にした後も、ミレアナは自身を取り巻く妙な視線としばらく付き合う羽目になった。
すれ違う冒険者たちが、遠巻きにちらちらとこちらの様子を窺ってくる。
中にはいつも通り声をかけようとするものの、結局何かに躊躇するように気まずく口を閉ざす者もいた。
ミレアナはそれらの反応をすべて、静かに正面から受け流して歩く。
慣れている。
彼女がかつて当然のように浴びてきた張り付いたような視線だった。
「……やっぱ、居心地悪い?」
すぐ隣から、レーヴが不意に顔を覗き込んできた。
ミレアナは一瞬言葉に詰まり、ほんの少しだけ視線を斜め下へと逸らす。
「別に」
「その、秒で返ってくる『別に』ってさ。大体、別にじゃないんだよなぁ、アンタの場合」
「貴方は、他人の言葉を信用しなさすぎよ」
「アンタが、本音を隠しすぎなの」
ミレアナは再び言葉を詰まらせる。
レーヴは彼女の困惑を察して、優しく笑った。
「ま、喋れとは言わないけどさ」
「……」
「たださ」
彼はまっすぐ前を向いたまま、どこまでも軽い調子で言葉を続ける。
「俺、今のアンタのが好きだよ」
どくりと胸の奥で、心臓が跳ねた。
ミレアナの足が僅かに止まる。
「……何を突然」
「え? 何が?」
レーヴは足を止めて心底きょとんとした顔で振り返る。
「いや、だからさ。王都がどうとか、どこのお偉い貴族様だとか、そういう難しい肩書きを全部抜いた、今のアンタって意味」
「……」
「余計なことで肩肘張ってない時さ、アンタって結構ちゃんと笑うじゃん」
さらりと言う。
あまりにも自然に、息をするように。
ミレアナは返答に完全に困ってしまった。
こういう台詞を、この男は平気で何でもない顔をして口にする。
だが不思議と激しい嫌悪を覚えるわけではなく、むしろその言葉がじわりと胸の奥を侵食していく。
「……貴方、本当に人との距離感がおかしいのよ」
「ははっ、アンタにだけはそれ言われたくねーわ」
「何故」
「へぇ、自覚ないんだ?」
レーヴが底意地悪く、けれど愛おしそうに目を細めて笑う。
「アンタさ、一度自分が『信用した』って決めた相手には結構無防備だと思うけど?」
その瞬間、ミレアナの脳裏へさっきまでの騒がしい食堂の景色が鮮明に過った。
周囲の冷ややかな視線、探るようなざわめき、品定めする値踏み。
息苦しかったあの空間の中で、レーヴだけは最初から最後まで何も変わらなかった。
彼女が何者であろうといつものように呆れ、いつものように笑いかけてくれた。
それが───自分が思っていたよりもずっと、孤独だった心を救ってくれたのだと気付く。
「……」
「ん? 何その顔」
「別に、何でもないわ」
「またそれだ」
レーヴが耐えかねたように吹き出す。
そして、その楽しげな空気を切り裂くように後方から低く硬い声が飛んできた。
「お嬢様」
振り返ると、そこには腕を組みじっと冷ややかな眼差しを向けているリオネルの姿があった。
「そろそろ無駄話はやめて部屋へ戻ってください」
「……厳しい監視ね」
「当然です。ご自分が病み上がりだという事実を、もうお忘れになりましたか?」
正論にミレアナが僅かに口を噤む。
すると、その様子を見ていたレーヴがわざとらしく両肩を竦めておどけてみせた。
「うわぁ、出た。保護者がこわーい」
リオネルの視線が一瞬にして絶対零度まで冷え切る。
「……貴様が妙な場所へ連れ回し、体力を削るような真似をするからだろう」
「えー? 俺はちゃんと美味いもん食わせて、休ませるために連れ出したっての」
「窓から平然と侵入するような人間の言葉を、信用できるはずがない」
「まだそのこと根に持ってるわけ?」
「当然だ」
ぴしゃりと言い放たれたリオネルの台詞。
二人のあまりにもいつも通りで噛み合わない応酬に、ミレアナは思わず「ふっ……」と小さく吹き出すように息を漏らした。
その僅かな変化をレーヴが見逃すはずもなかった。
彼は大きく目を丸くする。
「……あれ。今笑った?」
「……笑っていないわ。気のせいよ」
「いや絶対笑った。 今完全に口元緩んでた」
「本当に気のせいよ。視界の歪みか何かでしょう」
「えー、ケチ。もう一回見せてよ、今のやつ」
「嫌よ」
だが、レーヴは拒絶されたというのに妙に嬉しそうに目を細めていた。
その屈託のない笑顔を見た瞬間。
ミレアナはまたしても胸の奥が不規則に脈打ち、落ち着かなくなるのを感じていた。
今までの人生で、一度も学んだことのない知らない感覚だった。
張り詰めた心を解きほぐす安心とも、何かが決定的に違う。
この掴みどころのない男が自分へと向ける真っ直ぐな視線を、飾らないけれど温かい言葉の数々を。
“特別”なものとして受け入れている自分がいる。
───そのざわめきが一体何という名前の感情なのか。
それが何なのかは彼女にはまだ分からなかった。




