休めない人
結局、ミレアナが寝台で大人しく休んでいたのは二時間も持たなかった。
「……お嬢様、何をなさっているんですか」
冷徹さの中に深い諦めが混じった声が、頭上から降ってくる。
机に向かって一心不乱にペンを走らせていたミレアナは、重要書類を手に持ったまま顔を上げた。
昼過ぎ、本来なら高濃度の侵食魔力を浴びた身体を労り、寝台で横になっているべき時間だった。
「暇だったのよ」
「休養という言葉の定義をご存知ですか」
「言葉の意味くらい知っているわ」
「では何故、今まさに机に向かって執務に励んでいるんです」
「だから、暇だったからよ」
「堂々と開き直って同じ理由を繰り返さないでください」
リオネルが眉間を押さえ、深々と溜息を吐く。
その彼の手には、湯気を立てる薬湯の入った陶器のカップが握られていた。
ミレアナは一目でその中身を察し、僅かに眉を寄せる。
「……酷く不条理で、苦いものを持っているわね」
「よくお分かりで。お嬢様のための強壮・解毒薬です」
「……あまり飲みたくはないわ」
「今すぐ飲んでください」
一分の隙もない即答だった。
完全に逃げ道を塞がれ、ミレアナは静かに視線を斜め下へと逸らす。
だがその拒絶の姿勢を破るように、聞き慣れた軽い声が横から割り込んできた。
「うわ、すげぇ嫌そうな顔。まるで泥水でも差し出された子供だな」
ミレアナが驚いて振り向く。
いつの間に忍び込んだのか、レーヴが開け放たれた窓枠に器用に腰掛け長い脚をぶらつかせていた。
「……貴方、そんなところから入って来たの?泥棒の真似事はやめて」
「えー、普通に扉から入ろうとしたんだけどさ、リオネルが廊下で般若みたいな顔して薬煎じてたから」
「当然の対応だ。不審者は窓からでも叩き落とすべきだな」
リオネルの返答は極低温だった。
レーヴはそれを気にした様子もなく、ひらひらと軽薄に手を振る。
「で?お嬢様、ちゃんと休んでた?」
「……休んでいたわ。十分に」
「絶対嘘じゃん。その目は何かを企んでる時の目だ」
「二時間は寝台にいたわ」
「短っ!幼児の昼寝かよ」
即座に鋭いツッコミが飛んでくる。
ミレアナは反論できず僅かに口をへの字に結んだ。
レーヴは呆れたように大袈裟に肩を落とす。
「アンタさぁ、倒れた自覚ある?」
「何も生産しない時間が落ち着かないのよ。頭を動かしていないと、かえって体調が悪くなるわ」
「重症だなぁ、効率主義のワーカホリックかよ」
いつもの軽い口調。
けれど、その双眸から向けられる視線は呆れを通り越して妙に優しかった。
ミレアナは居心地の悪さを感じて、無意識に目を逸らす。
その瞬間レーヴが窓枠から音もなく床へ下り、机の上の紙束をひょいと指先で摘み上げた。
「ん?なにこれ。『地下水路の二次侵食範囲および魔力流動の相関整理』?」
「勝手に見ないで、返しなさい」
「え、これマジでアンタが今まとめたの?たった二時間で?」
レーヴが感心したように目を丸くする。
「騎士団への提出用に、私が先ほど書き起こしたの。公的な調査資料と照らし合わせると、汚染濃度と魔力流動の偏差に明らかなズレがある。恐らく、まだ未発見の汚染された支流が───」
「ストップ、ストップ!」
レーヴが苦笑しながら、遮るように両手を上げた。
「あのさ。それ、魔力酔いで熱出してる人間がやる仕事量じゃないって」
「これくらい普通よ。息をするのと同じだわ」
「アンタ基準の『普通』って、人間辞めてるレベルだから全く信用ならないんだけど」
さらりと言い放たれ、ミレアナは僅かに言葉を詰まらせた。
レーヴは紙束を丁寧に机へと戻しながら、ふっと静かに息を吐いた。
「そんなに四六時中頑張って成果出し続けなくたってさ、アンタの価値が下がったりしないでしょ」
その言葉がミレアナの指先を完全に凍りつかせた。
まただ、と思う。
時々、このレーヴという男は驚くほど自然に彼女の心の核心へ触れてくる。
土足で踏み荒らすわけじゃない。
無理矢理に秘密を暴くわけでもない。
けれど気付けば、彼女自身ですら見ないようにしていた一番触れられたくない脆い場所へ指先を届かせている。
ミレアナが視線を落とし、沈黙する。
代わりに、それまで静観していたリオネルが静かに口を開いた。
「……昔から、このお方はこうだ」
低く、重い声だった。
「高熱があろうと、剣で怪我をしていようと、常に責務を最優先される」
「リオネル、余計なことを言う必要はないわ」
「事実ですお嬢様。そして───」
リオネルの端正な横顔が僅かに歪む。
その声音には、王宮への微かな怒りと苦さが混じっていた。
「周囲の人間もそれを当然としていた。誰も、傷ついた貴女を労わろうとはしなかった」
ミレアナは何も言い返せなかった。
否定する言葉が見つからなかった。
それが彼女の生きてきた世界の「普通」だったからだ。
求められた期待以上の成果を出し続けること。
有能であり続けること。
それだけが自分が冷徹な王宮で必要とされ、居場所を許される唯一の手段だった。
「……やっぱ嫌だなぁ、そういうの」
ぽつりと、レーヴが呟いた。
ミレアナが顔を上げる。
レーヴは再び窓枠に背を預け頬杖をついたまま、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
「壊れるまで頑張ってる奴を見てさ『あいつは強いから平気だろ』って周りが都合よく放置すんの、胸糞悪いわ。……アンタさ、今だって結構無理してる顔してるし」
胸を突かれ、息が止まる。
無理をしている顔。
そんなもの、誰の目にも出しているつもりはなかった。
常に完璧な仮面を被っていたはずなのに。
「……何故、貴方にそんなことが分かるの」
「分かるよ」
レーヴは窓の外から視線を戻し、真っ直ぐに彼女を見て微笑んだ。
「ずっと、アンタのこと見てるからね」
あまりにも自然な飾らない声音だった。
だからこそ、ミレアナの胸が妙に熱く激しくざわつく。
論理的な言葉がどうしても続かない。
そんな彼女の動揺を察してかレーヴは少しだけ目を細め、悪戯っぽく話題を切り替えた。
「……で?」
「な、何よ」
「その、リオネルが持ってる見るからにマズそうな薬。ちゃんと飲む?」
視線がリオネルの持つカップへ向く。
ミレアナは、露骨に嫌そうな子供のような顔をした。
それを見てレーヴが耐えきれず吹き出す。
「あははっ!何その顔、分かりやすすぎ!」
「……苦いのよ。本当に」
「知ってる。俺もあの手の煎じ薬は大嫌い」
そう言いながら、レーヴは上着の懐をごそごそと探った。
そして取り出した小さな紙包みを机の上に置く。
「はい、これ」
ミレアナが怪訝そうにそれを開くと、中には透き通った琥珀色の砂糖菓子が入っていた。
「……何これ」
「口直し用。その怪しげな薬を全部飲んだ後に食べな」
「……私を子供扱いしているの?」
「してないしてない」
レーヴは片目を瞑って笑う。
「ただアンタ、どれだけ苦くても我慢して黙って飲み干しそうだからさ。そういうの、健気で偉いけど……ちょっと可愛げないよね」
「何故、薬を飲む話から可愛げの有無へ繋がるのよ」
思わず真顔で反論するミレアナを見て、レーヴはけらけらと楽しそうに笑った。
一方リオネルは無言のまま、机の上の砂糖菓子を厳しい目で見下ろしていた。
「……レーヴ。何だこれは」
「いや、ただの砂糖菓子だけど?」
「お嬢様に渡すものに毒物が混入していないか、私が先に毒見をする」
「警戒心強すぎだろ!ただの差し入れだって!」
「貴様から渡されるものは、すべてにおいて胡散臭さが拭えない」
「酷くない!?」
レーヴが心外そうに肩を落とす。
だがその隙に、ミレアナは意を決して薬湯のカップを手に取りそっと口を付けた。
舌を刺すような強烈な苦味に僅かに眉を寄せながらも、一気に飲み切る。
そして、すかさず琥珀色の砂糖菓子を口へと放り込んだ。
途端に広がる優しい甘さに、ミレアナは「はぁ……」と小さく張り詰めていた息を吐き出した。
その少しだけ肩の力が抜けた様子を見たレーヴが、ふっと笑う。
どこまでも優しく。
彼女の心が少しだけ救われたことを、心底喜ぶように。
そしてその飾らない本物の笑顔を見た瞬間。
ミレアナはまた胸の奥が甘酸っぱく、理由の分からないざわめきに満たされていくのを自覚していた。




