傷
部屋の中は静かだった。
地下水路に満ちていた悍ましい瘴気も、激しく交錯した剣戟の音も、今はもう遠い。
窓の外では朝の空がゆっくりと街の輪郭を照らし出している。
けれど室内には、言葉にできない張り詰めた空気だけが澱のように残っていた。
「……ああいうの、見たくないんだよ。もう」
レーヴの声は低かった。
いつもの軽薄な響きがどこにもない。
ミレアナは手にしたコップの、微かに揺れる水面へ視線を落とす。
───もう。
その一言だけで、すべてが分かってしまう。
過去形だ。
彼は以前にも、“誰かが自分を犠牲にする瞬間”を見せつけられている。
そしてそれはきっと、どれほどの年月が経とうとも簡単に忘れられるようなものではないのだ。
「……貴方にも、そういう相手がいたの」
気付けば、問いが口から零れ落ちていた。
レーヴが僅かに目を瞬く。
だが次の瞬間には、いつものように困ったように笑ってみせた。
「うわ。そこ踏み込む?結構えげつないとこ突いてくるね、お嬢様は」
「嫌なら答えなくていいわ。ただ、口滑らせただけよ」
「んー……」
彼は壁に背を預け、長い脚を無造作に投げ出した。
しばらくの間、何かを探すように天井を見上げた後ぽつりと言葉を零す。
「いた、かな」
どこまでも軽い言い方だった。
けれどその声音だけが、芯が抜けたように妙に空っぽだった。
「その人を……守れなかった?」
重ねて問い掛けると、レーヴはふっと自嘲気味に笑う。
「さて。どうだろ。守れなかったのか、そもそも守る価値もなかったのか……」
笑っている。
なのにその笑みはミレアナが今まで見た中で一番薄く、今にも消えてしまいそうだった。
ミレアナは静かに息を呑む。
───この人はいつも笑っている。
軽薄で、適当で、人懐こくて。
どんな最悪な状況でも、空気を一瞬で軽くするのが上手い。
けれど今初めて分かった。
それは優しさでも余裕でもない。
ただの防衛本能だ。
そうやって世界の温度を無理にでも軽くしていないと、自分自身が過去の重みに沈んでしまうから。
「……別にさ」
レーヴが視線を落としぼやいた。
「合理的に考えたらアンタの判断は百点満点中、二百点だったよ」
地下水路での戦闘。
変異体核の同期周期を崩すには、あの死線の渦中へ踏み込む必要があった。
誰かがやらなければ全滅していた。
だからミレアナは行った。
合理の天秤に従って迷いなく。
「でもさ」
レーヴはそこで酷く弱い笑みを浮かべた。
「アンタ、自分が壊れる前提でカードを切るだろ」
「……」
「それ、横で見てる側は結構キツいんだわ」
ミレアナは返答に詰まった。
レーヴの言わんとする感情が理解できないわけではない。
けれど自分を後回しにする思考回路は、彼女にとって呼吸と同じくらい当たり前のことだった。
王宮では常にそうだった。
感情より責務。
個人としての命より公爵家としての最適解。
それが普通だったのだ。
「……貴方は、違うの」
「違うね」
レーヴは即答した。
「俺、自分が一番大事だし」
「……」
「アンタのことも、同じくらい大事」
あまりにも自然に重い言葉を投げつけられて、ミレアナの精緻な思考が完全に停止した。
「……は?」
「え、何その顔」
「いや、その……何、を言っているの」
まともな言葉が出てこない。
レーヴは不思議そうに首を傾げた後、彼女の狼狽ぶりがツボに入ったのか堪えきれず吹き出した。
「あはは、何それ。分かりやす。可愛い反応すんじゃん」
「かわ……!」
ミレアナが顔を赤くして絶句した、その瞬間。
コンコン、と小気味よい音で扉が叩かれた。
「ミレアナ様。私です」
リオネルの声だった。
「入ってもよろしいですか」
「駄目だリオネル。今いい感じの雰囲気だから」
「斬る」
「物騒!冗談だって!」
間髪入れない即答。
ミレアナは反射的に額へ手を当てた。
「……入って、リオネル」
「失礼します」
扉が開き入ってきたリオネルは、まずミレアナの顔色を瞬時に見極め、次にレーヴへと冷徹な視線を向けた。
鋭い瞳が一段と細くなる。
「……何故、先ほどからそんなにお嬢様との距離が近いんだ」
「えー?心の距離が縮まったからじゃない?」
「物理的な距離の話をしている。今すぐ三歩下がれ」
「嫌だよ。今ちょっと信頼度が右肩上がりで上がってる最中なんだから」
「その信頼ごと、叩き壊す」
「だから解決方法が脳筋なんだって!」
いつもの安心すら覚える不毛な応酬。
不思議と室内の重苦しい空気が少しずつ和らいでいく。
リオネルはレーヴを完全に意識の外へ追いやると、ミレアナの前へ恭しく片膝をついた。
「熱は。体調はいかがですか」
「少し身体が怠いだけよ。問題ないわ」
「嘘ですね。顔色が悪すぎます」
「貴方達が目の前で騒ぐからでしょう」
「それは十中八九、レーヴのせいです」
「俺の扱い酷くない!?」
レーヴがわざとらしく肩を落とすが、リオネルは眉ひとつ動かさずにそれを無視した。
「お嬢様、本日は完全休養を」
「ギルドへの依頼報告があるわ」
「後ほど私が代行して処理します」
「地下水路の汚染区域の整理や、魔術式の残滓確認も……」
「すべてユリウス卿の騎士団が動いています。お嬢様の手を煩わせる必要はありません」
逃げ道を、完璧な論理の壁で綺麗に塞がれる。
ミレアナは逃げ場を失い僅かに眉を寄せた。
「……そんな風に言われても、暇なのだけれど。私は何をしていればいいの」
「休めない人種かよ、アンタは」
レーヴが心底呆れたように笑う。
「別に一日くらい、何もしない時間があっても世界は終わんないでしょ」
「時間は有限よ。無駄にするのは悪だわ」
「だから?」
「……」
また言葉が詰まる。
レーヴはその頑なな反応を見て、少しだけ目を細めた。
「アンタさ」
低く、けれど核心を突く静かな声だった。
「“役に立たない自分”になるのが、そんなに怖いんだ?」
胸を突かれ息が止まる。
完全な図星だった。
ミレアナ自身、これまでそこまで明確に言語化して自覚していたわけではない。
けれど王宮での彼女の存在価値は、常に“有能であること”のただ一点に集約されていた。
完璧な成果を出せるからこそ、必要とされる。
役に立つからこそ、居場所が許される。
逆に言えば、それを失い何の実績も出せないただの人間になった時、自分には何も残らないのではないか。
ずっと、心のどこかでその恐怖に縛られていた。
「……そんなこと」
否定しようとして───彼女の誇りは、嘘をつくことを拒んだ。
レーヴはそれ以上、彼女を追及して追い詰めるような真似はしなかった。
ただいつものように困ったように、少しだけ笑う。
「ま、すぐその思考を変えろとは言わないけどさ」
彼はすっと立ち上がった。
「少なくとも今は、俺たちのためにちゃんと休んで」
「……それは、命令?」
「いや。ただの俺からの『お願い』」
その言い方が妙にずるかった。
強制されれば反論の余地もあるのに、そんな風に真っ直ぐ願われては断りづらい。
ミレアナはしばらく黙り込み、やがて敗北を認めるように小さく息を吐いた。
「……少しだけよ。本当に、少しだけ」
「ん、それでいい」
レーヴが満足そうに笑う。
その笑顔はさっきまでの過去を想う薄いものではなかった。
どこまでも柔らかくて、彼女が言うことを聞いてくれたことに心底安心したような顔だった。
それを見た瞬間ミレアナの胸の奥が、また妙に小さくざわつき始める。
その温かい痛みの理由はまだ、全く分からなかった。




