知らない温度
会議室を出た後、ミレアナはギルドに預けていた調査資料の控えを受け取り静かに廊下を歩いていた。
すぐ隣にはリオネル。
そして数歩後ろからは、どこか気怠げな足音がリズムを刻みながらついて来ている。
「なぁ、ミレアナ」
レーヴが背後からひょっこりと顔を覗かせてくる。
「アンタ絶対、今日はもうすべての仕事を終わりにして、おとなしく部屋に戻るべきだと思うんだけど」
「まだ解析データの整理と、騎士団への引き継ぎ書類の作成が残っているわ」
「却下」
即答され、ミレアナが不満げに僅かに眉を寄せる。
「……貴方に私の行動の決定権はないでしょう」
「あるよ。俺が心配だから」
「破綻した主張ね。意味が分からないわ」
「俺は分かるからいいの」
さらりと言い返され、ミレアナは一瞬だけ言葉に詰まる。
レーヴはそんな彼女の頑なな様子を見て、くすりと楽しそうに喉を鳴らした。
「ほら見ろ。またそうやって、限界超えても『平気です』って無理する顔してる」
「……していないわ」
「してるしてる。その眉間にちょっとシワ寄せる癖、完全にアウトな時のやつだから」
軽い声音。
それなのに、こちらの本質を見透かしたような妙な断定感があった。
ミレアナは居心地の悪さに視線を斜め前へと逸らす。
すると。
「実際、お嬢様の顔色は優れません」
それまで黙っていたリオネルまで、淡々と追撃の一言を放った。
「レーヴの言い方は失礼極まりありませんが、主張自体は正論です。少し休息を取るべきです」
「リオネル、貴方まで……」
「事実を申し上げているまでです」
完璧に包囲され、逃げ道がない。
ミレアナは諦めたように「はぁ……」と小さく息を吐いた。
そんな彼女の様子を見ながら、レーヴがふと思いついたようにパチンと指を鳴らす。
「じゃあ、美味いもんでも食いに行こ」
「……随分と話が飛んだわね」
「飛んでない飛んでない。休むのが絶望的に苦手なら、せめて飯くらいちゃんと食えって話。身体を動かすための燃料補給だと思えば、アンタの好きな『合理的判断』だろ?」
確かに言われてみれば、昼前からほとんど何も口にしていない。
微かな空腹感は自覚していた。
だが。
「別に、宿に戻ってから適当に───」
「はい却下」
またしても被せるような即答だった。
「アンタ、宿に戻ったら絶対また隠れて資料触るでしょ。目に見えてるわ」
図星だった。
ミレアナが返す言葉を失って黙り込む。
それを見たレーヴが、勝ったと言わんばかりにニヤリと不敵に笑った。
「ほら見ろ、当たった」
「……」
「というわけで、今回は強制外出だ」
「横暴ね」
「病人相手に仕事を取り上げるのは、この街じゃ最上級の優しさなんだよ」
意味不明な独自理論だった。
けれど、いつもなら冷たく撥ね退けるはずのその強引さを強く拒絶する気にはなれなかった。
ギルドの重い扉を出ると、夕暮れの少し冷え込んだ空気がそっと肌を撫ねた。
地下水路の変異体事件以降、ボーデンの街にはまだどことなく張り詰めた空気が残っている。
それでも、大通りには確実に日常の営みがあった。
家路を急ぐ人々、威勢のいい露店の呼び声。
酒場から漏れ聞こえる粗野な笑い声や、肩を組んで歩く冒険者たち。
王都の洗練された静寂とは正反対の、雑多で泥臭い熱気。
ミレアナは歩みを止めず、静かに周囲の景色を見つめる。
以前の彼女なら、ただ騒がしく無秩序なだけの不快な空間だと切り捨てていただろう。
だが、最近はその喧騒が不思議と不快ではない。
少しずつ、この街の温度に慣れてきている自分がいることに気づく。
「で、お嬢様は何食べたい?」
レーヴが歩幅を合わせ、自然に横を歩きながら問いかけてくる。
「……何でもいいわ。お任せする」
「出た、一番困る『何でも』」
呆れたように笑われる。
「アンタさ、絶対に今まで『自分の好きな食べ物』とか考えずに生きてきたでしょ」
「必要最低限の栄養効率と、魔力循環に障りのない食材の選定は常に考えているわ」
「効率とか成分で飯を食うなっての。もっとこう、舌が喜ぶ感覚を大事にしなよ」
即座に返され、ミレアナは僅かに口を閉ざした。
そんな彼女にそんな価値観を教えた者は、これまでの人生に誰一人としていなかったからだ。
そんな二人の背後でリオネルが静かに瞳を細める。
「……貴様、先ほどからお嬢様との距離が近すぎる」
「え?」
「当然のように隣を歩くな。……半歩下がれ」
「えぇー、そこ怒られるの?リオネル厳しすぎない?」
レーヴが肩をすくめて笑う。
「本当に過保護だな」
リオネルの殺気混じりの視線を器にいなしながら、レーヴがふっとミレアナの顔を覗き込んできた。
「ちなみに、アンタは嫌?」
「何がよ」
「俺がこうやって、近くを歩いてるの」
あまりにも無防備な不意打ちだった。
ミレアナは一瞬だけ歩調を緩め、言葉を喉の奥で詰まらせる。
いつもなら「不快よ」と切り捨てるべき問い。
なのに彼女の口から出たのは、思いがけないほど小さな呟きだった。
「……別に。嫌というわけではないわ」
「へぇ」
レーヴが驚いたように目を瞬いた後、瞳を柔らかく細めた。
「それ、俺としては結構嬉しいかも」
「何故?ただの事実を述べただけよ」
「だって、アンタに明確に拒絶されてないってことでしょ?信頼度が上がってる証拠じゃん」
あっけらかんと嬉しそうに言われ、ミレアナはそれ以上どう返答すべきか困り顔を背けた。
その絶妙なタイミングで、レーヴが通り沿いに建つ一軒の店を指差す。
「よし、じゃあここに決まり」
そこは、大通りから一本入った路地にある小さな食堂だった。
木造のかなり年季の入った店構えだが窓からは温かみのある琥珀色の灯りが優しく漏れており、飾らない居心地の良さを漂わせている。
「見た目はボロいけど、ここの煮込みは絶品だから」
「レーヴの舌の基準が、あまり信用ならないのだけれど」
「酷くない?これでも美味い店探すのだけは得意なんだけどなぁ」
軽快に笑いながら、彼が木製の扉を押し開ける。
店内に足を踏み入れた瞬間、香ばしいハーブと肉をじっくり煮込んだ鼻腔をくすぐる温かな香りが三人を包み込んだ。
「あ、レーヴじゃん!」
奥から木製のお盆を抱えて現れた店員の少女が彼の姿を認めるなり、ぱっと顔を輝かせた。
「久しぶりー! 最近見ないから、てっきりどっかの行き倒れにでもなったかと思ったよ!」
「どーも。失礼なこと言うなよ、これでも大仕事を終えてきたとこ。三人、席いける?」
「ちょうど奥のテーブルが空いてるよ!こっちこっち!」
随分と店に馴染んでいる。
ミレアナはその様子を少しだけ意外そうに見つめ、パチパチと瞬きをした。
レーヴは慣れた自然な動きで奥の席の椅子を引き、「ほら座って」と促す。
ミレアナも言われるがまま、彼と向かい合う形で席へ腰を下ろした。
そしてミレアナがフードを外して顔を露わにした、まさにその瞬間だった。
「……えっ、嘘。お姉さん、超綺麗……!」
お冷を持って近づいてきた店員の少女が、ミレアナの顔を間近で見て文字通りお盆を持ったまま目を丸くした。
そして少女はレーヴとミレアナの顔を交互に見比べた後、満面の笑みで言った。
「もしかしてレーヴの恋人?」
───ぶふっ!! とレーヴが手元にあったお冷を盛大に吹き出した。
「ゲホッ、ゴホッ!待っ、お前何を――」
「違うわ」
ミレアナが即答した。
コンマ一秒の迷いもない、完璧な間髪を入れない否定だった。
一瞬、レーヴが激しく咳き込んだまま硬直する。
「……いや、否定のキレが早すぎて俺のガラスのハートが粉々になりそうなんだけど」
「当然でしょう。事実無根だわ」
「そうだけどさ、 もうちょっと言い方ってものがさぁ」
何故か傷ついたような顔をして胸を押さえるレーヴを見て、店員はケラケラと楽しそうに大笑いした。
「あはは!でもレーヴがこんな綺麗な人連れてるの初めて見た!いつもむさくるしい男連中ばっかりなのに!」
「語弊があるなぁ」
どこまでも騒がしく、けれど温かいやり取り。
ミレアナは二人の会話を静かに見つめながら、小さく瞬きを繰り返した。
───この人は本当にどこへ行っても、どんな身分や立場の人間が相手でも、自然に人の輪の真ん中へ入ってしまうのね。
それは王宮という「孤高」の中でしか生きてこなかった彼女にとって、少しだけ眩しく羨ましいものに映った。
同時に、そんな温かい空気の渦の中へ自分自身も当たり前のような顔をして引き込まれているという事実に、彼女はまだどうしても慣れることができずにいた。




