帰還と違和感
地下水路を脱出した頃には、空は白み始めていた。
冷えた朝靄が、激闘の熱を持った身体へゆっくりと染み込んでくる。
ボーデンの街並みはまだ眠りの中にあり、遠くで朝市へ向かう荷車の軋む音だけが日常の再開を告げていた。
「通路封鎖班は後続と合流しろ! 汚染区域への一般人侵入は厳禁だ。一欠片の結晶も見逃すな!」
ユリウスが、疲れを見せず騎士たちへ次々と指示を飛ばしていく。
その一方で、ルーファスは既に学者としての思考へ完全に切り替わっていた。
「結晶残滓の回収を急いでください。崩壊後の魔力反応を精密測定したい。第二変異体の理性維持構造も未解析です。あぁもう、人手が足りない……死体があれば解剖したかったのに……」
「アンタ、ほんと切り替え早いよなぁ。さっきまで全員死にかけてたろ」
レーヴが呆れ半分に笑う。
「合理性です。終わった危機を案じ続けるのは時間の無駄ですから」
「アンタまでそういうこと言う?」
軽口を返しながらも、レーヴの腕はまだミレアナの肩を支えたままだった。
「……もう歩けるわ。離して」
「駄目」
「軽度だと診断されたでしょう。自力で歩行可能よ」
「軽度でも倒れた。その事実は消えない」
「……」
即答だった。
ミレアナは小さく黙り込む。
以前の彼女なら、ここで「問題ない」と冷たく押し切っていただろう。
だが、なぜか今はその強い視線を拒絶しづらい。
隣から伝わる体温が妙に落ち着かなくて、けれど振り払う気にもなれなかった。
「お前」
低い、氷点下の声が横から飛ぶ。
リオネルだ。
鋭い瞳が、レーヴの腕を穴が開くほど凝視している。
「いつまで触っている。不敬だぞ」
「え、怖。目が笑ってないんだけど」
「離せ。お嬢様の重荷になる」
「いや、倒れるかもしれないじゃん。俺が支えてんだよ」
「ならば私が支える。貴様よりは安定しているはずだ」
「アンタ、絶対優しく支えないだろ。軍隊の行進みたいになりそうだし」
「必要ない。お嬢様が守られるべきは貴様の手からだ」
ミレアナは思わず額に手を当て、深い溜息を吐いた。
「……貴方たち、少し静かにできないの? 朝から騒々しいわ」
「「無理」です」
ぴったり重なった返答に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
あまりの息の合い方に、ミレアナの頬が微かに緩んだ。
「……ふ」
小さく、本当に、蕾が綻ぶように小さく。
ミレアナの唇から笑みが零れた。
その場の時が止まった。
「……え」
レーヴが彫像のように固まる。
リオネルまで、珍しく驚愕に目を見開いている。
「……何よ。人の顔を見て」
「いや、今……」
「笑った……。お嬢様が、あのような……」
「リオネル、アンタ今のは反則だろ! 先に言うなよ、俺が噛み締めてたのに!」
「意味が分からないのだけれど」
本人だけが、本気で自覚のない顔をしていた。
けれどレーヴはふっと目を細め、慈しむような視線を向けた。
「……そっか」
その声は、朝の静寂に溶けるほど静かだった。
「そうやって笑うんだ、アンタ」
ミレアナの胸が、不意にざわついた。
その言い方はまるで、ずっと探していた宝物をようやく見つけたみたいで。
そんな風に真っ直ぐ見つめられた経験など、これまでの人生には一度もなかったから。
ギルドへ戻った頃には、討伐成功の報は既に街を駆け巡っていた。
夜明け直後にもかかわらず、広間は異様な熱気に包まれている。
「おい見ろ、帰ってきたぞ! 」
「地下水路の最深部を潰したってマジかよ!?」
「第二変異体が出たって話だぞ……騎士団も手を焼いてたってのに……」
冒険者たちの視線が一斉に集まる。
だがその空気は、以前の「異物」を見るような警戒ではない。
畏怖と興奮と、そして純粋な敬意。
「なぁ嬢ちゃん、ほんとに元々令嬢なんだよな?」
「短剣一本で変異体の核をぶち抜いたって聞いたぞ。騎士より強えんじゃねえか?」
「いや、絶対そっちが本業だろ。令嬢はカモフラージュか?」
「違うわ。私はただの元令嬢よ」
ミレアナは真顔で否定した。
だが、周囲は愉快そうに野次を飛ばす。
「いや無理あるって! どこの令嬢が返り血浴びて変異体に突っ込むんだよ!」
ドッと笑いが起こる。
以前なら、彼女はこの乱暴な空気に戸惑い壁を作っていただろう。
けれど今は、少しだけわかる。
これは拒絶ではない。
自分たちが、この街の「仲間」として受け入れられ始めている証なのだ。
「お疲れさん」
受付奥から現れたギルドマスターのバッシュが、ニヤリと不敵に笑った。
「お前ら、もう完全にボーデンの有名人だな。特に嬢ちゃん」
「全然嬉しくないのだけれど」
「諦めろ。嬢ちゃんなんかもう、一部の連中から『黒髪の死神令嬢』とか変な二つ名つき始めてるぞ」
「何その物騒な名称……。誰が付けたの」
ミレアナが本気で嫌そうな顔をする。
レーヴは耐えきれず吹き出した。
「あっははは! 駄目だ、似合いすぎる!」
「どこがよ。不名誉だわ」
「いやだってアンタ、戦ってる時マジで急所しか狙わないし。慈悲がないだろ?」
「最短距離で無力化するのが最も合理的でしょう。……何故また笑うの」
「ほら、そういうとこ!」
周囲からまた笑いが起きる。
その時だった。
不意にぐらりと視界が回った。
「───っ」
ミレアナの身体が大きく揺れる。
レーヴの表情が瞬時に氷結した。
「ミレアナ!?」
「平気……ただの魔力酔いよ」
「平気じゃない」
和やかだった空気が、 一瞬で冷えた。
レーヴは有無を言わせず、彼女の膝裏に腕を通し、軽々と横抱き───お姫様抱きにする。
「なっ……!? 下ろして! 人が見ているわ!」
「部屋に戻る。今日は強制終了だ」
「歩けると言っているでしょう!」
「さっきも聞いた。その『歩ける』は信用しない」
「……」
完全に同じ返しに、ミレアナは言葉を失う。
周囲の冒険者たちは呆然と口を開けていた。
「え……」
「あのレーヴが、あんなに必死な顔すんのかよ……」
その声に、レーヴ自身も僅かに眉を寄せる。
だが今は自意識よりも優先すべきものがあった。
腕の中の彼女の身体が、妙に熱かった。
部屋へ戻ると、レーヴは乱暴なほど慎重にミレアナをソファへ座らせた。
「……水」
「自分でやるわ」
「却下。座ってろ」
即答しながら、水を満たしたコップを押し付けてくる。
ミレアナはしばらく無言でそれを口にした。
「……何故、そんな顔をするの」
「どんな顔だよ」
「今にも、誰かを殺しに行きそうな顔」
レーヴは一瞬呆けたように瞬きし、苦い笑みを浮かべた。
「……酷いな、これでも心配してるのに」
けれど、次に漏れた声は重く、低かった。
「怖かったんだよ」
「……」
「アンタ、平気な顔して死地に飛び込むだろ。自分の命をただの『計算資源』みたいに扱いやがって」
ミレアナの指先が僅かに止まる。
「合理的判断なのは分かってる。アンタが正しいのも分かってる。けどな……」
そこでレーヴは一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その瞳には深い後悔と、それ以上に暗い陰りがあった。
「……ああいうの、見たくないんだよ。もう二度と」
その声音は妙に静かで、そして孤独だった。
いつもの軽薄さも、冗談もそこにはない。
だからこそ、ミレアナは気づく。
この人は。
大切な何かを、残酷な形で失ってきたのだと。




