崩れた均衡
轟音の余韻がまだ通路全体へ不気味に響いていた。
黒い煙が立ち込め、砕け散った結晶の破片が瓦礫と共に降り積もる。
その凄惨な光景の中心で、赤い瞳の変異体がゆっくりとこちらを見下ろしていた。
「……まだ生きてるのですか、あの化け物は」
クラウスが苦々しく吐き捨てた。
先ほどの結晶の奔流で、自壊を含めて崩壊したはずだった。
だが変異体の巨躯は、むしろ先ほどより不気味に膨張している。
黒結晶が鼓動するように脈打つたび周囲の希薄な魔力まで強引に吸い上げ、己の糧にしているようだった。
「侵食濃度が、さらに上がっている……」
ルーファスが険しい顔で手元の術式盤を睨みつける。
「地下水路の核と完全接続する寸前だ。同期が完了すれば……」
「寸前ってことは、まだ間に合うんだな?」
レーヴが剣を構え直し、鋭い眼光で問う。
「……このまま進行すれば、個体としての自我が完全に消失し、都市規模の広域汚染源へと変貌します」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、変異体の赤い目がぎろりと一行を射抜いた。
ぞわりと猛烈な悪寒が走る。
次の瞬間、床が爆ぜた。
「っ!?」
巨体からは想像もつかない速度で、変異体がユリウスへと肉薄する。
「ユリウス卿!!」
騎士たちが叫ぶ。
だが、ユリウスもまた王都一級騎士の看板を背負っている。
即座に抜剣し、迎え撃つべく真正面から踏み込んだ。
金属が激突する轟音が響き、火花が飛び散る。
だが次の瞬間、ユリウスの顔色が劇的に変わった。
「重───ッ!」
力任せに押し切られる。
変異体の黒結晶化した剛腕が、剣ごと彼を後方へと弾き飛ばした。
「ユリウス!」
硬い壁へ叩きつけられる寸前、別方向から矢のような速さで飛び込んだ影がその身体を抱えて軌道を変えた。
レーヴだ。
「っと。危ねえな」
「……助かった」
「ボーッとしてると、そのまま結晶の飾り物になるよ」
軽口だが、その着地と身のこなしは異様に洗練されていた。
ユリウスは目を見開く。
今の最短距離での割り込み、そして衝撃を殺す足捌き。
それは間違いなく、騎士団の中枢でも最前線の実戦部隊でしか叩き込まれない技術だ。
「レーヴ、貴公は……一体どこでその───」
「質問は後で!」
即座に遮る。
次の瞬間、変異体が再び天を仰いで咆哮した。
無数の黒結晶の棘が、全方位へ向けて射出される。
「散開!!」
クラウスの怒声が響き騎士たちが左右へ飛び退く。
だが、ミレアナだけは動かなかった。
瞳を凝らし、変異体の魔力の揺らぎを凝視する。
違和感がある。
攻撃の予兆があるたびに胸部に埋まった赤黒い核が、一定のリズムで明滅している。
それはまるで心臓が全身へ血液を送るように、魔力を一点に集約させている合図だ。
「……ルーファス卿」
「何です、ミレアナ様」
「核に、明確な同期周期があるわ」
ルーファスの目が、知識を求める学者のように細まる。
「……続けてください」
「攻撃を放つ直前、ほんの一瞬だけ、全身の防御を解いて魔力循環を核へ集中させている。その瞬間だけは───」
「ッ……!」
ルーファスが即座に術式盤の数値を走らせる。
「本当だ…… 魔力の密度が逆転している」
空気が、反撃の予感に震えた。
「同期の瞬間の三秒間だけ、核の物理防御が極端に薄くなります」
「そこを叩けば、あの化け物は終わるんだな?」
レーヴが不敵な笑みを浮かべる。
「計算上は、確実に」
「よし、なら俺が───」
その瞬間レーヴが前へ飛び出そうとした時───ミレアナが、咄嗟にその腕を掴んで止めていた。
「……ミレアナ?」
レーヴが驚いた顔で振り返る。
ミレアナ自身も自分の行動が反射的だったことに驚き、指先が微かに震える。
「……一人で行かないで」
思わず、本音が零れていた。
レーヴが目を瞬き、周囲の喧騒さえも一瞬遠のいたように静まり返る。
ミレアナは、そこで初めて自分の感情を自覚した。
これまでの人生、自分が危険な役割を担うことには躊躇がなかった。
けれど、この男が傷つくかもしれない場所へ行くのは嫌だと思ってしまったのだ。
「……アンタ」
レーヴが小さく、くすぐったそうに笑う。
その声は驚くほど優しく、どこか嬉しそうだった。
「それ、自覚なしに言ってる? 結構恥ずかしいこと言ってるよ?」
「な、何を……私はただ、合理的な判断を……」
「いや、別にいいけど」
笑ったまま、彼はミレアナの手元を見つめる。
彼女の手は、まだ彼の腕を強く掴んだまま離れていなかった。
「あ……っ」
ミレアナは弾かれたように手を離し、視線を逸らした。
耳朶が、火傷しそうなほど熱い。
一方で、後方からリオネルの視線が音もなく静かに突き刺さっていた。
「お嬢様」
「……何、かしら」
「後ほど、少々お時間をいただけますか。じっくりと、お話を」
「……何故、そんなに笑顔なの?」
「ぜひ、お話を」
笑顔の裏にある絶対零度の圧に、ミレアナは背筋が凍る思いがした。
その時。
───ギィィィィ!!
変異体が再び空間を揺らすほどの咆哮を上げる。
核が赤黒く、激しく脈打つ。
「次が、同期の瞬間です……!」
ルーファスが鋭く叫んだ。
空気が張り詰める。
レーヴが剣を正しく構え直し、今度は真っ直ぐにミレアナを見つめた。
「……合わせてくれるか」
「……ええ。死なせないわ」
短く頷き呼吸を整える。
その瞬間、二人の意識と呼吸が鏡写しのようにぴたりと重なった。
赤黒い核が不気味に、そして激しく脈打つ。
───ドクン。
空間全体が震動し、大気が軋んだ。
「来るぞ!! 防御を固めろ!」
ユリウスの鋭い怒声が響く。
次の瞬間、変異体の全身から黒結晶が濁流のように噴き出した。
槍のように鋭利で凶悪な一撃。
通路そのものを物理的に埋め尽くす勢いで、襲いかかる。
「左、三度!」
ミレアナの凛とした叫びが飛ぶ。
レーヴは一瞬の躊躇もなく身体を極限まで捻った。
頬を黒槍が掠めるが、構わずに壁面を力強く蹴り一気に変異体との距離を詰めていく。
あまりに速い。
自分の五感よりもミレアナの指示を深く信じ切っているような危ういほどの連動だった。
「二秒後、正面の防御が開く!」
「了解!」
返答は短い。
考えるより先に、二人の感覚が一つに溶け合っていた。
ミレアナの視界には、もはや化け物の姿はない。
ただ一点、核の中で渦巻く魔力の流れだけを凝視する。
循環が止まり、魔力が一点に収束し───そして、弾ける。
「今!!」
刹那、レーヴが深く踏み込んだ。
剣が空気を裂く。
圧縮された膨大な魔力が、渾身の一閃と共に核へと叩き込まれた。
───ギィィィィィン!!
精神を逆撫でするような高音が鳴り響き、赤黒い核へ深い亀裂が走る。
「入った……!」
ルーファスが叫ぶ。
だが、変異体はまだ倒れない。
化け物が凄まじい絶叫を上げ、残った魔力を暴走させた。
「ッ、まだ足りないか……!」
レーヴが舌打ちする。
あと一撃、核を完全に粉砕する衝撃が必要だ。
しかし、変異体の巨大な腕が逃げ場を奪うように真正面からレーヴへと振り下ろされた。
「レーヴ!!」
ミレアナの足が、反射的に地を蹴っていた。
思考を挟む余地はなかった。
短剣を逆手に抜き、結晶の嵐の中を低く潜り抜ける。
「なっ───」
ユリウスが目を見開いた。
それは、王都で教育を受けた気品ある公爵令嬢の動きでは到底なかった。
無駄を削ぎ落とし最短距離で死地へ飛び込む、実戦狂の身のこなし。
ミレアナは深く身体を沈め、レーヴが作った亀裂のわずかな隙間へ正確に短剣を突き立てた。
狙うのは、魔力循環の唯一の継ぎ目。
「レーヴ、ここよ!!」
「っ、合わせる!!」
呼吸が完全に重なった。
レーヴの追撃がミレアナの突き立てた短剣を起点に炸裂する。
───砕けた。
赤黒い核が内部から爆ぜるように真っ二つに割れる。
一瞬、世界から音が消えた。
次の瞬間、変異体の身体中に白磁が割れるような亀裂が走る。
「が……ぁ……」
赤い瞳の光が弱まり、震える。
その目から黒い涙のような液体がひと筋、零れ落ちた。
「……たす、かった……」
それは地獄から救われた者のような、掠れた、けれど穏やかな声。
直後、変異体の巨躯は音を立てて崩れ落ち黒結晶は塵となって虚空へ消えていった。
後に残ったのは、静寂だけ。
「……終わりましたか」
クラウスが肩の力を抜き、低く呟いた。
ルーファスが即座に術式盤を叩く。
「侵食反応の急速な消失を確認。核、完全に沈黙しました」
その言葉で、ようやく全員が肺にある空気を吐き出した。
だが。
「───ミレアナ!」
レーヴの険しい声が静寂を破った。
「え……?」
ぐらりとミレアナの視界が不自然に歪む。
膝から力が抜け、冷たい石床が顔に迫る。
「っ……」
近づきすぎたのだ。
核が崩壊する瞬間に放出された、毒性の強い侵食魔力をまともに浴びてしまった。
倒れかけた彼女の身体を、レーヴが間一髪で抱きとめる。
「おい、しっかりしろ!」
「……平気よ、少し目眩がしただけ」
「全然平気そうに見えないんだよ、アンタは!」
余裕の欠片もない、切迫した声。
ミレアナはぼんやりと彼を見上げた。
またこの人は迷わず私に触れる。
誰よりも早く、迷わずに。
「……レーヴ」
「喋るな。ルーファス、早く診ろ!」
駆け寄ったルーファスが、迅速に診断の術式を展開する。
「……侵食自体は極軽度です。ですが、高濃度の魔力に直接触れたことによる魔力酔いを起こしています」
「……そうか。良かった……」
レーヴが心底から安堵したように息を漏らす。
その顔を見た瞬間、ミレアナの胸が締め付けられるように苦しくなった。
どうしてこの人はこんな顔をするのだろう。
まるで、自分の身体を削られるよりも私が傷つくことの方を恐れているみたいに。
「……アンタさ」
レーヴが腕の中の彼女を見つめ、低く言った。
「自分のことになると、無茶の基準が狂いすぎなんだよ」
「合理的判断よ。あそこを叩かなければ、貴方が危なかった」
「それ、さっきも聞いた」
「事実だもの」
「……まったく、恐ろしいお嬢様だよな」
半分怒ったような、けれど愛おしむような複雑な表情。
ミレアナは彼の瞳の奥にある感情を、少しずつ理解し始めていた。
この人はミレアナが傷付くと嫌なのだと。
それが何故なのかまでは、まだ分からないけれど。
一方で。
少し離れた場所から、ユリウスは無言でその光景を見つめていた。
そして静かに、悔恨を込めて目を伏せる。
(───あぁ、そうか)
彼はようやく悟る。
王都にいた頃、誰もミレアナをこのように見てはいなかった。
次代の希望として、冷徹な公爵令嬢として、あるいは政治の駒として。
役割でも立場でもなく。
ただ一人の女性として無条件に案じ、守ろうとする目。
彼女は今、人生で初めてその純粋な「光」を受け取っているのかもしれない、と。




