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最深部へ

旧貯水路区画へ続く通路は、地下水路とは思えないほど静まり返っていた。

絶え間なく響いていたはずの水音すら遠い。

代わり、粘りつくような重い沈黙が、じわじわと肌へまとわりついてくる。


「……嫌な魔力だな」


先頭を行く騎士の一人が、喉を鳴らすように呟いた。

誰も否定しなかった。

壁面には黒い結晶が細い血管のように四方八方へ広がっている。

以前にミレアナが目撃したものより、明らかに侵食の速度も密度も増していた。

ミレアナは歩みを止めず、冷静に周囲を観察する。


「結晶の成長方向が、一定の法則に従っているわね」


ルーファスが隣で眼鏡の位置を直した。


「気づきましたか」

「……中心点があるのでしょう?」

「ええ。まるで血液を運ぶ血管のように、一つの『心臓』から広がっている。つまり、明確な核が存在します」

「その核が、あの紋章だというの?」

「可能性は極めて高いでしょう」


淡々とした事務的なやり取り。

だが後ろに続く騎士たちは僅かに驚いた表情を浮かべていた。

知己を鼻にかけるルーファスがこれほど自然に他者へ説明を返す光景は、王都でも珍しかったからだ。

そしてその一方で。


「うわ」

 

レーヴが壁を凝視して顔をしかめた。


「どんどん増えてない? これ。ちょっとしたホラーなんだけど」

「不用意に触れないでください」

 

即座にルーファスが釘を刺す。


「侵食速度が未知数です。一度触れれば、あなたの魔力ごと吸い尽くされる可能性がある」

「分かってるって。そこまで命知らずじゃないよ」


軽く手を振るレーヴ。

だがミレアナは見逃さなかった。

彼は一度も結晶に近づきすぎない。

歩幅も旋回する時の角度も、妙なほど正確に距離を保っている。

それは危険性を熟知している者特有の動きだった。

その時、ふとレーヴの足が止まった。


「……レーヴ?」


空気が一瞬で変質する。

彼の表情から、いつもの不真面目な軽さが消え失せていた。


「止まって。全員」


低い、威圧感のある声。

全員が反射的に動きを止めた。

直後───。


───ギィィィィィン!!


鼓膜を突き刺すような金属音が、通路全体に鳴り響いた。


「っ!?」

 

床面に幾何学的な黒い魔術式が一斉に走り、不気味な光を放つ。


「罠です!!」

 

ルーファスの叫びと同時に、壁面の結晶が爆発的に膨張した。


「下がれ!!」

 

レーヴがミレアナの腕を強引に掴み、自分の背後へ引き寄せる。

その刹那、黒結晶の鋭い槍がつい数秒前まで彼女の頭があった場所を音を立てて貫いた。


「――ッ!」

 

ユリウスをはじめとした騎士たちが剣を抜く。

だが、遅い。

通路全体が巨大な生き物のように脈動し始めていた。


「侵食術式が起動した……! 核へ近づいたことで防衛反応を誘発したか!」

 

ルーファスの声が鋭く響く中、後方の騎士が悲鳴を上げた。


「ぐぁぁぁっ!!」


黒結晶が蛇のように足へ絡みつき、鎧を食い破ろうとしている。


「離れろ!!」


ユリウスが即座に踏み込み、結晶を断ち切る。

だが切断面から更なる黒い棘が、倍の速度で増殖した。


「再生している……!? 物理攻撃が効かないのか!」

「魔力供給源が近すぎるんです!」

 

ルーファスが舌打ちし、防護障壁を展開する。


「このままでは押し潰されるぞ! 埒が明かない!」


一気に張り詰める極限状態。

その中で、ミレアナは静かに周囲を見渡していた。

術式の循環、結晶の伸びる角度、魔力の脈動───。


そして、壁面のさらに奥。

岩盤に埋もれるように脈打つ、微かな“熱”を感じ取った。


「……あそこね」

「ミレアナ?」


レーヴが振り返る。

ミレアナは既に、腰の短剣を抜いていた。


「術式制御点があるわ。あそこを叩けば、この増殖は止まる」

「待て。アンタ、何する気だ」

「核を止めるのよ。このままじゃ全滅だわ」

「却下だ」

 

レーヴが即答した。


「間に合わないわ! 私が一番、術式の隙間が見えている!」

「だからって、アンタ一人で突っ込むな!」

 

珍しく、剥き出しの感情を乗せた強い声だった。

ミレアナは一瞬気圧される。

だが、彼女の瞳もまた揺るがない。


「最短距離なのよ。それが一番合理的だわ」

「それが嫌だって言ってんだよ!」

 

レーヴの目が鋭く、底冷えのする色に変わる。

普段の軽薄さが完全に削ぎ落とされた、冷徹なまでの真剣な顔。


「アンタさ、自分のこと雑に扱いすぎなんだよ」

「……っ」

「合理的だとか何だとか言って、その計算式に『自分が壊れるリスク』を入れてない。それは、自己犠牲っていうんだよ」


どくりとミレアナの胸が跳ねた。

図星だった。

自分を駒として使い、結果を出す。

それが、彼女がかつていた世界での「正解」だったから。


「……レーヴ」


リオネルが低く、だが重い声で割って入る。


「お嬢様の言う通り、核への到達は必須だ。これ以上の遅滞は全滅を意味する」

「分かってる」

 

レーヴは苛立ったように自分の髪を掻き上げた。

そして、短く舌打ちする。


「……俺が行く」

「えっ?」

 

ミレアナが驚愕に目を見開く。


「アンタは後ろで指示しろ。俺はあんな細かい文字、読むだけで頭痛がするからな」

「危険よ! 貴方に術式を解く技術はないでしょう!」

「知ってる。だから、力ずくでこじ開けてやるんだよ」

 

レーヴが笑う。

だがその笑みはどこか悲しげで、苦かった。


「アンタに行かせるくらいなら、俺が泥を被ったほうがマシなんだよ」


ミレアナは息を止めた。

周囲の騎士たちの叫び声や、結晶が削れる轟音が遠のいていく。

この男は、本気で。

合理性も損得も抜きにして、ただ、ミレアナ・リステルという人間が傷つくことを、心から拒絶している。


「……馬鹿ね。本当に」

「よく言われるよ」

「同意見だな」


リオネルが真顔で同意した。


「おい、お前までミレアナの味方すんなよ」


その瞬間───。

───ゴォォォッ!!

通路の奥で巨大な黒結晶が鼓動を速めた。

空間そのものが歪み始める。


「まずい……核が暴走を始めた! 加速している!」

 

ルーファスの悲鳴に近い叫び。


「時間切れか。しゃあねえな」


レーヴが腰の剣を抜いた。

その瞬間空気が変わった。

ぞくりとミレアナの背筋を言いようのない悪寒が走る。


その構え、重心の置き方、剣の握り方。

一瞬前までの「お調子者の冒険者」の姿はどこにもない。

そこにあるのは死線を幾度も潜り抜け、敵を屠るためだけに磨き上げられた、絶対的な“強者”の気配。

(訓練された……軍人? いいえ、それ以上の……)


「レーヴ!」


思わずその名前を呼ぶ。

彼は振り返らないまま空いた左手で軽く、いつものようにひらひらと手を振った。


「ちゃんと戻るから。アンタは、そこで見てな」


その声だけがあまりにも優しく、ミレアナの耳に残った。

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