零れた本音
重たい沈黙が会議室へ静かに落ちていた。
ユリウスは目を伏せたまま、それ以上言葉を続けない。
その沈黙は、かつて王都で彼が守ろうとしていた「虚像」への弔いのようでもあった。
クラウスが小さく肩を竦め、事務的に空気を切り替える。
「では改めて。地下水路再調査の編成についてですが───」
「待ってください」
今度口を開いたのは、ルーファスだった。
淡々とした抑揚のない声音。
けれどその眼鏡の奥の視線は、真っ直ぐにミレアナを射抜いている。
「私は、彼女の同行に賛成です」
空気が僅かに揺れた。
ユリウスが不快そうに眉を寄せる。
「ルーファス卿、正気か。彼女は民間人だぞ」
「彼女は優秀だ。それ以上の理由が必要ですか?」
即答だった。
「状況分析能力、判断速度、空間把握。昨夜の動線整理の速さだけでも、そこらの騎士を凌駕している。現場に置かない方が、資源の無駄であり非合理的でしょう」
「……貴方は」
ユリウスの声が怒りで低くなる。
「彼女を、ただの『道具』として見ているのか」
「道具でしょう。違いますか?」
静かな、だが残酷な返答。
「彼女自身も、“役に立つこと”を最優先して動いている。私の判断は彼女の意思とも合致しているはずだ」
ミレアナの指先が僅かに止まる。
否定できなかった。
昔からそうやって生きてきた。
誰かに必要とされるために。
自分という存在に価値を付与するために。
完璧に役に立つ「装置」であろうとしてきた。
そうしなければ、この世界に居場所などないと思い込んでいたから。
「……アンタさ」
不意に、レーヴが低く口を開く。
いつもの軽薄な響きが、綺麗に消えていた。
「そういう言い方しかできないわけ?」
ルーファスが冷徹な視線を向ける。
「客観的な事実を述べただけですが」
「だからアンタ、嫌われるんだよ。性格の悪さが服着て歩いてるみたいだな」
「……心外ですね」
「いや、絶対嫌われるタイプ。断言するわ」
クラウスが思わず吹き出しかけ、拳を口元に当てて咳払いで誤魔化した。
だが、レーヴは笑っていなかった。
「ミレアナが役立つなんて、言われなくても知ってる」
静かな、確信に満ちた声。
「でも、それだけじゃないだろ」
ミレアナが目を瞬く。
「頭は回るし意外と強いし、そのくせ無茶ばっかりするし」
「……褒めているのか貶しているのか分からないわね」
「半々だよ」
レーヴは即答し、次の瞬間少しだけ真剣な瞳で彼女を見つめた。
「でもさ。アンタ、自分が傷つくことに対して平気な顔しすぎなんだよ」
どくりと心臓が不器用に脈打った。
ミレアナは呼吸を止める。
「合理的だの必要だの理屈こねて、自分を一番後回しにするの。横で見てて、普通にムカつくんだけど」
怒鳴っているわけではない。
むしろ、諭すような穏やかささえあった。
それなのに不思議なくらい、その言葉は鋼の鎧を抜けて彼女の胸の奥深くへ突き刺さった。
王都では誰も言わなかった。
必要だ、完璧だ、役に立つ。
それらはすべて、彼女が提供する「成果」への称賛だった。
傷つくな、なんて。
自分を大事にしろ、なんて。
そんな風に一人の人間として案じられたことは、一度もなかった。
「……レーヴ」
諌めるような声でリオネルが声を掛ける。
レーヴはそこでようやく、自分が少し感情的になっていたことに気づいたらしい。
「あー……いや。別に説教したいわけじゃなくて」
「……しているわよ。十分にね」
ミレアナが小さく返す。
「うわ、反論きた。怖い怖い」
「当然でしょう」
ミレアナの声が、ほんの少しだけ柔らかく解けた。
それに気づいたのは、長年彼女の傍にいたリオネルだった。
彼は静かに主を見守る。
最近、彼女の表情が増えた。
感情を凍らせていた頃よりも、ずっと人間らしい揺らぎが見える。
───その原因が誰なのか。
もはや問うまでもないことだった。
「……失礼した」
ユリウスがぽつりと呟いた。
彼は苦い顔のまま、ミレアナへ深く頭を下げた。
「私は、昔と同じ感覚で貴女を見ていたようです」
「ユリウス卿……」
「貴女は守られるべき『籠の中の小鳥』であるべきだと、勝手に決めつけていた。ですが今の貴女は、私の知る頃より……ずっと、自由に見える」
ミレアナが僅かに目を見開く。
王都では常に役割が自分を追い越し、ミレアナ・リステルという個人の輪郭は霞んでいた。
だが今は、酒場で冒険者が騒ぎギルド職員が笑い、レーヴがくだらないことで絡んでくる。
騒がしくて乱暴で、洗練されていないこの場所。
それなのに、ここにいる時だけ彼女は生まれて初めて「呼吸」ができているような気がした。
「……そうね。まだ、少し慣れないけれど」
ミレアナの小さな呟きに、レーヴがふっと笑う。
「慣れたら、アンタもっと面白くなりそうだな」
「どういう意味かしら。今でも十分、面白いことが起きすぎているけれど」
「いや、今でも結構世間知らずでズレてるし?」
「……喧嘩、売っているのね?」
「違う違う、個性の話ー」
ひらひらと手を振るレーヴ。
その軽妙さに、張り詰めていた空気が緩む。
だが、その安らぎを切り裂くように扉が叩かれた。
「失礼します!」
若い騎士が飛び込んできた。
その顔色は蒼白だ。
「地下水路第二封鎖区域にて、新たな侵食反応を確認! 汚染濃度が急上昇しています!」
室内の温度が一気に下がった。
「場所は?」
クラウスが鋭く問う。
「旧貯水路区画です! ですが、それだけではありません。現場に……“紋章”が遺されていました」
「紋章だと?」
「はい。黒い結晶を媒体にして描かれた、見たこともない術式紋です」
その瞬間、ルーファスの目が冷酷に細められた。
「……なるほど。ようやく、尻尾を出しましたか」
合理主義の塊である彼が、初めて明確な「敵意」を滲ませた。
そしてレーヴもまた、その顔から笑みを消していた。
その瞳にはこれから始まる凄惨な事態を、最初からすべて予見しているような、暗く深い影が落ちていた。
「紋章はどこです」
ルーファスが立ち上がる。
そこには先ほどまでの静かな理知的態度とは違う張り詰めた鋭さがあった。
若い騎士が慌てて地図を机に広げた。
「旧貯水路区画の最深部です。封鎖班が接近を試みましたが、周辺の魔力濃度が異常値を示しており───」
「近づけなかった、と?」
「……はい。防護術式を上回る侵食速度でした」
ルーファスが、露骨に舌打ちをする。
彼のような男が見せる、初めての感情的な苛立ちだった。
クラウスが眼鏡のブリッジを押し上げ眉を寄せる。
「そんなにマズい代物ですか?魔術院の領分でしょう」
「最悪です」
即答だった。
「もし私の予想通りなら、これは単なる自然発生的な汚染事件ではない」
ルーファスは白手袋をはめた指先を地図の一点に置く。
「“術式”です。天然の結晶成長ではあり得ない指向性を持っている」
ざわりと室内の空気が揺れた。
「誰かが意図して、この街全体へ侵食を広げている。地下水路を巨大な魔路として利用しているんです」
「目的は何だ。街を壊滅させることか?」
ユリウスが剣の柄を握り、低く問う。
「現時点では不明。ですが黒結晶は単なる媒体、あるいは燃料に過ぎない可能性があります」
「……ねぇ」
不意に、レーヴが口を開いた。
「その紋章って、力ずくでぶっ壊せば終わる話なの?」
ルーファスが冷淡な視線を向ける。
「単純な話ではありません。それが術式核なら破壊は有効でしょうが、暴走時の反動が読めない。魔力が一気に噴出すれば───」
「街ごと吹っ飛ぶ可能性もある、と」
「あり得ます。少なくともこの区画は地図から消えるでしょう」
軽く言えるような内容ではなかった。
室内の空気が鉛のように重く沈む。
だが。
「ふーん……」
レーヴの声は、妙に落ち着いていた。
ミレアナは横目で彼を観察する。
この男は普段軽薄でいい加減な振る舞いをするくせに、本当の土壇場になると逆に不気味なほど静かになる。
「……レーヴ。何か知っているのかしら」
一瞬だけレーヴの瞳の奥が揺れた。
「んー……」
彼は曖昧に笑い、視線を地図へ戻す。
「嫌な感じがするだけだよ。昔の古傷が痛むような、そんな感覚」
「曖昧ね」
「冒険者に理屈を求めないでよ。勘って大事だからね?」
軽い返答。
けれどミレアナには確信があった。
今、意図的に彼は何かを隠した。
核心に触れる部分だけを覆い隠した。
ルーファスもその違和感に気づいたのだろう。
細い銀縁眼鏡の奥の視線がレーヴへ向く。
「貴方は以前、類似の事例を見たことが? 王都の禁忌術式、あるいは───」
「ないない。俺はただのしがない冒険者。そんな仰々しいもんに縁があるわけないじゃん」
あまりにも早すぎる否定。
空気が僅かに張り詰め、二人の視線が空中で交錯する。
「……そうですか」
ルーファスはそれ以上追及しなかった。
だが、完全に疑いの色を瞳に刻んだ。
ミレアナは静かに息を吐く。
ずっと感じていた違和感。
王族や軍の機密を知る者特有の身のこなし。
異常事態への不自然なまでの慣れ。
そして時折見せる、奈落のような底知れない冷たさ。
この男は本当に何者なのだろう。
「先行調査隊を編成します」
クラウスが空気を切り替えるように告げた。
「ルーファス卿、ユリウス、君たちの騎士団。それから───」
「俺も行くよ。案内役が必要だろ」
レーヴが当然のように手を挙げる。
「お嬢様も同行いたします」
リオネルも間髪入れずに続いた。
ユリウスが眉を寄せる。
「危険度が未知数だ。騎士団の少人数精鋭で動くべきではないか」
「ならば余計に適任でしょう」
リオネルが静かに、だが威圧感を持って返す。
「お嬢様は既に現場経験があり、魔力の微細な変化を誰よりも早く察知できる」
「ですが……!」
「ユリウス卿」
ミレアナが口を開いた。
「私は、自分で行くと決めています。これは私の依頼でもあるわ」
静かな声。
けれど、鋼のような意志が宿っている。
ユリウスは一瞬黙り込み、やがて打ち負かされたように息を吐いた。
「……承知しました。その代わり、私の目が届く範囲にいてください」
「決まりですね。出発は三十分後に」
クラウスが地図を丸める。
会議室は一転して戦場のような慌ただしさに包まれた。
そんな喧騒の中。
「ミレアナ」
不意にレーヴが隣から小さく呼んだ。
「何かしら」
「ちょっと」
手招きされミレアナが怪訝そうに近づくと、彼はさらに声を落とした。
「無理しすぎないで。本当に」
「……またそれ? 貴方、心配性が過ぎるわよ」
「またそれ。アンタの合理性には、時々『自分がどうなってもいい』っていう自己犠牲が混ざってる。それが嫌なんだよ」
「……混ざっていないわ」
「いや、混ざってる」
レーヴは真顔だった。
ミレアナは言葉に詰まり、思わず視線を泳がせる。
その時不意に、レーヴの手が伸びた。
「!」
軽く、羽が触れるような慎重さで。
彼の指先が、ミレアナの額に触れる。
「……熱はなさそうだな」
「……何をしているの、貴方」
「顔色が悪い気がしたから、確認」
「何故触る必要があるの。言葉で聞けば済むでしょう」
「なんとなく」
あまりにも自然で下心を感じさせない動作。
ミレアナは完全に硬直した。
王都では、触れられることは「儀式」か「政治」だった。
意味を持たない接触など、彼女の人生には存在しなかった。
ふと少し離れた位置から、凍りつくような殺気が飛んできた。
リオネルの視線だ。
「レーヴ」
「はい?」
「その手を離せ、今すぐ」
「えっ、顔がマジだ。怖っ!」
レーヴが即座に離れる。
だがミレアナの胸の奥は、先ほどとは違う理由で騒がしかった。
ただ心配だから、ただそこにいるから。
そんな純粋な理由で触れられた経験が、彼女の心を揺さぶっていた。
「……行くわよ。準備があるわ」
誤魔化すように踵を返す。
背後でレーヴが小さく、けれど楽しそうに笑った。
「うわ、ミレアナ。耳赤い」
「赤くないわ」
「いや、絶対赤いって」
「お嬢様」
リオネルが静かに横へ並ぶ。
「大丈夫ですか」
「何がかしら」
「……いえ。何でもありません」
リオネルはそれ以上言わなかった。
だが、彼もまた気づいていた。
ミレアナ・リステルという冷たい彫像が、この騒がしい男の手によって少しずつ、けれど確実な体温を持ち始めていることに。




