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王都の影

ギルド上階の会議室前には、昨日までとは比較にならないほど重苦しい空気が漂っていた。

整然と並ぶ王都騎士団。

神経質そうに杖を握る魔術院の術師。

そして、見慣れない紋章を胸元に付けた冷徹な空気を纏う文官たち。

行き交う人間の数も放たれる魔力の密度も、明らかに街の規模を超えている。


「うわぁ……見るからに面倒くさそうなのが増えてる」

 

レーヴが顔をしかめ、心底嫌そうに吐き捨てた。


「貴方、少しは隠す気ないの?」

「今さらお行儀よくしたって手遅れでしょ」


小声で軽口を叩き合う。

だが、ミレアナの背筋は自然と強張っていた。

これは、王都の空気だ。

笑顔の裏で相手を値踏みし沈黙の裏で急所を探り合う、あの反吐が出るような息苦しさ。

かつて自分がその中心にいたという事実を、身体の節々が忌まわしく思い出していた。


「お嬢様」

 

リオネルが半歩前へ出る。

主を周囲の視線から遮るような、無言の庇護。

その時。


「───来ましたか」

 

低い、よく通る声が響いた。

会議室の奥。

窓際で街を見下ろしていた男が、ゆっくりと振り返る。

濃紺の重厚な外套。

知性を誇示するような銀縁眼鏡。

隙なく整えられた灰色の髪。

年齢は四十代半ばほどだろうか。

彼は貴族特有の、洗練された「柔らかい笑み」を浮かべていた。


だが、ミレアナの背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。

この手の男を、彼女は嫌というほど知っている。

笑みを絶やさず事務的な手際で平然と他人を切り捨て、奈落へ突き落とす人種だ。


「王都監査局所属、クラウス・ヴェルナーです」


男は完璧な角度で一礼した。


「此度の異常事態について、王都側との連携および事後調整を任されています」

「監査局ぅ?」


レーヴが露骨に顔を歪めた。


「うわ、嫌な響き。耳が腐りそう」

「率直ですね、冒険者殿」

「それ、褒め言葉として受け取っていいわけ?」

「いいえ。単なる観察結果です」


即答だった。

クラウスの目は笑っているが、その奥底にあるのは凍てついた計算機のような光だ。

ミレアナは唇を噛み、静かに男を凝視する。

監査局。

表向きは王国の不正調査機関だが、実態は貴族や王家の「不都合」を秘密裏に処理する掃除屋でもある。

つまり、この場にいる誰よりも厄介な存在だ。

クラウスの視線が、ふとミレアナに止まった。


「……失礼ながら、どこかでお会いしましたかな?」


どくりと心臓が跳ねる。

だがミレアナは表情を一切動かさず、冷ややかな視線を返した。


「気のせいでは。私はただの、流れの冒険者です」

「そうでしょうか。その立ち居振る舞い……」


探るような視線が彼女をなぞる。

けれど。


「まぁ、いいでしょう。今はそれよりも優先すべきことがあります」


クラウスはあっさりと引き下がった。

それが逆に、獲物をじっくり追い詰める蛇のような不気味さを際立たせる。


「現在、地下水路周辺では二次汚染が確認されています。住民の一部にも精神汚染による狂乱症状が発生している」


クラウスが重い資料を机へ置く。


「魔術院は結晶の解析。騎士団は物理的封鎖。ギルド側には引き続き、現場での実働協力を要請します」

「要請、ねぇ」

 

レーヴがぼそりと毒づいた。


「実質、強制執行でしょ」

「察しが良くて助かります」

「最悪だ」


レーヴの目は全く笑っていなかった。


「それと」

 

クラウスが淡々と続ける。


「地下水路内部の汚染源を断つため、新たな精鋭調査隊を編成します」

 

室内の空気が一気に張り詰める。


「内部構造が複雑すぎて、通常の騎士団部隊では追跡が困難だ」

 

そこで、男の鋭い目が真っ直ぐにレーヴを射抜いた。


「貴方は現地での戦闘経験、および生存経験がある。同行してください」

「……あーあ、嫌な予感がしてたんだよねぇ」

「同行をお願いします。協力要請です」

「やっぱり。逃げ道なしってわけだ」

 

レーヴが露骨に両手で顔を覆い、深いため息をついた。

だが次の瞬間、静寂を切り裂くように凛とした声が響く。


「───なら、私も同行するわ」


ミレアナの宣言に、室内の全員の視線が集中した。


「お嬢様!」

 

リオネルが低く、制止するように彼女の肩を掴もうとする。

だがミレアナは引かなかった。


「地下水路の構造は既に一部把握している。魔力汚染の感知も含め、私が行った方が効率的よ。違う?」

「効率、ねぇ……」

 

レーヴがぼやくが、その顔には「放っておけない」という隠しきれない懸念が滲んでいた。


「アンタ、そうやってまた自分を危険な方に放り込む」

「必要ならやるわ。それだけよ」


すると、空気を一変させる足音が廊下から響いた。

扉が再び勢いよく開かれる。


「失礼します。第二陣の配置、完了しました」

 

静かだが、鋼のような芯のある声。

入ってきた人物の姿を捉えた瞬間、ミレアナの呼吸が止まりかけた。

汚れ一つない白銀の制服。

王都騎士団上級騎士の証。

そして、そのあまりにも見慣れたかつての自分の「日常」にいた顔。


「───ユリウス……」

 

無意識に、秘めていた名前が唇から零れた。

入室した騎士の目が見開かれる。

その視線がミレアナを捉え、震えた。


「……ミレアナ様……? 何故、このような場所に……っ」


会議室の空気が、一瞬で凍りついた。

ユリウスと呼ばれた騎士は、扉の前で石像のように完全に固まっている。


掠れた声が沈黙を裂く。

ミレアナの指先がドレスの裾を掴む癖の名残か、冒険者服の太腿のあたりで僅かに震えた。


知っている顔だ。

王都騎士団所属、ユリウス・フェイン。

かつて王太子マティアスの近衛を務めていた男。

そして、凍てつくような孤独の中にいた婚約者時代のミレアナへ、数少なく立場を超えて誠実に接してくれた数少ない騎士でもあった。


「知り合い?」


レーヴが静かに呟く。

いつもの軽い声だった。


「王都騎士団の方よ」


ミレアナは喉の奥にせり上がる動揺を押し込み、努めて平坦に返した。

だが、ユリウスはまだ呆然としていた。


「何故……」


その目が、ミレアナの姿を舐めるように追う。

機能性を重視した冒険者用の軽装。

腰に帯びた使い込まれた短剣。

乱雑にまとめられた髪。

王都にいた頃の宝石を散りばめた絵画のような彼女とは、あまりにもかけ離れている。


けれど、間違えようがない。

あの頃誰よりも静かに、誰よりも完璧に王宮の執務を支えていた公爵令嬢。

その完璧さゆえに感情すら見えなかった孤独な女性。

それが今、こんな最果ての辺境都市で薄汚れた冒険者たちと肩を並べて立っている。


「……ご無沙汰しております、ユリウス卿」


ミレアナが先に、沈黙に楔を打ち込んだ。

その声音は、驚くほど落ち着いていた。

昔と同じ、一切の感情を剥ぎ取った完璧な「貴族令嬢」としての響き。


だが、レーヴだけは気づいていた。

彼女の細い肩が、今にも折れそうなほど強張っていることに。


「本当に……貴女なのですね。生きて、おられた……」


ユリウスが、救いを求めるかのように一歩近づく。

だが次の瞬間。

すっとレーヴが極めて自然な動作で、ミレアナの前へ半歩出た。

物理的に彼女を視界から隠す、明白な拒絶の距離。


「……何の真似だ」

 

ユリウスの目が鋭く細まる。

レーヴは笑った。

唇の両端を吊り上げた、いつもの軽い笑み。

だがその双眸には氷のような冷徹さが宿り、微塵も笑っていない。


「いや別に。感動の再会でしょ? 話、続けて?」

「……」


空気が僅かに鳴動する。

監査局のクラウスがその様子を面白そうに、観察対象として眺めていた。

一方で、リオネルはいつでも剣を抜けるよう完全に戦闘態勢へ移行している。

ユリウスは数秒黙り込み、拳を握りしめてから静かに息を吐いた。


「……失礼しました」

 

一歩下がる。


「ただ、あまりにも突然のことで、取り乱しました」

「ええ」

 

ミレアナは短く返す。

それ以上一歩たりとも過去へ踏み込ませない、峻烈な拒絶を含んだ声音。

だが、ユリウスは縋るように口を開いた。


「殿下は、貴女が消えた後───」

「ユリウス卿」


遮ったのは、ミレアナだった。

ぴたり、と鼓動さえ止まるような静寂。

彼女は静かに刃のような冷たさを湛えて言った。


「その話は、今この状況で必要かしら」


穏やかすぎて、かえって残酷な声。

ユリウスが言葉を詰まらせ、息を呑む。


「……いえ。過ぎたことを」


苦い沈黙が落ちた。

レーヴは黙ったまま横目でミレアナの横顔を見る。

今の一瞬だけ、彼女は完全に「以前のミレアナ・リステル」に戻っていた。

隙のない佇まい。

感情を鉄格子の向こうに閉ざした目。

初めて会った頃の、あの死人のような彼女に。


(───あぁ)

レーヴは思う。

この人はこうやって、ずっと自分を殺して生きてきたんだな、と。


「では、話を戻しましょうか」


クラウスが舞台を整えるように割って入った。


「地下水路再調査は本日より開始します。先行班の編成は───」

「待ってください」

 

不意に、ユリウスが抗議の声を上げる。

その視線はミレアナへ向いていた。


「彼女を同行させるおつもりですか。無茶だ、危険すぎます」

「危険だから何?」

 

レーヴが即座に、吐き捨てるように返した。

火花が散る。


「……貴公、名は」

「レーヴ。ただの冒険者」

 

にこやかな笑顔。

だが、放たれる言葉は刺々しく鋭い。


「アンタ“危険だからお嬢様は下がれ”って顔してるけどさ」

「当然でしょう」

 

ユリウスの声が低く、威圧感を増す。


「彼女は本来、このような泥にまみれた場所にいるべき方ではない。王都の高貴な場所にこそ相応しい」


その瞬間、ミレアナの目が僅かに揺れた。

王都で呪文のように何度も聞かされてきた言葉。

公爵令嬢だから、王太子妃候補だから。

相応しく、飾られていなさい。


「へぇ」

 

レーヴが、喉の奥で低く笑った。


「じゃあ、どこにいるべきだって? 王都の綺麗な鳥籠の中か?」

「……何が言いたい」

「誰かの都合で笑えなくなって、息を詰まらせて、毎日心が削れていくような場所か?」

 

軽い口調。

けれど、その瞳はユリウスを射殺さんばかりに鋭かった。


「悪いけど。少なくとも今のアンタより、俺の方が、ミレアナの『今』をちゃんと見てるよ」


室内が耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。

ミレアナが、弾かれたように目を見開く。

ユリウスもまた、衝撃に言葉を失った。


「……貴公は」

 

ユリウスが、絞り出すように言った。


「彼女の、何を、どれほどの苦しみを知っているというのだ」

「さぁ? 全部なんて知らないよ」

 

レーヴが、突き放すように肩を竦める。


「でも、少なくとも───“可哀想な令嬢”としては見てないかな」


ミレアナの呼吸が止まった。

王都では、常に「役割」というフィルター越しにしか見られなかった。

公爵令嬢、婚約者、優秀な政務官。


けれどレーヴだけは違った。

最初から、出会ったその時からずっと、彼は肩書きを剥ぎ取った「ミレアナ」という一人の人間へ真っ直ぐに言葉を投げてくる。


その事実が今、胸の奥底へ痛いほど鮮烈に落ちた。

ユリウスはしばらく拳を震わせながら黙っていた。

やがて、折れるように小さく目を伏せる。


「……失礼した」

 

掠れた声だった。


「出過ぎたことを言いました」


その表情は、ひどく苦そうだった。

今さらになって取り返しのつかない何かに気づいてしまったかのように。

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