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距離感

辺境都市ボーデンの朝は、叩き起こされるような騒がしさと共に始まった。陽も昇り切らないうちから通りには荷車が石畳を叩く音が響き、荒っぽい怒鳴り声と豪快な笑い声が窓を越えて飛び込んでくる。


「……随分と騒がしいわね」


「辺境ですので。静寂よりも活気が優先されるのでしょう」


窓からの景色を見ながらひとり言のようにミレアナが呟くと、リオネルがそれに淡々と応じる。彼は既に完全武装を整え、その姿には一分の隙もない。


「眠れましたか、お嬢様」


「ええ」


それは紛れもない事実だった。


婚約破棄を宣言されたあの日から、いや、正確にはその予兆を感じ始めてから、ミレアナの眠りは常に浅く濁っていた。


王宮の冷たい空気。周囲の刺すような視線。自分に向けられた突き放すような言葉。目を閉じるたびにそんな夢に終わりなく縛り付けられる日々。


だが昨夜はそれらから解放され、靄が晴れたかのようだった。ひどく快適な朝だった。ミレアナの瞳が黒曜石のように艶やかに光っている。


「さぁ、ギルドへ向かいましょう」


「御意」




冒険者ギルドの依頼掲示板の前は、血気盛んな冒険者たちがひしめき合っていた。酒場では朝からエールを煽っている者までいる。


ギルドの中に足を踏み入れると、あちこちから飛んでくる無遠慮な囁きが否が応でも耳に入ってくる。


「お、昨日の黒髪の嬢ちゃんじゃねえか」


「本当に登録しに来たのかよ。命知らずだな」


声が聞こえてくるたびに、リオネルの機嫌が目に見えて悪化していく。彼はミレアナを軽んじるような言動を極端に嫌う。


「リオネル、顔が怖いわよ」


「お嬢様に無礼な視線を送る輩が多すぎます」


「殺気が漏れているわ。やめて」


宥めるように言葉を交わしながら受付へ向かおうとしたその時、緊張感を削ぎ落としたような声が聞こえてきた。


「おはよー、昨日のお嬢さん」


声の主を探せば、銀髪の男がカウンターの端で気怠げに片手を上げていた。――レーヴ・ヴェルク。今日も今日とて、彼は言葉にできない胡散臭さと色気を全身から漂わせている。


そして椅子に深く腰掛けている彼はあろうことか、ギルドの女性職員から朝食を分けてもらっている。ミレアナは訝しげに彼を見た。


「いつもそうやって職員の方を困らせているの?」


「人聞き悪いなぁ。俺の人気が凄すぎて勝手にパンが集まってきただけだって」


「三食しっかり食べないと死んじゃうとか言って泣き落としたんでしょ!」


ミレアナは彼らのやり取りに眉根を寄せた。女性職員に泣き落としをして朝食を分けてもらう冒険者。なんて不真面目な男なんだろう。


「……貴方、働いていないの?」


「失礼だなぁ。俺はこれでもボーデン屈指の働き者だよ?」


「でも昨日も依頼を放置したと怒られていたでしょう」


「細かいこと気にすんなって、お嬢さん」


「気になるわ。仕事の遅滞は信用に関わるもの」


ミレアナが相容れない価値観に対して即答すると、レーヴは吹き出した。


「あっはは!めちゃくちゃ堅苦しいね!やっぱアンタ面白いなぁ」


「……理解できない感性ね」


「えー、お兄さん傷ついちゃう」


へらへらと笑うレーヴ。しかしその言葉とは裏腹に、彼は少しも傷ついているようには見えなかった。リオネルが横から冷え切った声を刺す。


「朝から騒がしい男だな。消えろ」


「辛辣ぅ……」


騒がしいというよりもこの男はあまりにも軽薄だ。軽々しすぎる。そう、すぎる、のだ。


適当で礼儀知らずで、初対面の相手にも関わらず距離感が無駄に近い。よく言えば人好きする男だ。だがその実、会話を重ねてもその心に触れることはできない。


笑っているのに、決して踏み込ませない。そんな見えない厚い壁を感じる。


それは、ミレアナ自身の在り方とどこか重なる部分があった。


「で、今日は?初めての依頼探し?」


レーヴがミレアナの対面の席に座り、頬杖をついて長い指先でテーブルを叩く。


「ええ。薬草採取か、あるいは小規模な討伐依頼を検討しているわ」


「初心者向けだなぁ。安全第一?」


「経験が不足しているもの。当然の判断よ」


「……その割に、アンタの立ち居振る舞いは全然初心者っぽくないけど?」


レーヴの視線がふと鋭利なものに変わる。ミレアナの背筋に微かな緊張が走った。昨日の感覚が甦りそうな視線だった。


「何故、そう思うの」


「んー、そうだなぁ」


レーヴは含みを持たせて笑う。


「周り見過ぎ。アンタさっきギルドに入った瞬間、真っ先に出口の位置と酔客の武器の配置を確認してただろ?」


「……観察は基本でしょう」


「ま、それはそうだけどねー」


何でもないことのように返したが、ミレアナは動揺していた。自分の視線の動きを把握されていたことを知り、一瞬息を吸うのを忘れていた。


しかしそんなミレアナの心の内などお構いなしにレーヴはまたへらりと笑い、毒気を抜くように肩を竦める。


「警戒心が強いというか、ねぇ?」


「……辺境では必要なことでしょう」


「まあね」


軽い声とは対象的に、その気怠げな双眸はミレアナという人間の本質を値踏みするように光っていた。


「じゃ、初依頼なら付き合おっか。俺今日暇だし」


その提案を横からリオネルが一蹴する。


「必要ない。お嬢様の護衛は私だけで十分だ」


「いやいや、辺境初心者でしょ?この辺、最近ちょっと魔物が増えてんの。アンタたちじゃ対応しきれない泥臭い敵も出るんじゃない?」


正論にリオネルは言葉を詰まらせるが、レーヴはどこ吹く風とばかりに笑っている。リオネルが得体の知れない人間と行動を共にしないとする判断も理解できる。しかし、ミレアナは結論を出せずにいた。


現地に精通している人間がいると、依頼は格段にこなしやすくなる。観察眼が鋭いところから考えると実力も相当なものだろう。戦力としてレーヴはきっと有用だ。


しかし、彼が掴みどころのない男であることもまた確かだ。レーヴに同行を依頼したことで得られるメリットとデメリットをミレアナは天秤にかけていた。


「……一つ、聞いていいかしら」


「ん?」


「貴方、本当は何者なの。ただの冒険者には見えないんだけれど」


ミレアナが最終的な結論を出すために問うたその言葉。その瞬間レーヴの唇から笑みが消え、底の見えない暗闇のような視線がミレアナを射抜いた。けれどそれは瞬きをする間に消え去り、彼はいつもの軽薄な笑みに戻っていた。


「だから言ったろ?しがない貧乏冒険者だって」


嘘だ。ミレアナはそう直感する。


だがその嘘を暴き立てるには、今はまだ互いの距離が遠すぎた。


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