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知らない世界

翌朝。

リステル公爵家の屋敷を包む空気は不自然なほどに重く、静まり返っていた。

廊下ですれ違う使用人たちは皆、主人の娘であるミレアナの姿を認めると腫れ物に触れるような痛ましさと気まずさを隠しきれず、深々と目を伏せて立ち去っていく。


昨夜の婚約破棄の報は、一夜にして社交界の隅々にまで行き渡ったことだろう。

王太子妃候補として育てられた公爵令嬢。

完璧と称えられた美貌の才女。

その彼女が公衆の面前で一方的に婚約を破棄されたのだ。

退屈な日々を過ごす貴族たちにとって、これ以上の贅沢な噂話はない。


ミレアナは自室の窓辺に立ち、冷え冷えとした朝の光を浴びる庭園を見下ろしていた。

朝露を纏った純白の薔薇が誇り高く、それでいてどこか危うげに風に揺れている。


「お嬢様」


控えめなノックの音に続いて聞き慣れた声が響く。

振り返ると付き添いの侍女が硬い表情で立っていた。


「お召し物をお持ちいたしました」

「ありがとう」


侍女は服を差し出し着替えを手伝いながらも、何度も何かを言いかけては飲み込む仕草を繰り返した。

その指先が僅かに震えていることにミレアナはすぐに気付いた。


「……何か言いたいことがあるのなら、構わないわ。言ってみなさい」


ミレアナが静かに促すと侍女はびくりと肩を震わせ、堪えきれなくなったように顔を上げた。


「っ……その、お嬢様は、本当に……本当によろしいのですか……!?」

「何がかしら?」

「昨夜の、婚約破棄の件です!」


震える声が零れ落ちる。


「お嬢様はずっと、殿下のためにすべてを捧げてこられたのに……!誰よりも正しく、献身的に尽くしてこられたのに……あんまりです!」


ミレアナは瞬きをし、少しだけ視線を落とした。

尽くしたという自覚はある。

彼が王太子として立派に立つために必要な苦言も呈したし、泥をかぶるような調整も厭わなかった。

だが───


「殿下がそれを望まなかった。ただ、それだけのことよ」

「ですが……!」

「婚約というものは双方の意思が重なって初めて成り立つものだわ。一方が拒絶すれば、それはもう形を保てない」


その声は凪いだ海のように穏やかだった。

恨み言も、悲嘆の震えもない。

それがかえって侍女の涙を誘ったのか、彼女は今にも泣き出しそうな顔でミレアナを見つめた。


「お嬢様は……お嬢様は、お優しすぎます……っ」


───優しい。

その言葉を聞いて、ミレアナは思考の海に沈む。

自分を優しいと思ったことは一度もなかった。

ただ、目の前の相手にとって最善の結果が出るよう理論を組み立てていただけだ。

その結果が「冷たい」と切り捨てられた今、自分のやり方が正しかったのかはもう誰にも分からない。


「……それより」


ミレアナはこれ以上同情を受け入れぬよう、意識して話題を切り替えた。


「旅の支度はどうなっているかしら」

「は、はい!既に完了しております」


侍女は慌てて鼻をすすり、頷いた。


「必要最低限のお荷物をまとめ、目立たない馬車へ積み込んでございます。……ですが、本当に辺境へ行かれるのですか?」

「ええ」

「あちらは治安も悪く、危険だと聞き及んでおります。わざわざお嬢様が行かれるような場所では……」

「ええ、承知しているわ。危険な場所だということは」


ミレアナはそこで、ふっと微かな笑みを浮かべた。


「だからこそ、行くのよ」


侍女は主人の真意を図りかねたように、きょとんと目を丸くした。


陽光が真上を過ぎた頃、ミレアナは父であるリステル公爵の執務室を訪れていた。

公爵は重厚な机の向こう側で、眉間に深い皺を刻みながら重い溜息を吐き出した。


「……本当に行くのか」

「はい、お父様」

「王都の噂を避けるためなら当家の別荘で静養していればいい。なにもあんな荒れた土地を選ばずとも……」

「噂というものは、どこへ行っても足音を立てて追ってくるものですわ」


ミレアナは静かに、だが意志の強い瞳で父を見据えた。


「それに、私は王都しか知りません。今まで、王太子妃候補として必要な世界だけを見て生きてきました」

「……」

「礼儀作法、政治の駆け引き、貴族社会の社交、そして王家の理屈。私の世界はそれだけで完結していました。けれど……それ以外の世界を、私は何も知らないのです」


だからこそ、知らない場所を見てみたい。

その純粋な渇望が、彼女を突き動かしていた。

公爵はしばらく沈黙を守り、やがて諦めたように口を開いた。


「辺境都市ボーデンは、お前が想像している以上に治安が悪い。王都の常識など欠片も通用せんぞ」

「はい」

「お前は、自分がどれほど世間知らずか理解しているのか?」

「……」


ミレアナは真剣な面持ちで少し考え、率直に答えた。


「否定はできません。例えば……宿の宿泊相場というものを知りません」

「……だろうな」

「冒険者登録の流れも分かりませんし、野宿の経験もございません」


執務室に何とも言えない重い沈黙が落ちる。

壁際に音もなく控えていた護衛のリオネルが、そっと目を閉じるのが見えた。

公爵は痛むこめかみを押さえるように、頭を抱えた。


「お前……よくそれで、辺境へ行こうなどと言い出したな……」

「リオネルがついておりますので」

「あやつを万能の神か何かだと思っていないか?」

「……違うのですか?」


至極真面目に聞き返され、公爵は絶句した。

王宮では「氷の令嬢」と恐れられた娘の、あまりにも天然な信頼。

リオネルは無表情のまま淡々と口を開く。


「ご安心を。大体のことは、何とかいたします」

「お前も甘やかすなと言っただろうが」

「失礼いたしました」


リオネルの声にはまったく反省の色が混じっていない。

ミレアナは少しだけ目を瞬かせた。

不思議な感覚だった。

昨夜胸の奥底に鉛のように重く沈んでいた痛みが、このやり取りの中でほんの僅かに解けていくような気がした。


「……お父様」

「なんだ」

「今まで、育ててくださってありがとうございました。リステル公爵家の娘として生きてこられたことを、誇りに思っております」


公爵は言葉を失い、喉の奥で何かを呑み込んだ。

やがて、絞り出すような低い声が返る。


「……お前は、よくやっていた。周囲がどう言おうと、少なくとも私はそう思っている」


その一言に、ミレアナの瞳が僅かに揺れた。

胸の奥がじんわりと熱くなる。

涙が溢れるほどではない。

けれど、凍えきっていた場所に静かに温かな火が灯るような、そんな感覚だった。


「……はい」


彼女に言えるのは、短く一言だけだった。


屋敷の玄関前には、多くの使用人たちが整列していた。

皆沈痛な面持ちで、今にも主人の娘の門出を嘆きそうな顔をしている。

ミレアナはゆっくりと彼らを見渡した。


「今まで、ありがとう」


その一言がきっかけだった。

最前列にいた侍女の一人が、堪えきれずに嗚咽を漏らし始めた。


「お、お嬢様ぁ……っ、行かないでくださいましぃ……!」

「そんなに泣かなくてもいいのに。死にに行くわけではないのだから」

「だってぇ……!」


連鎖するように周囲の者たちも目元を拭い始める。

ミレアナは戸惑い、隣のリオネルを仰ぎ見た。


「……何故、皆あんなに泣いているの?」

「お嬢様に、それだけの人望があったということでしょう」

「嫌味かしら?」

「事実です」


リオネルのぶっきらぼうな肯定に、ミレアナは今日初めて少しだけ口元を綻ばせた。


馬車に乗り込み、重い扉が閉まる。

車輪が音を立てて回り出し住み慣れた屋敷がゆっくりと遠ざかっていく。

生まれ育った場所。

作り上げられた完璧な世界。

そのすべてが、過去へと流れていく。


「お嬢様」

「なに?」

「確認ですが、本当に行く先はボーデンでよろしいのですね?」

「ええ」

「あそこは治安が終わっていますが」

「率直な意見ね」

「事実ですので」


リオネルのぶっきらぼうな物言いにミレアナは苦笑した。

だが、彼の瞳に宿る光は冗談を言っているようには見えない。


「辺境は危険です」

「理解しているわ」

「訓練を受けていても実戦は別です。これまで私が指導してきたのは、あくまで護身。辺境の荒くれ者や魔物は、王都の暗殺者とは戦い方が根本から異なります」


ミレアナは腰元に触れようとしてそこが今は空であることに気づき、膝の上で指を組んだ。


「貴方に五年も叩き込まれたのだから、少しは期待しているのだけれど」


幼い頃から、公爵令嬢としての教育の裏でミレアナはリオネルから厳しい武術の訓練を受けてきた。

それは、政敵の多いリステル公爵家において自分の身を自分で守るための「最適解」を求めた結果でもあった。


「足りません」


リオネルの断言に、ミレアナは僅かに眉を寄せた。


「基準がおかしいのよ、貴方は」

「生きて帰るための基準に、妥協はありません」


ミレアナは窓の外に目を向けた。

王都の美しい街並みが、みるみるうちに小さくなっていく。

胸の痛みはまだ消えたわけではない。

信頼していた者に拒絶された傷は、そう簡単に癒えるものではないだろう。

けれど、ここで止まっているつもりもなかった。


「知らないものを見てみたいの」


ぽつりと、自分自身に言い聞かせるように言葉を零す。


「今までとは違う……私の知らない、本当の世界を」


リオネルはそれ以上何も聞かず、静かに目を伏せた。


馬車は王都の喧騒を離れ、未だ見ぬ荒野へと突き進んでいく。

この時のミレアナはまだ知らない。

辿り着いた辺境都市ボーデンで、自分とは正反対の生き方をする胡散臭い一人の男と出会うことになるのを。

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