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婚約破棄

金糸銀糸を贅沢に織り込んだドレスの裾が、煌めく波のように幾重にも視界を横切っていく。


会場に響き渡るのは、洗練された貴族たちのどこか上辺だけを取り繕ったような笑い声。

クリスタルグラスの繊細な音。

そして、高価な香水と絢爛たる花々の香りが混ざり合った空気。

誰もがこの美しい夜を楽しんでいた。


ただ一人───ミレアナ・リステルを除いて。


熱を帯びた周囲の喧騒から隔絶されたかのように、彼女の佇まいだけは冷たく凪いでいる。

ミレアナは手にしたグラスをそっと引くようにして、静かに顔を上げた。


灯りを吸い込むような漆黒の艶やかな長髪。

それが磁器のように白い肌との鮮烈な対比をなして女の存在をこの場に集う誰よりも否応なく際立たせている。

切れ長でありながら大粒の双眸は、凛とした美しさを湛えつつどこか妖艶な艶をその奥に宿していた。


───完璧な公爵令嬢。


誰もが彼女をそう評する。

だが今、この場に漂っているのは称賛の声ではなかった。

耳を打つのはさざなみのようなざわめき。

好奇の視線。

そして、何かが崩壊する瞬間を待ち侘びるような残酷な期待。


───ついに、この時が始まる。

広間には、そんな湿った熱が孕んでいた。


「ミレアナ」


王太子マティアス・ルーベンが、重々しくその口を開いた。

彼のすぐ隣には、一人の少女がいた。

淡い栗色の髪を揺らし、守ってやりたくなるような小柄な身体を縮め、不安げにマティアスの袖を握る姿。

最近、彼が頻繁に公務の傍らへ置いている伯爵令嬢だった。


「……君との婚約を、本日をもって破棄する」


宣言が放たれた瞬間、広間が大きくざわついた。

しかし、当のミレアナは眉ひとつ動かさなかった。

驚きはない。

ここ最近の彼の振る舞いや周囲の空気の変化から、この結末は予感していたからだ。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


静かな、鈴の音のような声だった。

そこには相手を責める響きも悲嘆に暮れる震えも一切ない。

そのあまりの落ち着きが逆にマティアスの不快感を煽ったのか、彼は露骨に眉を寄せた。


「……君は、冷たすぎる」


周囲の貴族たちが、一斉に息を呑んだ。


「いつだって正しいことしか言わない。国のため、王家のため、最適解のため……。君は出会った時からずっとそうだった」


マティアスの声音に隠しきれない苛立ちが滲み出す。

ミレアナは反論することなく、ただその言葉を静かに受け止めていた。


「覚えているか。先日の夜会で彼女が体調を崩した時のことを」


マティアスの傍らで栗色の髪の少女が痛ましそうに肩を震わせる。


「この子は熱があったのだ。まともに立つのも辛そうだった。だというのに……君は何と言った? “出席のみなされば十分です”と言い捨てたじゃないか」


広間の空気が一気に彼女を糾弾するものへと変わる。

情のない女。

鉄の心を持つ公爵令嬢。

そんな蔑みが視線となって突き刺さる。

ミレアナは淀みなくその時の真意を答えた。


「重要度の高い夜会での欠席は、要らぬ憶測を招きます。ですが、長時間滞在する必要はありません。最低限の顔出しさえ済ませれば速やかに下がることができる。それが、彼女の立場を守りつつ身体への負担を最小限に抑える方法だと判断しました」

「ほら、そういうところだ!」


マティアスが声を荒げ床を鳴らす。


「君はいつも理屈ばかりだ!辛そうな人間を目の前にして、最初に考えることが効率だと?感情というものがないのか!」

「……」


ミレアナは少しだけ目を伏せた。

違う。

そうではない。

守るために考えたのだ。

彼女が「不敬」や「怠慢」といった不要な悪評を受けないように。

王家へ余計な火種が飛ばないように。

その上で、どうすれば彼女が早く横になれるか。

ただ、それだけを最適化した結果だった。

だが、それが彼には決して伝わらないことも今の怒声で理解した。


「君といると、息が詰まる」


マティアスの声が突き放すように低く落ちる。


「感情が見えない。何を考えているのか分からない……まるで、精密な人形のようだ」


胸の奥が静かに、だが確実に痛んだ。

感情がないわけではない。

ただ、感情よりも先に状況の整理が来てしまうだけなのだ。

泣くより先に、最善の策を考える。

怒るより先に、原因を分析する。

それが彼女にとっての誠実さであり、自分という人間だった。

だからこそ、彼の目には血の通わない冷徹な人間に映ったのだろう。


「私は……殿下を支えることを何よりも最優先にしていただけです」

「それだ」


マティアスが逃げ場を失ったかのように顔を歪めた。


「君はいつも“正しい”。だが俺が欲しかったのは、そんな正論じゃない」


その言葉を受け、ミレアナは深い淵の底に触れたような心地がした。

ああ、最初から求めていたものが違っていたのだ。


自分は、弱音を吐かず常に冷静な盾となって彼を支えることが最善だと信じていた。

けれど彼は、脆さを見せてほしかったのだ。

感情を露わにし、自分を頼り、甘えてほしかった。


そこまで理解して、ミレアナは一度だけ深く静かな息を吐いた。


「……承知いたしました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


広間がざわめく。

あまりにも淡々とした、儀式的な返答。

取り乱しもしなければ、慈悲を乞うこともしない。

だから周囲は確信する。

やはり、この女は冷酷なのだと。


けれど、ミレアナの胸は確かに疼いていた。

それが熱烈な恋であったかは、自分でも分からない。

だが、確かに彼を信頼していた。

共に国を背負い、歩んでいけるパートナーだと思っていた。

積み上げてきた未来が根底から否定された事実はやはり、悲しい。


「……それだけか?」


マティアスが、自分から切り出したはずなのにどこか掠れた声を漏らす。

ミレアナはゆっくりと彼を見つめ直した。

そしてほんの少しだけ、微笑んだ。

今にも泣き出しそうなほど、静かで儚い笑みだった。


「殿下」


完璧な所作で、優雅に一礼する。


「どうか、お幸せに」


その瞬間、マティアスの胸が説明のつかないざわつきに襲われた。

初めて見た気がした。

完璧という仮面の裏側で、彼女が確かに傷付いている顔を。


「……待て」


思わず引き止めるような声が漏れる。

だが、ミレアナは二度と振り返らなかった。

揺れる黒髪。

最後まで一点の曇りもないほど真っ直ぐな背筋のまま、彼女は大広間を後にした。


重厚な扉が音を立てて閉まり、喧騒が遠ざかる。

静まり返った回廊には、彼女の専属護衛であるリオネルだけが彫像のように立っていた。


「お嬢様」

「行きましょう、リオネル」

「……承知いたしました」


二人は夜の回廊を歩き出す。

しばらくして、人気のない角に差し掛かった時だった。

ふらりと、ミレアナの足元が僅かによろめいた。

ミレアナは無意識に、ドレスの裾ではなく腰元へ触れた。

指先が探したのはシルクの柔らかな布地ではなく、硬質な革の感触。

だが、そこにあるはずの重みはない。

王宮へ上がってから、護身用の短剣を帯びることはなくなっていた。

公爵家の令嬢として、あるいは未来の王妃として、武器を身に纏うことは「不必要」であり、何より「不吉」であると遠ざけられてきたからだ。


「……癖ね」


小さく呟く。

指先が空を切り、空虚な感触だけが残る。

その一連の動作をリオネルだけが静かに、そして鋭く見ていた。

彼女の指が求めたのは、淑女の嗜みである扇でも祈りのためのロザリオでもない。

確実に敵を仕留めるための、鋼の重みだった。


傍らを歩くリオネルの目が、鋭く細められる。


「お嬢様」

「……大丈夫よ」


壁に軽く手をつき、自分を支える。

呼吸が少しだけ浅い。

頭の中はいつものように冷静に事態を分析しているのに、胸の奥だけがどうしようもなく苦しい。


「……泣かないのですか」


リオネルの低い声が静寂に落ちた。

ミレアナは、自分の内側を探るように少しだけ考えた。


「泣きたいのかもしれないわね」


それは、どこか他人事のような澄んだ声だった。


「でも、上手く分からないの。どうやって涙を流せばいいのか」


リオネルは何も言わずただ彼女の言葉を待った。


「彼を信頼していたから。……だから、悲しいのだと思う」


こぼれ落ちる言葉を一つひとつ拾い集めるように、彼女は自分自身の感情を整理していく。

感情よりも先に、理解。

それが彼女という人間の在り方だった。


リオネルは僅かに目を伏せ、押し殺したような声で呟いた。


「……見る目がなかったのは、殿下の方です」


ミレアナは小さく瞬きをした。

それから、重荷から解放されたようにほんの少しだけ力の抜けた笑みを浮かべた。


「ありがとう、リオネル」


その微かな笑みを見て彼は音を立てぬよう静かに、だが強く拳を握り締めた。


───こんなにも、彼女は傷付いているというのに。

何故、誰もその心に気付こうとしなかったのか。


夜風が回廊を吹き抜けていく。

突き刺さるような冷たい風の中で、ミレアナ・リステルのこれまでの世界は静かに、音もなく終わりを告げた。

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