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旧水門

北区画へ近づくにつれ、夜気はその質を変えていった。

ただの夜の冷たさではない。

肺の腑にねっとりと絡みつくような重く、粘つく魔力の残滓。


「……嫌な感じね」

 

ミレアナが低く呟く。

石畳の上には避難した住民たちが集められていた。

震えながら泣き叫ぶ子供。

それに応える余裕もなく、怯えに顔を強張らせる大人たち。

そして、恐怖を打ち消すように怒号を飛ばす騎士。

辺境都市ボーデンが持つ荒々しい熱気は、今や純粋な「恐怖」によって塗り潰されていた。


「近づくな!! 下がれ!!」

「まだ暴れてるぞ! 囲いを解くな!!」


騎士の制止を突き破るように、広場の中心から獣じみた咆哮が上がる。

旧水門。

かつて街の命脈だったその場所で、一人の男が狂ったように剣を振り回していた。


「がぁぁぁ、あぁぁぁッ!!」


血走った目。

溢れ出す黒ずんだ魔力。

皮膚の下を、不気味な蟲でも這い回っているかのように血管が脈打っている。

その姿に、もはや「人間」としての理性は残っていない。


「……侵食速度が異常です」


リオネルが眉根を寄せ、剣の柄に手をかける。


「ノアの時よりも進行が早い。これは……」

「それだけじゃない」


レーヴの視線が獲物を狙う鷹のように鋭くなった。


「あれ、誰かに無理やり魔力を流し込まれてる」

「え?」


ミレアナが目を細め、魔力の流れを視る。

確かに不自然だ。

男自身の魔力回路が焼き切れているにもかかわらず外部から「燃料」を注がれ、強引に暴走状態を維持させられている。


「後ろ!! 危ない!!」

 

誰かの叫び。

次の瞬間、暴走した男が獲物を見定めた獣のように、近くの騎士へ飛びかかった。

振り下ろされる剣。

速い。

肉体のリミッターが外れた、人外の速度。


「っ!」


死を覚悟した騎士の眼前に、一閃。

───ギィン!!

火花が散り、金属音が夜の広場に鳴り響く。

レーヴが横から剣を叩き込み、強引にその軌道を逸らしていた。


「ぼーっとすんなよ。命がいくつあっても足りないぞ?」

 

軽く笑う。

だがその瞳には、凍てつくような冷徹さが宿っていた。

男が再び咆哮し、黒い魔力が爆発的に噴き上がる。


「レーヴ!」

「分かってる、交代だ!」


レーヴが即座にバックステップで距離を取る。

入れ替わるように、ミレアナが駆けた。

低く、鋭く。

一切の迷いがない、合理的かつ最短の踏み込み。

月光を吸い込んだ短剣が、闇を裂く。


「───ッ!」


男の腕の腱を、正確無比に切り落とす。

立ち上がる悲鳴。

だがミレアナは返り血すら厭わず密着し、次の瞬間には男の喉元へ刃を届かせていた。


「……っ」

 

周囲の冒険者たちが、息を呑む。

速すぎる。

そして何より、躊躇がない。

それは荒っぽい冒険者の喧嘩殺法などではない。

急所を最短で無力化するよう徹底的に磨かれた、「制圧」のための武技。

レーヴの目が細まる。


「ミレアナ、離れろ!!」


不意にレーヴが叫んだ。

その瞬間、男の胸元が不自然に膨張を始める。

───黒結晶の過負荷。


「っ!」


ミレアナが即座に後退を図る。

だが、暴走した魔力の膨張の方が一瞬早い。

爆ぜる───。


その衝撃が届く直前。

レーヴが強引に彼女の腕を引き寄せ、その細い体を自分の腕の中へ閉じ込めた。


「危なっ……!!」


轟音。

黒い魔力が爆散し衝撃波が石畳を砕き、周囲の窓ガラスを粉々に震わせた。

土埃と黒煙が視界を遮り、数秒遅れて人々の悲鳴が響き渡る。

やがて。


「……生きてるか?」


すぐ耳元で、少し掠れた声がした。

ミレアナが目を開くと、視界いっぱいにレーヴの顔があった。

彼は咄嗟に自分の背中を爆風に向け、ミレアナを抱き込む形で庇っていたのだ。


「……貴方」

「返事は?」

「……ええ。生きてるわ」

「よかった」


心底安心したようにレーヴが深く息を吐く。

その瞬間ミレアナの胸が妙に騒いだ。

近い、近すぎる。

重なる胸板から、速い鼓動が伝わってくる。

それが自分のものなのか彼のものなのか、判別がつかない。


「レーヴ!!」

 

サラが血相を変えて駆け寄ってくる。


「怪我はない!? 今の爆発、もろに……!」

「ああ、俺は平気だ。ちょっと砂を被っただけだよ」

「血ぃ出てるじゃない、額!」

「え、マジ?」


無造作に額を触るレーヴ。

指先に赤い筋がつくが、本人は大したことではないと肩を竦める。

その時だった。


「……おい、あんた」


近くにいた騎士の一人が、呆然とした顔でミレアナを見つめていた。


「今の動き……どこで覚えた。ただの娘ができる立ち回りじゃないぞ」


嫌な沈黙が流れる。

リオネルの纏う空気が、一気に殺気を帯びた。

ミレアナも心臓が跳ねる。

───しまった。

無意識に身体が「王都式」をなぞってしまった。

貴族護衛術と隠密術を組み合わせた特殊な体術。

市井の冒険者が、ましてや若い女が使えるはずのない技術だ。


「綺麗だったでしょ? うちの看板娘」


不意に、レーヴがひょいとミレアナの肩へ腕を回した。


「特別に俺が仕込んだんだよね。センスがあるから、すぐモノにしちゃってさ」


いつもの軽い声。

張り詰めた空気を無理やり霧散させるような、道化の響き。


「いや、しかし今のは軍の……」

「命懸けの仕事してんだ。技術の出所なんて気にしてる暇ねーだろ? 辺境をナメんなって」


にっと、茶目っ気たっぷりに笑う。

強引なまでの誘導。

騎士はなお訝しげだったが別の場所で上がった怒号に呼ばれ、渋々とそちらへ駆けていった。

緊張が少しだけ緩み、ミレアナは回された腕を振り払わずに小さく呟いた。


「……助かったわ」

「ん? なんか言った?」

「誤魔化してくれたでしょう、今の」


レーヴは数秒きょとんとしてから、堪えきれないように吹き出した。


「ははっ、今さらお礼なんて言うのかよ?」

「何がおかしいの」

「いや。アンタが『ちゃんと人を頼ること』を覚え始めたんだなと思ってさ」


その言葉に、ミレアナは口を噤む。

頼る。

そんなつもりはなかった。

けれど、気づけば彼が隣にいることに以前のような「毒」を感じなくなっている自分がいた。


「……別に、そんなんじゃないわ」

「またそれだ。意地っ張りだねぇ」


レーヴが笑う。

だが次の瞬間、その表情が。

瞳の温度が、一瞬で消失した。


「───誰だ」


低い、獣のような声。

ミレアナも即座に、彼の視線を追って振り返った。


旧水門の屋根の上。

月明かりを背負い黒い外套を纏った人影が、たった一人立っていた。

こちらを静かに見下ろし。

そして、ふっと夜の闇へ溶けるように消える。


「待て!!」


レーヴが爆発的な踏み込みで地を蹴る。

速い、だが間に合わない。

人影はまるで最初から存在しなかったかのように、完全な消失を見せた。

残されたのは遠くの騒音と、石畳に散った瓦礫だけ。

数秒後、レーヴが苛立ちを隠さず舌打ちした。


「……最悪だ」

「知っている相手なの?」

 

ミレアナが問う。

レーヴは珍しく、すぐには答えなかった。

ただ酷く嫌な記憶でも呼び起こされたかのような、苦い表情で。

人影が消えた虚空を、いつまでも睨みつけていた。

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