触れられたくない過去
夜風がひゅう、と水門跡の石壁を冷たく吹き抜けた。
騎士たちは血に染まった石畳の上で負傷者の搬送に追われ、冒険者たちもまた二次被害を防ぐための周囲警戒へと散っていく。
喧騒が遠のいていく中で、レーヴだけが微動だにせず黒外套の人物が消えた暗がりの方向をじっと睨みつけていた。
「……レーヴ?」
ミレアナがその背中に声をかける。
一呼吸、返事が遅れた。
「あー……ごめんごめん」
振り返った彼の顔には、もういつもの軽薄な笑みが貼り付けられている。
けれど、それが単に「貼り付けただけ」の仮面だと判別できる程度には、ミレアナも彼の表情を見慣れてきていた。
「知り合いなの?」
「さぁ? あんな怪しい奴、俺の広い交友関係にも入ってないよ」
「嘘ね」
即答だった。
レーヴが一瞬だけ不意を突かれたように目を瞬く。
その微かな動揺を見て、ミレアナは確信する。
図星だ。
「アンタさぁ……最近ちょっと、俺に対して容赦なくない?」
「貴方が分かりやすすぎるのよ。隠すつもりがあるなら、もう少しマシな嘘をつきなさい」
「ひどいなぁ」
彼は笑う。
だがその瞳の奥底は、凍りついたまま一度も笑っていなかった。
リオネルが静かに一歩前へ出、低く口を開く。
「追跡しますか。今ならまだ、僅かな残滓を追えるかもしれませんが」
「いや」
レーヴは、食い気味にそれを否定した。
「今追っても無駄だよ。ああいう逃げ方をする手合いは、決して後ろに痕跡を残さない」
「随分と詳しいのね。まるで、身をもって知っているみたいに」
ミレアナが小さく、けれど鋭く核心を突く。
その瞬間、レーヴの沈黙が重く落ちた。
空気が僅かに張り詰め、喉元に刃を突きつけられたような錯覚が走る。
だが彼は数秒後、ふっと憑き物が落ちたように息を吐いた。
「……まぁ、昔ちょっとね。色々あったんだよ」
軽い言い方。
でも“ちょっと”などという言葉で片付けられるものではない。
それくらい、ミレアナにも分かった。
あの刹那、屋根の上の人影を見た瞬間のレーヴは完全に別人だった。
普段の軽薄さも、お調子者な人懐っこさも。
そのすべてが剥がれ落ち、ただ一振りの「凶器」がそこにあるような。
まるで古傷を無理やり素手で抉られたかのような、剥き出しの殺気。
「お嬢様」
リオネルが低く呼ぶ。
「一度ギルドへ戻るべきです。この場に残るのは、これ以上の混乱を招きかねない」
「……ええ、そうね」
本来なら、一刻も早くこの場を立ち去るべきだ。
だがミレアナは何故か、レーヴの横顔から目を離せなかった。
彼はいつも、自分へ踏み込みすぎない。
聞きたくなる絶妙な距離まで近づいてくるのに、核心の一番苦しい場所へは決して土足で触れない。
なのに今、初めて見えてしまった。
いつも自分を庇う側にいる彼にも、決して他人に触れられたくない「闇」があることが。
それが、自分のことのように少しだけ苦しかった。
「……なにその顔」
不意にレーヴが視線をこちらへ戻す。
「どんな顔」
「今、変に俺のこと気遣ったでしょ」
「気のせいよ。私はただの……」
「いや、絶対した。その、眉間にしわ寄せて『どう接したらいいの』って迷ってる顔」
じとっとした目で見つめられ、ミレアナはたまらず視線を逸らした。
「……貴方の動向を、観察していただけよ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
レーヴが苦笑する。
けれどその空気がほんの少しだけ日常へ戻ったことに、ミレアナは内心ほっと胸を撫で下ろしていた。
「レーヴ!!」
再び、サラが慌ただしく駆け寄ってくる。
「ギルマスが呼んでる! 魔術院の連中、今すぐ現場の確認をしたいってうるさくて!」
「今から!? まじで言ってる?」
「今すぐ! 行くわよ!」
レーヴが露骨に嫌そうな顔をして天を仰いだ。
「あーもう……最悪だ。ここはなんてブラック職場なんだよ……」
「意味が分からないわ。また貴方の造語?」
「『人を働かせすぎだ』って意味だよ!」
「その言葉、日頃から自分を蔑ろにして動き回る貴方自身に返すべきではないかしら?」
即座の切り返しに、レーヴが思わず吹き出した。
「ははっ、アンタほんとブレないなぁ。少しは手加減してくれよ」
彼は笑いながら歩き出す。
だが、ミレアナはふと気づく。
彼の歩幅が、無意識に自分に合わせて微調整されていることに。
置いていかないように、離れないように。
そんな無言の気遣いが、妙に胸へ残る。
ギルドへ戻る道中、街の景色は数時間前とは一変していた。
至る所に張られた封鎖線。
鎧を鳴らして巡回する騎士。
窓の隙間から不安げに外を伺う住民たち。
もはや、辺境の一都市の小競り合いで済む話ではなくなっている。
「……汚染の影響が、広がりすぎているわ」
ミレアナが低く呟く。
レーヴも珍しく真面目な顔で頷いた。
「ああ。しかもこれ、多分まだ『序章』だ」
「序章?」
「地下水路程度の騒ぎで終わるような匂いじゃないんだ。もっと、こう……根が深い」
その言葉に、リオネルの目が鋭利に細まる。
「根拠は。また直感か」
「勘。……いや、経験則かな」
「信用し難いな。根拠のない言葉など」
「でも当たるんだよねぇ、俺の勘」
軽口。
だが、ミレアナは直感していた。
この男の“勘”は、決して幸運や偶然などではない。
彼は知っているのだ。
こういう異常な事態を。
歴史の裏側で蠢く、ドロドロとした「真実」を。
だからこそ先ほどの黒外套を見た瞬間、あんな絶望に近い顔をした。
「……貴方」
「ん?」
「もし私が真面目に尋ねたら、いつか話してくれるの?」
自分でも驚くほど自然に言葉が唇から滑り落ちた。
レーヴが足を止め、目を丸くする。
「何を?」
「貴方の、過去のこと」
沈黙。
湿り気を帯びた夜風が二人の間を吹き抜ける。
数秒後、レーヴはひどく困ったように、けれどどこか慈しむように笑った。
「……さぁ。そのうち、ね」
曖昧な、いつもの逃げ口上。
けれど、それは決して「完全な拒絶」ではない。
今の彼にできる、精一杯の譲歩なのだと分かってしまう。
ミレアナは小さく目を伏せた。
不思議だった。
王都という冷徹な世界では、誰かの秘密は最大の「武器」であり、奪い取るべき「弱み」だった。
暴かれるもの。
利用されるもの。
なのに今は、ただ知りたいと思ってしまっている。
彼を縛り付ける道具にするためではなく。
ただ、この男の背負っている重荷を、少しでも理解したいと。




