触れられない場所
水路を脱出した頃には、外界は深い夜の帳に包まれていた。
湿った地下の空気とは対照的な、 鋭く冷たい風が吹き抜ける。
ボーデンの街灯が、夜の石畳へ淡く頼りなげな光を落としていた。
「……結局、串焼き食べ損ねたままだなぁ」
先頭を歩くレーヴが、間の抜けた声でぼやく。
いつもの調子。
いつもの軽い声。
だが、ミレアナは気づいていた。
暗がりに消えそうな彼の背中がほんの僅かに、一定の歩幅を乱していることに。
「怪我をしているのだから当然でしょう。むしろ食欲があるのが不思議だわ」
「んー? 大丈夫だって。ほら、ピンピンしてる」
「さっきから三回ほど、無意識に壁へ手をついているわよ」
「……見てたの?」
レーヴが足を止め、にやりといたずらっぽく笑う。
ミレアナは無言で視線を逸らした。
そのわかりやすい反応に、レーヴが堪えきれずに吹き出す。
「はは、図星じゃん。もしかして、ずっと俺のこと注視してた?」
「観察よ。護衛対象が道端で倒れられたら困るもの」
「えー、冷たいなぁ。そこは『心配してた』って言ってよ」
いつもの軽口。
けれどその変わらない空気に、ミレアナはどこかで安堵していた。
あの水路の奥で見せたレーヴは少しだけ怖かった。
静かで、昏い怒りを湛え、何よりその瞳は酷く痛そうだったから。
まるでノアの悲劇を鏡にして、自分自身の過去を抉っているかのように。
「……貴方」
「ん?」
「先ほどの、あの……」
問いかけようとして、言葉を飲み込む。
聞くべきではない気がした。
レーヴが自分の過去に対し冗談という名の分厚い防壁を築いていることは、これまでの付き合いで何となく分かっている。
沈黙を選んだミレアナを、レーヴはちらりと盗み見た。
「聞かないの? 今ならサービス期間中かもしれないよ?」
「……聞いてほしいの?」
「んー」
レーヴは少しだけ笑った。
だが、その笑みは夜霧のようにどこか曖昧だ。
「まだ、いいかな」
夜風が二人の間を通り過ぎる。
ミレアナは小さく目を伏せた。
「まだ」。
それは完全な拒絶ではない。
いつか機が熟せば話すかもしれないという、微かな可能性を秘めた響き。
その曖昧な保留が少しだけ嬉しいと思ってしまった自分に、ミレアナは戸惑いを隠せない。
「お嬢様」
隣を歩くリオネルが、低い声で注意を促した。
「冷えます。宿へ急ぎましょう。これ以上の消耗は避けるべきです」
「ええ、そうね」
一歩を踏み出そうとしたその時だった。
「おーい! レーヴ!!」
通りの向こうから、夜の静寂を弾き飛ばすような快活な声が飛んできた。
振り返ると派手な装備を身につけた女性冒険者が、こちらへ向かって駆けてくるのが見えた。
波打つ栗色の髪を揺らし、親しげな笑顔を浮かべている。
「やっぱレーヴじゃん! アンタ、何日ぶりよ!?」
「うわ、サラだ」
「『うわ』って何よ、失礼ね!」
サラと呼ばれた女性は、勢いそのままにレーヴの腕へしがみついた。
「この前飲みの約束すっぽかしたでしょ! 奢り一回分じゃ許さないからね!」
「いやぁ、ちょっと急用が入っちゃってさ。忙しい身なんだよ、俺も」
距離が、近い。
触れ合うのが当然のような、長年の気安さ。
レーヴも困ったような顔をしながら、特に拒む様子もなく彼女の奔放さを受け入れている。
ミレアナはその光景を、ただ静かに見つめていた。
別におかしくはない。
レーヴは誰に対しても距離感が近く、人当たりが良い男だ。
女友達の一人や二人、街ごとにいても不思議ではない。
それだけのことだ。
なのに胸の奥がチリチリと、焼けるようにざわついた。
「……?」
何だろう、この不快感は。
論理的に説明がつかない。
ただ何となくこの場にいたくないような、落ち着かない感覚。
その時、サラがようやくミレアナたちの存在に気づいたようだった。
「あれ? そっちの人たちは? 新しいパーティ?」
「あー、仕事仲間。お世話になってるんだ」
「へぇ……?」
サラが好奇心に満ちた目でじろじろとミレアナを観察する。
そして、感嘆したように声を上げた。
「うわ、すっごい美人。レーヴ、珍しいじゃない。こんな高嶺の花みたいな子を連れて歩くなんて」
「でしょ? 俺の自慢なんだよ」
「……何故、貴方が得意げなの」
間髪入れずに返したミレアナの言葉に、レーヴが楽しそうに笑う。
サラもつられたように吹き出した。
「なにそれ、面白い子。お人形さんみたいかと思ったら、結構ハッキリ言うのね」
「面白いだろ? 」
親しげな会話。
自然体の空気。
それを見せつけられるたび、ミレアナの胸のざわつきは増していく。
隣から、リオネルが極めて低い声で呟いた。
「……不愉快ですか、お嬢様」
ミレアナはハッとして瞬きをする。
「何がかしら」
「顔に出ております。非常に。眉間に皺が」
「出ていないわ。乾燥のせいよ」
「出ております」
無機質な断言。
ミレアナは沈黙した。
自覚はないが、レーヴが他の女性と分かち合う「距離感」を目の当たりにするのがこれほどまでに落ち着かないものだとは思わなかった。
その時、レーヴがふとこちらを振り向いた。
「ん? どした?」
いつもの調子。
なのにその目は何故か少しだけ、ミレアナの機嫌を窺うような、探るような色を帯びている。
「……別に。何でもないわ」
「ほんと?」
「ええ」
淡々と答える。
取り繕うように。
だがその直後、レーヴはサラの腕をぺりっと剥がすように引き離した。
「はいはい、今日はもう解散だ。こっちは怪我人もいるしな」
「えぇ!? つれないわね。せめて一軒くらい……」
「また今度な、サラ」
「あーもう、雑なんだから!」
文句を言いながらも、サラは潔く手を振って去っていった。
その背中を見送りながら、ミレアナは意識の外で言葉を漏らしていた。
「……別に、無理に離さなくても良かったでしょうに」
ぽつりと、自分でも驚くほど不満げな響きだった。
言った瞬間しまった、と唇を噛む。
レーヴは数秒、きょとんとした顔でミレアナを見つめていた。
そしてふ、と三日月の形に目を細める。
「……へぇ。そっか」
「何よ、その含みのある言い方は」
「いや? 何でもないよ。何でもなーい」
レーヴは先ほどまでの疲労が嘘のように、楽しそうに笑った。
隠しきれない、心の底から嬉しそうな笑みで。
「そっかぁ」
レーヴは妙に機嫌良さそうに笑った。
その反応がミレアナにはどうしても腑に落ちない。
彼女は不満げに眉を寄せ、彼を真っ向から見据えた。
「だから、何なのよ。さっきから」
「いや別に?」
「絶対何かあるでしょう。その締まりのない顔は何」
「んー」
レーヴは肩を竦めて誤魔化した。
だが、口元に刻まれた笑みは消えようとしない。
それが何故か、ミレアナには少しばかり腹立たしかった。
「……本当に変な人」
「アンタにだけは言われたくないなぁ、お嬢様」
「失礼ね」
「褒めてる褒めてる」
「全く伝わらないのだけれど」
即答するとレーヴが再び吹き出した。
その笑い方は、驚くほど自然だった。
作ったような軽薄さではなく、心の底からこの時間を楽しんでいるような───そんな響き。
ミレアナは、たまらず視線を逸らした。
胸の奥がずっと落ち着かない。
理解できない感覚が、ずっとそこに居座っている。
レーヴが自分以外の誰かと親しげにしていると、内側から掻き乱されるようにざわつく。
だが彼が自分を振り返ると、不器用なほどに安心してしまう。
意味が分からない。
こんな論理性の欠片もない感情、教わったことも知ったこともなかった。
「お嬢様」
隣で静観していたリオネルが、低い声で進言した。
「何度も申し上げておりますが、本日はもうお休みになった方がよろしいかと。心身ともに負荷がかかりすぎています」
「……そうね」
疲れている。
身体の芯に残る重だるさもそうだが、それ以上に思考が限界を迎えようとしていた。
ノアのこと、禁術級の黒結晶。
レーヴの異様な戦い方。
処理すべき情報が、あまりに多すぎた。
すると。
「そういや」
レーヴが、夜風を遮るように何気ない調子で口を開いた。
「明日、ヒマ?」
「……随分と唐突ね」
「いや、依頼が来ててさ」
「依頼?」
「古い水没遺跡の調査。そこそこ実入りが良いらしいよ」
ミレアナは目を細めた。
「……随分とタイミングが良いのね。あの事件の直後に、遺跡調査だなんて」
「アンタ、どんどん疑り深くなっていくなぁ」
「元々よ。生きるには必要な素養だわ」
「知ってるよ、そんなこと」
軽妙なやり取り。
だがミレアナは気づいていた。
レーヴがあえて努めて明るい話題を振っていることに。
ノアの件から自分の意識を逸らし、沈み込みすぎないように気遣っているのだ。
それが無意識の癖なのか、計算された意図なのかは分からない。
けれど、そんな繊細な気遣いを受けることに彼女はまだ慣れなかった。
「……危険な場所なの?」
「んー、そこそこ? 魔物も出るけど、まぁ遺跡だしね」
「曖昧ね」
「大丈夫。ちゃんと俺が守るから」
さらりと言った。
まるで明日の天気を告げるような、何でもない響きで。
ミレアナは一瞬、言葉を失った。
───守る。
そんな重い言葉をこんなに軽やかな熱量で口にする人間を、彼女は知らない。
王都での「守る」とは契約であり責務であり、政治的な立場だった。
けれどレーヴの口にするそれは、もっと感覚的で、もっと自然で。
まるで「そうしたいから、そうするだけ」だという、極めて純粋な動機に基づいているようだった。
「……貴方」
「ん?」
「誰にでも、そういうことを言うの?」
気づけば問いが口から零れ落ちていた。
レーヴがぱちりと瞬きをする。
「は?」
「だから。そのように軽々しく『守る』などと」
「あー……」
レーヴは顎に手を当て少し考える素振りを見せた後、ふっと穏やかに笑った。
「いや? 少なくとも、興味がない相手には言わないかな」
ドクンとまた胸が強く鳴った。
ミレアナは僅かに目を見開くが、レーヴはその反応には気づかず言葉を継ぐ。
「アンタ、放っておくと勝手に無茶するし」
「合理的判断よ」
「その合理性が危なっかしいって言ってんの」
「……理解できないわ」
「知ってる」
レーヴが笑う。
優しく、どこか困ったように。
その穏やかな時を切り裂くように、通りの奥から数人の冒険者たちが慌ただしく走ってきた。
「おい、ギルドに集合だ! 緊急招集だってよ!」
「またどこかで異変だと! 今度は東の森だ!」
一瞬で空気が張り詰めた。
レーヴの表情から笑みが消え、リオネルも即座に獲物を狙う鷹のような鋭い視線を周囲へ巡らせる。
「……早いわね」
ミレアナが低く呟いた。
冷たい予感が背筋を走る。
ノアの件は一つの終わりではなく、何かが決定的に壊れ始めた「始まり」に過ぎないのではないか。
その予感を裏付けるように、夜の街に高く鋭く、警鐘が鳴り響いた。




