知らない感情
どくん、と。
胸の奥がこれまでにないほど妙に騒いでいた。
ミレアナはレーヴを見つめる。
視界を埋めるほど、彼が近い。
額から一筋の血を流しながら、それでも自分の腕を掴んで離さない男。
その表情はあまりにも必死で、あまりにも切実だった。
これまでの人生で、こんな風に引き止められたことなど一度もない。
周囲が彼女に求めてきたのは、いつだって「正しさ」だけだった。
失敗しないこと。
役割を全うすること。
完璧な公爵令嬢であること。
だから───「傷付くな」と、そんな剥き出しの感情を向けられたことなど、一度もなかった。
「……貴方、本当に変ね」
ぽつりと零れた言葉に、レーヴが怪訝そうに眉を寄せた。
「は?」
「普通、そこは合理性を優先するでしょう。私を行かせた方が、生存確率は高いわ」
「しねぇよ、そんなもん」
即答だった。
レーヴは半ば睨むような強い眼差しで、ミレアナを射抜く。
「少なくとも俺はしない。アンタ一人を削る前提の『最適解』なんて、認める気はこれっぽっちもないからな」
真っ直ぐすぎる言葉だった。
誤魔化しも、照れ隠しの軽口もない。
だからこそ、ミレアナは戸惑う。
こんな風に一方的に注がれる純粋な感情の扱い方を、彼女は知らない。
「お嬢様!!」
リオネルの鋭い声が響く。
次の瞬間、ノアが天を仰いで咆哮した。
膨張した黒結晶がみしり、と嫌な音を立てて軋む。
限界が近い。
「レーヴ」
「分かってる」
彼はミレアナの腕をゆっくりと離した。
そして、肺の底にある熱を逃がすように小さく息を吐く。
「……一回だけ、信じて」
低い、祈るような声だった。
「今回は、俺にやらせてくれ」
ミレアナは目を瞬かせた。
───信じて。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
「信頼」とは本来慎重に吟味し、時間をかけて育むものだ。
簡単に差し出せるものではない。
なのにこの男は時々、あまりにも自然にそれを寄越してくる。
まるで、最初からそこにあるのが当然だと言わんばかりに。
「リオネル、援護を頼む」
「分かった」
レーヴが地を蹴る。
速い。
先ほどまでとは次元が違う踏み込み。
空気を切り裂くような速度でノアが振り下ろした剛腕を紙一重で躱し、そのまま一気に懐へ滑り込む。
ミレアナの瞳が細くなった。
動きが違う。
あれは、単なる冒険者の荒々しい剣技ではない。
もっと洗練され無駄を削ぎ落とした───「殺すこと」に特化した、冷徹な技術。
「っ、ぁぁあああ!!」
ノアが狂ったように暴れ、黒い魔力の奔流が噴き出す。
レーヴは舌打ちしながらも、一歩も退かずに踏みとどまった。
そして、一瞬だけ彼の瞳が淡く金色を帯びた。
「……!」
ミレアナの息が止まる。
何、今の光は。
だが思考を巡らせる暇もなく、レーヴの剣が銀の閃光を描いた。
パァン!!
高く鋭い破砕音と共に、核である黒結晶が真っ二つに砕け散る。
訪れる静寂。
ノアの巨体が、糸の切れた人形のようにゆっくりと崩れ落ちた。
「……ぁ……」
最後に、異形の輝きが消えたその瞳に人間の色が戻る。
震える少女の顔。
怯え、苦しみ、けれど最後はどこか安心したように、ほんの少しだけ口角を上げた。
そして彼女は二度と動かなくなった。
水路に沈黙が降り積もる。
ぽたりと黒い液体が滴る音だけが、虚しく反響していた。
ミレアナは、立ち尽くしたまま動けなかった。
救えなかった。
最初から不可能だったことは理解している。
けれど胸の奥が、鉛を流し込まれたように重い。
そんな彼女の傍らでレーヴが静かにしゃがみ込み、ノアの瞼を閉じた。
その手つきは驚くほど優しく、労わるようだった。
「……レーヴ」
「んー?」
返ってきたのは、いつもの軽い調子。
なのに背中が少しだけ、ひどく疲れて見えた。
「貴方……」
「あとで」
ぴしゃりと遮られる。
「今は、何も聞かないでくれ」
その声音に、ミレアナは口を閉ざした。
拒絶ではない。
ただ、触れられたくない深い傷に近づかれた時の防衛本能のような響き。
それが分かってしまったから、何も言えなかった。
リオネルが周囲を警戒しながら、低く進言する。
「……お嬢様、ここを離れるべきです。結晶反応がまだ不安定だ」
「ええ、そうね」
ミレアナは頷く。
だが、立ち上がろうとしたレーヴの身体がふらりと僅かによろめいた。
「……っ」
ミレアナは無意識に手を伸ばし、彼の腕を掴んでいた。
レーヴが意外そうに目を瞬かせる。
「おっと」
「怪我をしているじゃない」
「平気平気。かすり傷だって」
「額から血が出ているわ」
「このくらい、男前が増すだけだから丁度いいよ」
「……意味が分からないのだけれど」
反射的に返した、そっけない言葉。
なのに、レーヴは声を上げて吹き出した。
「ははっ……あー、なんか安心したわ」
「何が?」
「アンタも、ちゃんと俺のこと心配したりするんだなって思ってさ」
ミレアナは言葉に詰まった。
当然だ、と言いかけて───思考が止まる。
当然? 自分が? 誰かを心配することが?
そんな風に、誰かの安否に心を砕いたことがこれまでの人生に一度でもあっただろうか。
レーヴは固まったままの彼女を見て、ふっと柔らかく目を細めた。
「……そーいう顔、もっとしてよ」
優しい声。
その瞬間、ミレアナの胸が小さく騒いだ。




