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失いたくない

湿った冷気が肌を刺す、水路の最深部。

かつて人間であったはずの少女───ノアは、もはや異形と呼ぶほかない姿で喘ぐような呼吸を漏らしていた。


その胸部には、心臓を食い破るようにして禍々しい黒い結晶が突き刺さっている。

ドクン、ドクン。

不気味な脈動。

それは、ノアの生命力を糧にして侵食していく音だった。


「ぁ……、ぁ……」


不意に、ノアの片目から一筋の涙が零れ落ちる。

まだ意識があるのだ。

異形に飲み込まれながらも、彼女の魂はまだそこにある。

ミレアナは喉の奥が熱くなるのを感じた。


「……助けられないの?」

 

気づけば、縋るような問いが口から漏れていた。

レーヴは答えない。

いつも軽薄な笑みを浮かべているその瞳が、今は恐ろしいほど静かにノアを射抜いている。

そのあまりに重い沈黙が、ミレアナに冷酷な現実を突きつけた。


───無理なのだ。


ノアの身体が大きく痙攣し、次の瞬間鼓膜を震わせる轟音が響く。

床の石材を粉砕しながら、その巨体が弾丸のような速度で突進してきた。


「お嬢様!!」


刹那、リオネルが前へ躍り出る。

鋭い剣閃が空を切りノアの身体を捉えた。

しかし、硬質な音が水路に響き渡る。

結晶化した腕が刃を弾き飛ばし、暗がりに火花が散った。


「チッ……!」


あのリオネルが、押し切れない。

均衡が崩れる。

ノアの剛腕が、無防備なリオネルへ向けて振り下ろされた。


だが。

ガァン!! と、石壁が砕けるような衝撃音が炸裂した。

横から割り込んだレーヴが、あろうことか片腕だけでその一撃を受け止めていたのだ。

衝撃を逃がしきれず、レーヴの足元の石床が蜘蛛の巣状に陥没する。


ミレアナの瞳が見開かれた。

どれほど天賦の才があろうと、それは到底人間の出せる力ではない。

レーヴは表情一つ変えずに告げる。


「リオネル! 下がれ!」

「……借りは作らない」

「今いいから!」


レーヴはノアの巨体を力任せに押し返し、苦々しく舌打ちをした。


「クソ……侵食率が高すぎる」


その呟きを、ミレアナは聞き逃さなかった。

まるで見慣れているかのような、異常なほど冷静な分析。

 

「レーヴ」

「今は後だ!」


即座に遮るのと同時、ノアが天を仰いで咆哮した。

衝撃波を伴う濃密な魔力が水路全体を揺らす。


「……っ!」

 

ミレアナが咄嗟に顔を庇った瞬間、頭上の石壁に亀裂が走った。

崩落。

巨大な瓦礫の群れが、逃げ場のないミレアナへ向かって降り注ぐ。


───避け切れない。

合理的判断のもとミレアナが衝撃に備えて身を固めた、その時だった。


「ミレアナ!!」


強い力で身体が引き寄せられた。

どさりと硬い床へ倒れ込み、視界が激しく揺れる。

遅れて、すぐ耳元で落石の轟音が鳴り響いた。


「……っ」


ミレアナは息を呑んだ。

完全に庇われていた。

レーヴの腕が自分を壊れ物でも扱うようにきつく深く、抱き込んでいる。

呼吸が触れそうなほどの至近距離。


「……何してるの」

 

掠れた声を絞り出す。

だが出された言葉は、いつもの軽妙な口調ではなかった。


「お前さぁ……」


低く、地這うような声。

それは、押し殺した怒りそのものだった。


「何で自分で避ける前提なんだよ」


ミレアナは、至近距離で見つめてくる彼の瞳に射すくめられた。


「避け切れないと判断したわ。だから……」

「だからって、そのまま受けるなって言ってんだ!」

「最小損傷で済むように……」

「その考え方、やめろっつってんだろ!!」


怒鳴り声が水路の奥まで反響した。

空気が凍り付く。

冷徹なリオネルですら、一瞬動きを止めるほどの激情。


レーヴは荒い呼吸を乱したまま、ミレアナを見下ろしていた。

その瞳に宿っているのは、苛立ちだけではない。

震えるような───「失うこと」への純粋な恐怖。


「……っ」

 

ミレアナの胸が激しくざわついた。

これまで、こんな目を向けられたことはなかった。


これほど必死に。

これほど感情を剥き出しにして。

自分が傷つくことに対して、自分のこと以上に怒る人間がいるなんて。


「レーヴ」

「……悪い」


我に返ったように彼は気まずげに視線を逸らし、腕を離した。

その時、再びノアの咆哮が静寂を破る。

暴走が最終段階に入り、黒い結晶が肉体を歪に膨張させていく。


「時間がないな」


リオネルが低く告げ、剣を構え直した。

レーヴは口端を歪ませ、忌々しげに言い放つ。


「……核を壊すしかねぇ」

「核?」

「胸の結晶だ。あれが侵食の根源」

 

ノアを見つめるレーヴの目は、ひどく苦そうだった。


「あれを壊せば、全部終わる」


終わる。

それは、救済という名の死を意味していた。


「……死ぬのね」

「……ああ。もう、助からない」


静かな肯定だった。

ミレアナはノアを見つめる。

異形の中で苦しげに喘ぎながらも時折見せるその瞳は、助けを求める少女のものだった。

どれほど怖かっただろう。

誰かに手を伸ばしてほしかっただろう。

なのに、与えられたのはこの末路だ。


「……最低だわ」

 

それが実験を主導した者への怒りなのか、何もできない自分への嫌悪なのかは、自分でも分からなかった。

ふと、レーヴがこちらを振り返った。


「ミレアナ」

「何?」

「核は、俺が壊す」


ミレアナは目を細めた。


「……私にだって可能よ」

「駄目だ」

「何故。適任者がやるべきだわ」

「アンタにやらせたくないんだ」


即答だった。

ミレアナは言葉を失う。


「これは、俺がやる」


その声は、驚くほど静かだった。

けれど、そこには決して揺らがない鋼のような意思が込められていた。


まるで、これ以上「汚れ」や「重荷」をミレアナに背負わせたくないとでも言うように。

彼は剣を握り直し、再び異形へと向き直った。




水路の空気は、いよいよ重く濁り始めていた。

ノアの身体から溢れ出す黒い魔力が毒霧のようにじわじわと周囲を侵食し、壁や床を蝕んでいく。

その絶望的な光景の中心で、レーヴは静かに剣を構え直した。


「リオネル、動きを止められるか?」

「数秒なら」

「十分だ」


短いやり取り。

ミレアナは隣に立つレーヴの横顔を見つめた。

いつもの軽薄な弛みは、もうどこにもない。

けれど、それは戦闘時の冷酷な集中力とも少し違っていた。

もっと個人的な、もっと深い場所から湧き上がる怒り。


「……レーヴ」

「ん?」


 彼は振り返らない。


「貴方、こういうものを見慣れているの?」


一瞬、沈黙が落ちた。

水路に響くのはノアの異形と化した身体が軋む音と、苦しげな呻きだけだ。


「……まぁね」


返ってきた声は、どこまでも軽かった。

だが、あまりに軽すぎた。

だからこそ、ミレアナには分かってしまう。

彼が今、目の前の問いを笑みで塗り潰したことが。


「昔、ちょっと色々あってさ」


それ以上は言わせないという、目に見えない拒絶の壁。

ミレアナは瞳を細める。

この男はいつもそうだ。

自分の核となる部分には決して触れさせず、冗談と愛想で境界線を引く。

けれど今の彼の背中は、見ているこちらが辛くなるほどに痛切そうだった。


「行くぞ!」


次の瞬間、ノアが天を突くような咆哮を上げた。

同時にリオネルが弾かれたように飛び出す。

鋭い剣閃がノアの脚部を正確に捉えた。

ガギィン!! と硬質な衝突音が響き、ノアの巨大な体勢が僅かに崩れる。


「今だ!!」


レーヴが地を蹴った。

速い。

まるで実体のない影のように一瞬で懐へ潜り込む。

だが、最期の瞬間。

ノアの濁った瞳が、ミレアナを射抜いた。


「……おね……ぇ、さ……」


喉の奥から絞り出された、幼い掠れ声。

ミレアナの思考が、一瞬だけ停止した。

そして、それはレーヴも同じだった。


「───っ」

 

剣を振り抜く直前の、致命的な迷い。

その刹那、ノアの膨張した腕がレーヴを真っ向から叩き飛ばした。


「レーヴ!!」

 

轟音。

石壁に叩きつけられた彼の身体が、崩落した瓦礫の中へと沈んでいく。


「チッ……!」


リオネルが苦々しく舌打ちするが、ノアの暴走はもはや止まらない。

結晶が脈動し、尋常ではない密度で膨れ上がっていく。


───爆発型。

ミレアナは瞬時に状況を整理した。

このまま臨界点を超えれば、水路ごとすべてが吹き飛ぶ。


「リオネル、退避を」

「お嬢様は!?」

「私が核を壊すわ」


躊躇のない即答だった。

リオネルが険しく眉を寄せる。


「レーヴから止められています!」

「時間がないわ」


ミレアナは短剣を抜き放ち、前へ出る。

恐怖はない。

迷いもない。

いつものようにただ「最適解」を遂行するだけだ。

足を踏み出そうとした、その時。

ぐい、と強い力で腕を掴まれた。


「……っ」

 

振り返れば、そこには瓦礫から這い出したレーヴが立っていた。

額から流れる血を拭うこともせず、荒い呼吸を繰り返しながら、彼はミレアナを強く睨み据えていた。


「行くな」

「でも……」

「行くなって言ってるんだ」

「これが最適解よ」

「知るか」


ぴしゃりと言い切られた。

ミレアナは僅かに目を見開く。

レーヴは普段、彼女の合理性を尊重し理解しようと努めてくれる男だ。

なのに今は、それを一蹴した。


「アンタさ……」

 

彼は息を切らしながら、絞り出すように言った。


「何でそんな簡単に、自分を捨てられるんだよ」

「捨ててなんて……」

「捨ててる!」


遮るような怒声。

レーヴの瞳には怒りと焦りと、そして剥き出しの恐怖が混ざり合っていた。


「怪我をしてもいい。壊れてもいい。自分なら平気だ。……ずっとそうやって、生きてきたんだろ」


ミレアナは言葉を詰まらせた。

否定できなかった。

王都で「完璧な令嬢」を演じていた時もそうだった。

期待される役割を全うするために、自分の感情を削り痛みを飲み込み、ただ最適であり続けた。

それが彼女の誇りであり、生存戦略だったから。

なのにレーヴはそんな彼女を見て、今にも泣き出しそうな苦痛に満ちた顔をする。


「……やめてくれ」


掠れた、震える声。


「そういうの、ほんと……無理なんだよ」


その瞬間、ミレアナは初めて気づいた。

この男は───自分が傷つくこと以上に、誰かが自分を犠牲にする光景が耐えられないほど怖いのだ。

だから、これほどまでに怒る。

二度と見たくない悲劇を、必死に拒絶するように。


「レーヴ……」

「アンタが傷付くのを、見たくないんだ」


水路が激しく鳴動しノアの結晶が限界の光を放つ。

けれどミレアナの耳には、彼のその言葉だけが不思議なほど鮮明に響いていた。


役割ではなく、合理性でもなく。

ただ、ミレアナという一個人に向けられた祈りに似た叫びだった。

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