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19/41

巣の気配

翌朝の空はどんよりとした重たい灰色の雲に覆われて、今にも泣き出しそうな表情をしていた。


ボーデンの朝特有の肌にまとわりつくような湿った空気の中、ミレアナたちは下層区画の外れに位置する古い水路跡へと向かっていた。


道中、レーヴは珍しく静かだった。

いつもなら「お嬢様、朝の空気はどう?」などとどうでもいい軽口を飛ばしてくる男が、今日は獲物を狙う野獣のように目を眇め、周囲の気配を読み取っている。

ミレアナは、先を歩く彼の逞しい背中をちらりと盗み見た。


───放っておけない。

昨夜彼が零した言葉が、耳の奥に残り続けている。

理解はできなかった。

なぜ、自分にこの男はここまで構うのか。

合理的に考えれば、指示に従うだけの護衛として振る舞う方が楽なはずだ。


「……何?」


不意にレーヴが足を止めて振り返った。

視線がぶつかる。


「別に。何もないわ」

「嘘だ。今、絶対なんか考えてた顔してたぞ」

「考えていないわ」

「嘘だぁ。アンタ嘘つく時、視線が右上に泳ぐんだよね」


にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。

その瞬間さっきまでの鋭い空気がふっと和らぎ、いつもの空気が戻ってきた。


「アンタさ、分かりやすくなったよね。最初会った時より、ずっと表情があるよ」

「意味が分からないわ。私は常に冷静で、不変であるよう努めているのだけれど」

「あるある。今のだって、ちょっとムッとしてるだろ?」


レーヴは愉快そうに笑う。

その様子を見ていたリオネルが、背後から冷ややかに口を挟んだ。


「レーヴ。お嬢様を珍奇な観察対象のように扱うのはやめろ」

「えー、いいじゃん。減るもんじゃないし」

「よくない。不敬だ」

「相変わらず厳しいなぁ、リオネル様は」


軽口の応酬。

けれど、その何気ない空気に救われている自分に気づく。

昨夜あの異形を介錯してから胸の奥に澱んでいた重苦しさが、僅かに、けれど確かに薄れていく。

その時だった。


「……止まって」


ミレアナが低く制止の声を上げた。

全員の足が止まる。


古い水路跡の入り口。

崩れた石壁の隙間から、湿り気を帯びた風と共に鼻を突くような不快な臭いが流れてきた。

腐臭、血の生臭さ、そして───。


「……魔力の濁り」

 

ミレアナが目を細め、意識を集中させる。

レーヴの表情から一瞬で笑みが消えた。


「分かるのか?」

「ええ。酷く不快で、淀んだ魔力だわ」


王都の最高教育で叩き込まれた魔術知識が、警鐘を鳴らしている。

これは自然界に存在する魔力ではない。

生きた魂を無理やり捻じ曲げ汚染したような、不自然極まりない澱みだ。


「……やっぱ当たりか。ロクでもないもんが詰まってやがる」

 

レーヴの声が低く落ちる。

リオネルは既に剣の柄に手を添え、周囲の死角を消すように配置についた。


「内部は狭そうだな。入り組んでいる」

「水路だからな。逃げ場は少ないし、奇襲にはうってつけだ」

「……嫌な構造だわ」


ミレアナは暗く口を開けた入り口を見つめる。

それはまるで、獲物を待ち構える巨大な獣の口のようだった。


「私が先に立つわ。私が索敵すれば───」

「駄目だ」


即答だった。

ミレアナが怪訝そうに振り返る。


「なぜ? 効率を考えるなら、私の索敵を優先すべきだわ」

「なぜじゃないんだよ」


レーヴは本気で呆れたように深い溜息を吐いた。


「狭い場所。視界は最悪。相手の数も不明。そんな場所に、一番守らなきゃいけないアンタを真っ先に放り込む馬鹿がどこにいる? 前に出る条件が一つも揃ってねぇよ」

「適材適所というものが───」

「だから、そういうところだって言ってるんだ」


レーヴが押さえるように額に手を当てた。


「アンタさ“自分が一番危険な役割を担うのが当然”だって、無意識に思ってるだろ。自分を駒の一つとしてしか数えてない」

「……最適配置の結果よ」

「はいはい、その聞き飽きた屁理屈はもういいよ」


レーヴは苛立った様子を見せながらミレアナの目を覗き込んだ。


「いいか。合理性で言うなら、指揮官であるアンタが倒れたら、残った俺たちがどう後処理するんだ? 自分の『価値』をもっと高く見積もれ。それが本当の計算ってやつだろ」


ミレアナは言葉を失った。

自分の価値。

そんな風に考えたことは一度もなかった。

王太子妃候補だった頃から求められていたのは「役割」という枠組みであって、ミレアナという一個人の命ではない。

役に立つから価値がある。

役立たないなら不要。

それだけの世界で生きてきた。


「……難しい顔しちゃって」


レーヴがぐいと顔を近づけてくる。


「……近いわ」

「あ、また言った」

「実際、近すぎるもの」

「本当はちょっと慣れてきたくせにさ」


ミレアナが言い返せずに言葉に詰まると、レーヴは満足そうに吹き出した。


「図星だろ?」

「……貴方、本当に面倒な人ね」

「最高の褒め言葉として受け取っておくよ」


その時、背後でリオネルが無言のままレーヴの襟首を後ろから掴み上げた。


「うおっ!? 何すんだよリオネル!」

「お嬢様に近づきすぎだ。離れろ」

「急に引っ張るなって、首が締まる……!」


少し乱暴なリオネルの振る舞いに、ミレアナは目を瞬かせた。

レーヴは襟元を直しつつ、不満げにリオネルを睨む。


「お前さぁ、独占欲が強すぎないか? 護衛の範疇を超えてるだろ」

「私はお嬢様の『騎士』だからな。不穏な輩を遠ざけるのは当然の義務だ」

「不穏な輩って俺のことかよ!」


低温のやり取り。

けれど、レーヴはどこか楽しそうに口角を上げている。

ミレアナはそんな二人を見て、僅かに目を細めた。

騒がしい。

これまでの人生にいた誰よりも理解不能で、予測不能な人々。

なのに、以前の自分なら「煩わしい」と切り捨てていたはずのその空気が今は不思議と、心地よかった。


その時、水路の奥からぞわりと肌を撫でるような不吉な震動が伝わってきた。

その瞬間、レーヴの顔から一切の笑みが消える。


「───来るぞ」


次の瞬間水路の奥、底知れぬ闇の中から、赤黒く濁った瞳が幾つも浮かび上がってきた。




闇の奥で、赤黒い瞳がゆらりと揺れた。

一つではない。

二つ、三つ───闇に目が慣れるにつれ、その数は絶望的なまでに増えていく。

水路の湿った壁に反響し、獣じみた低い唸り声が重なって響いた。


「……数、多いわね」


ミレアナが短剣を構える。

レーヴは音もなく一歩前へ出た。

いつもの気怠げな空気は完全に削ぎ落とされている。

肩の力は抜けているのに、その立ち姿には一点の隙もない。


「リオネル、後衛を頼む」

「言われずとも。お嬢様の背は守る」

「ミレアナは」

「前へ出るわ。火力の支援が必要でしょう」

「……だと思ったよ」


レーヴは半眼で溜息をついた。


「何よ、不服かしら」

「いや別に。“危険ですので下がっててください”とか言っても、アンタ絶対聞きゃしないなって確信しただけ」

「当然でしょう。足手まといになるつもりはないわ」

「はいはい」


軽口。

けれどレーヴは、さりげなくミレアナの半歩前を維持している。

それは単に「守る」ためというより、彼女が一人で突出しないように物理的に“無茶をさせない位置”だった。

ミレアナはその意図に気づき、僅かに目を細める。


その時だった。

化け物たちが一斉に闇を蹴った。

速い。

四足獣のような低い姿勢で石壁を蹴り、飛沫を上げて水路を駆けてくる。

だが。


「遅ぇ」


レーヴが動く。

鋭い踏み込み。

───銀閃。

次の瞬間には、先頭の個体の首が宙を舞っていた。


ミレアナの瞳が驚愕に細くなる。

やはり異常だ。

腕のいい冒険者という言葉だけでは、到底説明がつかない。

剣速、精度、そして気配の読み。

そのどれもが「実戦」という言葉の、さらに奥底にある血の匂いをさせていた。


「右!!」

 

ミレアナが叫ぶと同時に、自らも地を蹴る。

短剣が鋭く閃き、横から飛びかかってきた個体の顎下へ深々と突き刺さった。


急所。

迷いのない一撃。

リオネルの剣が別の個体を豪快に薙ぎ払い、レーヴがさらに二体を沈める。

言葉はなくとも、三人の動きは噛み合い始めていた。


「……っ!」

 

だが次の瞬間、奥から飛び出した個体が死角を突いて真っ直ぐミレアナへ突っ込む。

速い。

完全な回避は間に合わない。

ならば最小被害で急所を避け、相打ちで確実に仕留める───。

そう彼女が「合理的」に判断したその瞬間だった。


「馬鹿!!」


強い力で腕を引かれ、視界が激しく揺れた。

直後、ミレアナがいた場所を化け物の鋭い爪が深く抉る。


「……っ」


気づけば、彼女はレーヴの腕の中にいた。

近い。

というか、完全に抱き寄せられている。


「な、何を───」

「今、何考えた?」


低い声。

笑っていない。

その瞳の奥にある冷徹な光に、ミレアナは息を呑んだ。


「避け切れないなら急所交換でいい、とか思ったろ。腕の一本くらいなら、とか」

「……合理的判断よ。確実に仕留めるにはそれしか」

「だから、それやめろって言ってんだよ」


珍しく、彼は本気で苛立っていた。

ミレアナは目を瞬く。

ここまで剥き出しの感情を露わにするレーヴを見るのは、これが初めてだった。


「かすり傷で済む計算だったわ」

「済まなかったら?」

「それは……」

「“仕方ない”ってか?」


言葉が詰まる。

レーヴは忌々しげに舌打ちした。


「……ほんと最悪」

「……」

「アンタ、自分が傷付くことをコスト計算みたいに軽く見すぎなんだよ」


その瞬間、別個体が横から迫る。

だが───ギィン!!

リオネルの剣がそれを冷酷に叩き落とした。


「お嬢様、痴話喧嘩は後にしてくださいますか。集中を」

「してねぇよ!?」

「お嬢様から離れろ不愉快だ」


リオネルの低温の警告にレーヴは「はいはい」と肩を竦めて腕を解く。

だが、ミレアナはまだ少し固まっていた。

胸の奥が熱を持ったようにざわついている。


怒鳴られたからではない。

あんな風に、自分が傷付くことに対して自分のことのように感情を露わにされた経験が、これまでの人生に無かったからだ。


王都では違った。

「怪我をするな」とは言われた。

「失敗するな」とも。

けれどそれは、常に“役割を果たせなくなるから”という但し書きが付いていた。


今のレーヴは違った。

ミレアナという人間そのものに怒っていた。


「ミレアナ!」

 

名を呼ばれ反射的に顔を上げると、レーヴがこちらへ手を伸ばしていた。


「左だ!」


考えるより先に身体が動く。

迫っていた個体を最小限の動きで躱し、レーヴの剣閃と交差するように、 ミレアナの短剣が敵の喉を裂いた。


鮮血が舞い、崩れ落ちる肉塊。

レーヴがふっと目を細める。


「……そういうとこ、ほんと信頼できるわ」

「貴方も。今の連携、悪くなかった」

「お、褒めた? 嬉しいねぇ」

「事実を述べただけよ。……お調子者」


即答。

なのに、レーヴは何故か嬉しそうに口角を上げた。

その時だった。

水路のさらに奥から、地響きのような低い呻き声が響き渡った。

今までの化け物とは明らかに違う。

もっと重く、もっと悍ましい。


ぬるり、と。

巨大な影が闇から姿を現した。


「……っ」


ミレアナが息を呑む。

人型。

だが、異様に巨大化している。

膨張した肉体、黒ずんだ皮膚。

胸部の中央には心臓の代わりに巨大な黒結晶が埋め込まれ、脈打っている。

そして、その顔。


「……ノア?」


ミレアナの瞳が見開かれた。

まだ、面影が残っていた。

昨日の街角で見かけたあの灰色フードの少女。

痩せた顔立ち、怯えた瞳。

その顔の左半分だけが、まだ辛うじて“人間”のままだった。


「ぁ……あ……」


化け物がミレアナを見つめる。

濁った瞳が揺れ、震える唇が何かを紡ごうとしていた。

助けを求めるみたいに。

あるいは、終わらせてくれと願うように。

その瞬間、レーヴの顔色が劇的に変わった。


「下がれ」


低い声。

出会ってから今までで一番鋭く、研ぎ澄まされた声。


「レーヴ?」

「下がってろ、ミレアナ」


彼は迷いなく、その巨大な影の前へと歩み出る。

見慣れたその背中だけで分かった。

彼は、怒っている。

静かに、深く。

取り返しがつかないほどに。


その怒りは変わり果てた少女に向けられたものではなく、彼女をこんな姿に変えた「世界」と「何者か」に向けられたものだった。

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