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触れられない傷

夜、宿へ戻った後も部屋の空気は鉛のように重かった。


窓の外では辺境都市ボーデン特有の騒がしい夜が続いている。

下卑た笑い声、酔っ払いの歌、そして日常的に響く怒鳴り声。

だが厚い壁に仕切られたこの部屋だけは、妙に静まり返っていた。


机の上には、戦場で回収したあの「黒い結晶」が置かれている。

厚手の布で何重にも包まれているにも関わらず、それは不快な拍動を繰り返し、存在を主張していた。


ミレアナは椅子へ腰掛けたまま、じっとそれを見つめていた。

人間を材料にした禁忌の実験。

あの化け物が、死の直前に漏らした「た、す、け、て」という掠れた声。

それが呪いのように、頭から離れない。


「……考え込みすぎだよ、アンタ」


不意に落ちてきた声に、ミレアナは顔を上げた。

向かいの壁に背を預け、腕を組んでこちらを見ているレーヴと目が合う。

いつものように軽薄そうな笑みを浮かべてはいるが、その双眸の奥には隠しきれない疲労が滲んでいた。


「別に、考え込んでないわ」

「嘘。考え込んでる時に、眉間にシワを寄せるのがアンタの癖だって、もうバレてるから」


レーヴはそう言って、勝手に椅子を引き寄せて座った。

あまりに自然な動作。

あまりに、近い距離。

ミレアナは僅かに眉を寄せ、彼を牽制する。


「……近いわ」

「嫌?」

「……少し」

「へぇ」


そう言いながら、彼は一向に離れようとしない。

相変わらず距離感がおかしい。

無礼だ。

そう断じるべきなのに、不思議と以前のような強い拒絶感は湧かなかった。

むしろ、この不躾な近さが冷え切った思考を現実に繋ぎ止めてくれているような気さえした。


「ミレアナさ」


レーヴがぽつりと、夜の静寂に溶け込むような声で口を開く。


「躊躇わなかったね。さっきの、介錯」


ミレアナは少し黙り、自分の指先を見つめた。


「……必要だったからよ」

「うん、そうだね」


レーヴは否定しなかった。


「でも普通、もうちょい迷うよ。あれだけ人の形が残ってりゃね。……ま、アンタ顔に出ないから分かりにくいだけなんだろうけど」


困ったように笑う彼をミレアナは冷ややかに、けれどどこか虚ろに見返した。


「……あれ以上生かしておくのは、慈悲ではないわ。助からないなら、終わらせるべき。それが最も合理的な判断よ」


いつもの答え。

揺るぎない理屈。

だがレーヴの視線はそれを容易く見透かしていた。


「アンタ、自分にも同じことするタイプだよね」


ミレアナの指先がぴたりと止まった。

責めるでもなく怒るでもなく、ただ残酷なまでの事実を確認するような、静かな声音。


「切り捨てるのに慣れてる。他人の痛みもそうだけど……何より、自分の痛みも、自分の限界もさ」

「……そんなこと」

「あるよ。自分なら壊れてもいい、その代わり完璧な結果を出す。そうやって生きてきただろ」


即答だった。

ミレアナは反論できなかった。

否定するための材料が、自分の過去のどこを探しても見当たらないからだ。


王太子妃候補として育てられた日々。

感情より責務を、痛みより合理性を。

必要ならば自分という個を削り取り、完璧な器であることを求められてきた。

それが彼女にとっての「当たり前」だった。


「……それの、何が悪いの?」

 

絞り出した問いにレーヴは一瞬だけ口を閉ざした。

そして、吐き捨てるように言った。


「……見ててムカつくんだよ」

「は?」

「いや、ほんとに。腹が立つんだ」


あまりにも予想外の、そしてあまりにも身勝手な返答。

ミレアナは呆気にとられて彼を見た。

レーヴは乱暴に頭を掻きながら、視線を窓の外へ逸らす。


「なんつーかさ。アンタ“自分が壊れること”を軽く見積もりすぎなんだよ。自分が傷つくことを『必要経費』の中にさらっと入れんなよ。不快なんだ」

「私は別に、自分を粗末にしているわけでは――」

「してるんだよ、無自覚に」


珍しく、彼の声に強い圧があった。

ミレアナが目を瞬くと、レーヴは我に返ったように短く息を吐き、少しだけ苦しそうに笑った。


「……悪い。言いすぎた」

「……貴方」

「ん?」

「時々、妙に必死になるわよね。例えば、私が危険に飛び込もうとする時。何故そこまで止めるの? 合理性だけで言えば、目的達成のためのリスクは避けられないものだわ」


レーヴの目が細くなる。


「リスク、ね。……アンタ、自分のことになると本当に雑」


彼は椅子へ深く座り直し、天井を見上げた。


「誰かが勝手に自分を犠牲にしてさ『これが最善だから』とか『私の勝手だ』とか言い出すの、俺、すげー嫌いなんだ」


空気が、一気に変わった。

いつもの軽い調子のままなのにその言葉の裏には、深淵のような重苦しさが沈んでいる。


「……昔、いたの? そういう人が」


ミレアナの問いに、レーヴは答えない。

静かな沈黙。

長くはない。

けれど、彼という人間が背負っているものの深さを物語るには十分すぎる時間。


「……まぁね」


短い、乾いた返答。

それ以上は語らないという沈黙。

けれど、ミレアナは直感した。

この男にも、絶対に他人に触れさせない、癒えることのない「傷」がある。

それは形こそ違えど、自分の中に横たわる虚無と同じ色をしているのだと。


「……変ね」

「何が?」

「貴方みたいな人が、そんな顔をするなんて」


レーヴが堪えきれずに吹き出した。


「俺みたいってどんなよ」

「適当で軽薄で、胡散臭くて無礼で、距離感の調節が壊れている人」

「悪口のフルコースじゃん。泣くよ?」


口ではそう言いながら、彼は笑っていた。

本当に少しだけ、肩の力が抜けたみたいに。


「でも」


ミレアナは言葉を繋ぐ。


「優しいのね。貴方は」


レーヴの笑みが、ふっと止まった。

数秒の、奇妙な静寂。


「……それ、たぶん勘違いだよ。お嬢様」


彼は自嘲気味にどこか苦しそうに笑った。

その時だった。

こんこん、と静かに扉が叩かれる。


「お嬢様、リオネルです」

「……入って」


部屋へ入ってきたリオネルは、机の前に陣取っているレーヴを見るなり僅かに眉を寄せた。


「……レーヴ、何故まだ居る。夜更けだ、慎め」

「いいじゃん、真面目だなぁリオネルは」

「貴様が不真面目すぎるんだ」


ミレアナは思わず、小さく息を吐いた。

騒がしい男たち。

けれど、そのやり取りが不思議と不快ではなかった。

リオネルは表情を引き締め、机へ数枚の報告書を置いた。


「調べてまいりました。下層区画における、ここ数ヶ月の失踪者一覧です」


空気が引き締まる。

ミレアナは紙へ目を落とした。

並ぶ名前、特徴、そして───。


「……全員、十代前半以下。幼い子供ばかりね」


部屋の温度が一気に下がった。

レーヴの瞳からも、一切の笑みが消える。


「子供だけを狙った、組織的な誘拐……」

「ええ」


リオネルが頷く。


「そして、失踪場所には明らかな偏りがあります。この地図をご覧ください」


印がつけられているのは、古い水路跡周辺。

昼間、カイルが「変な声がする」と教えてくれた場所だ。


「……巣があるわね。おそらく、そこに」

 

ミレアナが低く呟く。

レーヴはその横顔を静かに見つめていた。

恐怖よりも先に、思考を走らせる。

冷静で合理的で、強い。

なのに先ほどあの異形へ短剣を突き立てた時、彼女の指先は微かに震えていた。

彼女は、ちゃんと傷ついているのだ。


「……はぁ、全く」

「何?」


ミレアナが顔を上げると、レーヴはいつもの、けれどどこか温かみのある困り顔で笑った。


「アンタ、ほんと放っておけないなって思って。……手伝うよ、最後までさ」

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