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踏み込ませない男

怪物の死骸を前に、森の空気は粘りつくような沈黙に支配されていた。

鼻を突く血の臭い。

大気を汚染する濃密な魔力。

生き残った冒険者たちの間に、形容しがたい不安が波紋のように広がっていく。


「意図的って……一体、誰が何のためにこんな化け物を……」

「分からないわ。けれど、あまりに不自然よ」


ミレアナは怪物の硬化した腕に指先を触れたまま、脳内のデータベースを高速で検索する。


「魔力暴走による変異にしては個体の安定性が高すぎる。偶発的な事故ではなく、明確な設計思想に基づいた『調整』の跡が見えるわ」


バッシュの眉間に深い溝が刻まれた。


「厄介だな……。単なる魔物の活性化なら辺境の問題で済むが、人為的となれば話は別だ。最悪、国家の存亡に関わる案件になるぞ」


その、緊張が極限に達した時だった。


「───離れろ」


低く、地を這うような鋭い声。

レーヴだった。

先程までの軽薄さや気怠さは微塵もない。

その場にいる全員が反射的に身を竦めるほどの、凍てつくような圧。

ミレアナが顔を上げた瞬間、レーヴの手が彼女の腕を掴んでいた。


「え……っ」


抗う間もなく、強引に後ろへと引きずられる。

その直後。

───ドォッ!!

凄まじい破裂音と共に、怪物の死骸が内側から爆ぜた。


「っ!? なんだ!?」


黒濁した液体が四方に飛び散る。

鼻を突く猛烈な腐臭と、視界を遮る赤黒い煙。

液体が触れた地面の草は、嫌な音を立てて瞬時に溶け落ちた。


「毒か! 下がれ、霧を吸うな!」


冒険者たちが悲鳴を上げて後退する。

リオネルが即座に抜剣しミレアナを庇うようにその前に立ち塞がった。


「お嬢様、お怪我は!」

「平気よ。……それより」


ミレアナの視線は、自分を放したばかりのレーヴに釘付けになっていた。

異常なまでの反応速度。

爆発の兆候など、論理的には観測不可能なタイミングだった。

まるで……こうなることを、あらかじめ知っていたかのように。


「……貴方」

「ん?」


レーヴの声は瞬時にいつもの調子に戻っていた。

だが、遅い。

ミレアナの動体視力と観察眼は、彼が「一瞬前まで纏っていた空気」を決して見逃してはいなかった。


「今、何故分かったの。爆発の予兆など、魔力波形には出ていなかったわ」

「んー、勘? 長く冒険者やってるとさ、死ぬ直前の匂いってのが分かるようになるんだよね」

「嘘ね」


即答。

ミレアナの瞳がレーヴの仮面を剥ぎ取ろうと鋭く細められる。


「……辛辣だなぁ」

「誤魔化してる。貴方の今の動きは、直感という言葉で片付けられるほど単純なものではなかったわ」


視線が至近距離でぶつかり合う。

火花が散るような沈黙。

一瞬、レーヴの笑みが完全に消えた。

その時だった。


「おい、見ろ! 死骸の中から何か出てきたぞ!」


バッシュが声を荒らげる。

溶け崩れた怪物の腹部、裂けた肉の奥底。

そこに、不気味に脈動する「黒い結晶」が埋め込まれていた。

太陽の光さえ吸い込むような禍々しい輝き。

周囲の空間を歪ませるほどの、汚濁した魔力。


「なんだこれ……魔石か? いや、こんな色の石は見たことがねぇ」


一人の冒険者が顔を青ざめさせ、後ずさる。

見ているだけで頭痛を催すような、悍ましい気配。

ミレアナの瞳が驚愕に揺れた。


「魔石……? 違うわ。これは、もっと別の……」

「知っているのか、嬢ちゃん」

「……文献でしか知らないわ。けれど、これがもし私の想像通りなら、この森の異変どころの話ではないわよ」


重苦しい沈黙が戦場を包む。

その中で、ミレアナは気づいた。

隣に立つレーヴの表情がほんの僅かに、物理的な痛みを耐えるかのように強張ったのを。


「……やはり、貴方は知っているのね」

「さあね? 俺はただの無学な冒険者だからさ」

「また、そうやって逃げるの?」


レーヴは、困ったように眉を下げて笑った。


「……お嬢様。あんまり深入りしすぎると、危ないよ」


それは、忠告か。あるいは───。


「脅しなの?」

「まさか。……心配してるんだよ。俺は優しいからね」


さらりと言ってのける。

いつもの冗談みたいな口調。

けれどその瞳の奥底だけは、微塵も笑っていなかった。

そこにあるのは、底知れない深淵。


ミレアナは静かに彼を見つめ返す。

この男は何かを知っている。

それも、この街やギルドが関われるようなレベルではないもっと深く、暗い歴史の影を。


「……貴方、本当に何者なの」


小さな、けれど核心を突く問い。

レーヴはしばし沈黙し、森の木漏れ日を見上げた。

そして、いつものようにへらりと無責任そうな笑みを貼り付けた。


「だから言ったじゃん。しがない、ただの冒険者だってば」

「胡散臭い。その言葉を信じるほど私はお人好しではない」


リオネルが主人の想いを代弁するように冷たく言い放つ。


「もー、主従揃って容赦ないなぁ。お兄さん、泣いちゃうよ?」


おどけて笑うレーヴ。

だがミレアナには見えていた。

彼の背後にそびえ立つ透明で、けれど決して壊すことのできない巨大な壁を。

誰にも何者にも、その内側を触れさせない。

深く冷たく、そして酷く孤独な断絶の壁を。

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