森の奥
調査隊は正午を回る前に西の森の深部へと足を踏み入れていた。
陽光を遮るほどに生い茂る木々。
湿り気を帯びた空気は鉛のように重く、肌にまとわりつく。
浅層の森とは明らかに一線を画す、捕食者の気配がそこかしこに満ちていた。
「静かね」
ミレアナが周囲を鋭く見渡す。
鳥の囀りは途絶え、虫の羽音すら聞こえない。
魔物の気配すら、逆に薄すぎる。
───不自然なほどに、死に絶えた静寂。
「……嫌な静けさだ。まるで、大きな口の中に飲み込まれたような気分だぜ」
前方を歩いていた冒険者が、震える声で低く呟いた。
その瞬間、レーヴの細められた瞳がさらに鋭く一箇所を射抜いた。
「止まって」
いつもの軽い声音。
だがそこには抗えない圧があった。
調査隊全員が、凍りついたように足を止める。
ミレアナも即座に五感を研ぎ澄ませた。
風向きの変化、下草のわずかな揺れ、土の湿り気。そして、鼻腔を突いたのは……。
「……血」
微かな、けれど確かな鉄の臭い。
リオネルが静かに剣の柄に手を掛ける。
バッシュが地を這うような声で命じた。
「前方警戒。音を立てるな」
一歩、また一歩と慎重に進む。
やがて、視界が開けた場所で全員が息を呑んだ。
地面には無惨に引き裂かれた外套。
点々と続く血痕。
半ばからへし折られた鋼の剣。
そして周囲の巨木には、巨大な質量が叩きつけられたような亀裂が走っていた。
「先行した斥候隊か……」
張り詰めた空気に、誰かの嗚咽が混じる。
ミレアナは恐れることなくその場に跪き、冷静に痕跡を指でなぞった。
「争った形跡が少なすぎるわ」
「……どういう意味だ、お嬢ちゃん」
バッシュが問いかける。
「正面から戦う暇さえなかったということよ。不意打ち、それも複数方向から同時に仕掛けられている。逃げる隙すら与えられていないわ」
彼女は土の上に残された爪痕を観察し言葉を継ぐ。
「相手はゴブリンだけではない。この足跡の深さ……もっと巨大な、重量級の個体がいるわね」
その宣告と同時だった。
森の奥から心臓を直接握りつぶすような低い唸り声が響いた。
───グルルルル……。
茂みの奥。
一つではない複数の殺気が、一斉にこちらへ向けられる。
「来るわ!」
ミレアナが叫ぶと同時に影が飛び出した。
「ッ、グレイブボアだ! それも二体同時だと!?」
突進。
以前遭遇した個体とは比較にならない巨躯。
鋼のような毛並みに岩をも砕く巨大な牙。
「散開!! 迎撃態勢、早くしろ!」
バッシュの怒声が響き地面が激しく揺れる。
突進速度は異常だった。
ベテランの冒険者たちが盾を構えて迎撃に動く。
その混乱の最中、ミレアナの背筋を冷たい悪寒が走った。
(後ろ……!?)
「右後方!! 伏せて!」
飛び出してきたのはゴブリンだった。
だがただのゴブリンではない。
赤黒く変色した皮膚。
岩のように発達した筋肉。
瞳は理性を失いドロドロとした殺意だけで発光している。
「変異種か!」
レーヴが叫ぶ。
ゴブリンが、盾を構え損ねた冒険者の喉元へ飛び掛かった。
速い。
迷えば死ぬ。
ミレアナは即座に地面を蹴った。
「ミレアナ! 待て!」
レーヴの制止が聞こえたが、止まらない。
今この瞬間自分が動かなければあの男の命は終わる。
彼女の脳内にある計算は、最短の救出ルートを導き出していた。
空中で短剣が閃く。
ゴブリンの腕を根元から切断し、着地と同時に返す刃でその喉を正確に裂いた。
熱い血飛沫が、彼女の白い頬を汚す。
だが。
「っ……!」
仕留めた瞬間、視界の端から巨大な質量が迫っていた。
別の一体のグレイブボア。
ゴブリンを仕留めた直後の隙を突いた、死角からの突進。
回避は、間に合わない。
その瞬間、衝撃に備えて身を固めたミレアナの腕が強引に引き寄せられた。
轟音。
目の前を巨大な猪の牙が空気を切り裂いて通り過ぎる。
あと数センチ反応が遅れていれば、彼女の体は今頃肉塊に変わっていただろう。
背中を支える強い腕。
鼻を突く、砂埃と微かな煙の匂い。
「……何、してんの」
耳元に届いたのは地獄の底から響くような低い声。
レーヴだった。
彼は抱き込むようにしてミレアナを庇い、その瞳からはいつもの陽気さが一片も消え失せていた。
「……私を、助ける必要が───」
「あるに決まってんだろ、馬鹿か!」
ぴしゃりと言い切られミレアナは言葉を失った。
本気だ。
この男は今、本気で怒っている。
彼女を「駒」としてではなく一人の「人間」として、失うことを拒絶している。
その凍りついた時間の隙間を縫うように。
───ギィィィァアアアアア!!
森の最深部から鼓膜を劈くような咆哮が響き渡った。
魔物たちの動きが止まり、森全体の空気が物理的な圧力を帯びて変質する。
重い。
吐き気がするほどの魔力。
レーヴの表情から完全に光が消えた。
「……おいおい、嘘だろ」
珍しく、本当に珍しく。
その震える声には、隠しきれない戦慄が混じっていた。
「これ、思ったより……いや、最悪のパターンかもな」
森の最深部から響き渡った咆哮は、物理的な衝撃波となって調査隊を襲った。
空気が目に見えるほどに震え、周囲の巨木が悲鳴を上げて揺れる。
肌に粘りつくような濃密な魔力が、じわじわと精神を侵食していく。
「……っ」
屈強な冒険者の一人が、膝を突きそうになりながら息を呑んだ。
「なんだ、今の……声だけで、空気が重くて動けねぇ……」
ミレアナは冷徹なまでに静かに周囲の状況を再計算していた。
魔力濃度が限界値を超えている。
生態系が狂っているのではない。
森全体が何らかの強力な指向性を持った「意志」によって、強制的に変質させられている。
「全隊、撤退も視野に入れろ! 深追いは───」
バッシュの言葉は悲鳴によって遮られた。
がさり、と木々の奥が割れる。
飛び出してきたのは、血塗れの男だった。
「───っ、た、助けてくれ……ッ!」
先行して行方不明になっていた斥候の一人だ。
肩の肉は抉れ、顔面は死人のように蒼白。
背後から迫る「何か」に、魂を削りながら逃げ惑っている。
「後方警戒!! 全員、武器を構えろ!」
バッシュの怒声が響いた直後、森そのものが爆発したかのような轟音が轟いた。
現れたのは、悪夢を具現化したような巨影だった。
黒ずんだ赤毛に覆われた、鋼のような筋肉。
その巨躯は通常種を遥かに凌駕し、三メートルを優に超える。
「……ホブ、ゴブリン?」
誰かが掠れた声で漏らした。
だが、それは間違いだ。
もっと禍々しく、もっと狡猾。
濁った黄色の瞳には生物としての原初的な狂気と、相反するような「知性」が宿っている。
「ッ、上位種――ゴブリン・ハイロードか!」
緊張が一気に臨界点を超えた。
怪物が咆哮する。
───ギャアアアアアア!!
地面を爆砕しながらの突進。
巨体に見合わぬ異常な加速に、前衛の盾持ちたちが木の葉のように吹き飛ばされた。
「ぐぁっ!?」
「くそっ、硬ぇ! 剣が通りゃしねぇ!」
渾身の斬撃が硬化した皮膚に弾かれ、火花を散らす。
混迷を極める戦場の中、ミレアナの瞳だけが水晶のように透き通っていた。
「右脚。踏み込みの際、わずかに重心が外側に流れているわ」
「は……?」
「古傷よ。おそらく、数年前に負った大きな欠損跡。そこを起点に崩せば、あの巨体のバランスは維持できない」
瞬時の分析。
戦いの最中にそれを見抜いた彼女に、レーヴが驚愕に目を見開いた。
「……アンタ、マジで何者?」
だが次の瞬間には、彼はいつもの、けれど最高に尖った笑みを浮かべた。
「了解。乗ったよ、お嬢様!」
レーヴが地面を蹴る。
速い。
銀髪が白光の残像となって風を裂いた。
怪物の視界の死角へと滑り込み、逆手に持った短剣をミレアナが指摘した急所へ正確に叩き込む。
鈍い破砕音。
怪物の巨躯が大きく揺らいだ。
「今よ!」
ミレアナも同時に踏み込む。
恐怖はない、迷いもない。
ただ、導き出された「正解」を実行するのみ。
短剣が閃き、レーヴが開けた傷口をさらに深く、的確に抉り抜いた。
怪物が耳を壊すような絶叫を上げた。
「おおおおッ!!」
崩れたバランスを見逃さず、リオネルが雷鳴のごとき踏み込みで飛び込んだ。
重厚な大剣が弧を描き、怪物の脚部を骨ごと断ち切る。
巨体が、轟音を立てて傾いた。
「頭だッ!! 全員叩き込め!!」
バッシュの指揮に合わせ冒険者たちが一斉に畳み掛ける。
血飛沫、咆哮、肉が断たれる音。
そして───。
最後にレーヴの刃が吸い込まれるようにして、怪物の喉笛を真っ向から貫いた。
……静寂。
森の支配者であった巨体が、糸の切れた人形のように地面へ崩れ落ちる。
誰もすぐには動けなかった。
森に響くのは生き残った者たちの荒い呼吸音だけ。
「……倒した、のか」
「あの化け物を……本当に……」
呆然と立ち尽くす冒険者たち。
その中心でミレアナは汚れた手を拭いもせず、静かに怪物の死体を見下ろしていた。
「……おかしいわ」
ぽつりと温度のない声で呟く。
「何が? 文句なしに仕留めただろ」
レーヴが肩をすくめながら隣に来る。
「変異の進行速度が、生物学的限界を超えている。……見て」
ミレアナが怪物の腕に触れた。
皮膚はもはや生物のそれではなく、魔力の結晶に近い。
「魔力汚染による過剰進化。これほどの変化が、短期間で自然に発生するはずがないわ」
彼女は周囲の木々に目を向け、断定した。
「───誰かが意図的にこの森を『育てて』いる。この変異種はその副産物に過ぎないわね」
その言葉に周囲の空気が再び凍りついた。
「おいおい、冗談だろ……魔物を人為的にいじるなんて、禁忌だぜ」
「誰が、何のために……」
不安にざわつく人々の中で、レーヴだけは表情を崩さなかった。
その端正な横顔からいつもの軽薄さが完全に削ぎ落とされている。
「……面倒なのに踏み込んじゃったなぁ、俺たち」
低く、自分に言い聞かせるように呟くレーヴ。
まるで、これから起きる「何か」の正体をあらかじめ予見しているかのような声音。
ミレアナは、その銀髪の青年の横顔を静かに、射抜くような視線で見つめた。




