下層区画
その日の夕刻、ミレアナたちはボーデン南西部に位置する下層区画へと足を踏み入れていた。
歩きながらミレアナは先導するレーヴの背中を見ていた。彼は先ほどのやり取りなどなかったかのように、いつも通りの態度で気負いなく歩いている。それが逆に不自然だった。
そうして歩みを進めていくと、石畳は街の中心部を抜けたあたりで無残に途切れ、足元はぬかるんだ土道へと変わる。建物の柱は湿気で傾き壁板は黒く腐食して、路地の端には濁った水が淀みながら流れていた。鼻をつくのは安酒と粗悪な煙草、そして何かが腐敗したような強烈な臭気だ。
貧困は王都の路地裏にもあった。だが、ここはもっと生々しい。ただそこに立っているだけで生きることそのものがじりじりと削り取られていくような、絶望に近い静けさが横たわっている。
「……酷いわね」
ミレアナが、感情を押し殺した声で静かに呟く。
「辺境だからなぁ」
レーヴは肩を竦めてみせた。その口調はいつものように軽かったが、視線だけは一度も遊ばせることなく油断なく路地の奥を観察している。
腐った木箱の影、壊れた窓の隙間。そこから子供たちがこちらの様子を伺っていた。
警戒、怯え。そして、すべてを諦めたような虚無。
その目にミレアナは僅かに眉を寄せた。視線が合った瞬間、子供たちは蜘蛛の子を散らすように闇へと逃げていく。
「……嫌われているのね」
「警戒されてんの。ここの連中からすれば、身なりのいい人間なんて搾取しに来る敵でしかないからね」
「同義では?」
「ちょっと違うよ。ここじゃ親切そうな大人の方が、牙を剥いた獣より危ない場合があるってだけ」
レーヴの苦笑にミレアナは沈黙した。その言葉の意味を理屈ではなく体感として理解できてしまう自分が、少しだけ嫌だった。その時だった。
「おい、兄ちゃん」
路地裏の影から、煤けた顔の少年がひょっこりと顔を出した。十歳前後だろうか。レーヴは驚く様子もなく、片手を軽く上げる。
「よ、カイル。生きてたか」
「最近見ねーな。死んだと思ってたぜ」
「仕事してたんだって。これでも売れっ子なんでね」
あまりにも気安い日常の一部のような会話。ミレアナは僅かに目を見開いた。レーヴはこの泥に塗れた場所にも、ごく自然に馴染んでいた。
「そっちの美人さんは誰だよ。兄ちゃんの女か?」
「んー? 俺の……」
「違います」
遮って答えるミレアナにレーヴが堪えきれずに吹き出す。
「否定早くない!?ちょっとくらい夢見せてくれてもいいじゃん」
「誤解を招く発言をしないで。不愉快だわ」
「えー……」
そんなやり取りをカイルは面白そうに観察していた。
「姉ちゃん、貴族様か?」
「……何故、そう思うの」
「綺麗すぎる。ここらの女とは、なんかこう……光り方が違う」
あまりにも率直な、けれど混じりけのない言葉にミレアナは一瞬言葉を失う。レーヴが横でにやにやと嫌な笑みを浮かべた。
「よかったじゃん。お墨付きだよ、お嬢様」
「貴方、黙っていてくれない?」
カイルはケラケラと笑い、レーヴに向き直り口を開く。
「で、兄ちゃん、何しに来たんだ?ここに用なんてねーだろ」
「灰色フードの女の子を知らないか? ノアっていうんだけど」
その瞬間カイルの顔から子供らしい笑みが消えた。聞かずともその顔を見れば答えは明らかだった。
「知っているのね」
ミレアナが静かに問うと少年は少し迷うように視線を泳がせ、それから絞り出すように小さく頷いた。
「あいつ、最近ヤバい奴らに追われてた」
「黒いローブを着た連中か?」
「……見たことある。あいつら、夜中にだけ動くんだ」
空気が一気に張り詰める。
「どこだ」
リオネルの短く威圧感のある問いに、カイルは顔を顰めて指を差した。
「……古い水路跡の辺りだ。でも、夜になると変な声がするんだよ。大人たちも、あそこには近寄らねぇ。あいつ、そこに逃げ込んだのかもしれないけど……」
獣のような、けれど人の悲鳴のような声。昨日聞いたセシルの話と完全に一致する。
「案内できる?」
「やだ。死にたくねぇもん」
即答だった。それは、ここで生き抜く知恵が叩き出した最も正しい拒絶。
ミレアナは少し考え、それから静かに腰を落として少年と視線を合わせた。
「無理にとは言わないわ。貴方の命を危険にさらす権利は、私にはない。でも、もしノアがそこにいて、まだ助かる可能性があるなら……私は行かなければならないの」
カイルが僅かに目を見開いた。
「……何で? 姉ちゃんには関係ねーじゃん」
純粋な、けれど重い問いだ。ミレアナは答えに詰まった。合理性だけを考えるなら、証拠もなしに危険な場所へ踏み込むのは愚行だ。
「放っておくと……後悔する気がするから」
気づけばそんな言葉が出ていた。レーヴが隣でぴくりと反応したのが分かった。ミレアナ自身も驚いていた。かつての自分なら、もっと効率的で非情な理屈を並べていたはずだ。けれど、この辺境の風が彼女の仮面を少しずつ風化させていた。カイルは少し黙った後、不器用そうに頭を掻いた。
「……入口までだ。そこまでなら、案内してやるよ」
「助かる。恩に着るよ、カイル」
レーヴが軽く手を振ったその時、空気を切り裂く、鋭い風切り音がした。
「伏せろ!!」
怒号と共に、レーヴがミレアナの腕を強引に掴み横へと引き倒す。その直後、すぐ後ろの腐った壁へ一本の黒い矢が深々と突き刺さった。
「……っ!?」
ミレアナの瞳が見開かれる。毒々しい漆黒の矢羽。そして、矢じりにはあの忌々しい、黒い結晶が埋め込まれている。
矢が放たれた方向に視線を走らせると、そこには三人の黒ローブを纏った影が音もなく立っていた。そして、その影の足元には。人間とも獣ともつかない不気味に蠢く何かが、喉の奥を鳴らしながらこちらを凝視していた。
「……はぁ」
レーヴの声から完全に笑みが消え失せた。空気が変わる。ぞわりと肌が粟立つほどの、圧倒的なプレッシャー。隣にいたはずの気怠げな男が、別物へと変質していた。
ミレアナの腕を掴み、その身を背後へ隠したまま、レーヴが低く吐き捨てる。
「リオネル」
「既に」
その返答と、銀色の閃光は同時だった。リオネルの抜剣は、もはや反射の域に達していた。黒い矢の第二射が放たれるより早く、彼は恐怖に硬直するカイルの前へと滑り込む。そして激しい火花が散り、弾かれた矢が石壁へと深く突き刺さる。
「ひっ……!」
「下がっていろ」
カイルの短い悲鳴を遮るように、リオネルの声が低く響く。それは戦場を幾度も潜り抜けた者だけが持つ、冷徹なまでの冷静さだった。
「絶対に前へ出るな」
一方、ミレアナは既にその手に短剣を握りしめていた。だが彼女の視線は襲撃者である黒ローブではなく、その足元で身を捩らせる異形へと釘付けになっていた。
「……何、あれ」
それは、かつて人間であったはずのものだった。腕は関節を無視して異様に長く伸び、皮膚はどす黒く変色して、膨張した筋肉が服を内側から引き裂いている。喉の奥からは、地獄の底を這いずるような獣じみた唸り声が漏れていた。
だが、その濁った瞳だけが。変わり果てた姿の中で、助けを求めるように絶望に揺れていた。
「っ……!」
ミレアナの呼吸が、僅かに乱れる。生理的な嫌悪感と、それ以上に強い倫理的な憤りが彼女を襲った。
「見るな」
不意に、レーヴの声が重く低く落ちる。
「……」
「躊躇うぞ」
その短い忠告に、ミレアナは一瞬だけ強く目を閉じた。そして次に瞼を持ち上げたとき、彼女の瞳からは一切の感傷が削ぎ落とされていた。
――敵。そう脳内で定義し、感情を遮断する。迷いは死に直結することを、彼女は本能で理解していた。直後、化け物が地を蹴った。
「速――」
ミレアナの思考が追い付くより早く、レーヴの姿がぶれた。重く、湿った音が路地に響く。目にも留まらぬ速度で踏み込み、レーヴは片手で化け物の顔面を掴むとそのまま石畳へと叩き潰していた。
「が、ぁ……!!」
石畳が放射状に砕け散る。尋常ではない膂力。
あまりの光景にカイルは息を呑み、ミレアナも目を見開いた。
以前から彼は腕の立つ冒険者だと思ってはいた。だが、今の動きは明らかに一線を超えている。その力、そして一切の躊躇がない身のこなし。
加減という概念が欠落した、人間とは思えない動きだった。レーヴは片膝をついたまま、押さえ込んだ化け物を冷たく見下ろしていた。
「……まだ生きてんのか」
低い、地を這うような声。その顔には、いつもの軽薄な笑みなど欠片も残っていない。
まるでこういう存在を、救いようのない末路を、嫌というほど見慣れているかのような眼差し。その隙を突き、黒ローブの男が何かを投擲した。
「レーヴ!!」
ミレアナの叫びと同時に、黒い球体が地面で破裂した。不気味な音を立てて濃密な黒煙が一気に路地を埋め尽くす。
「毒です! 息を止めて!」
リオネルの警告に従い、ミレアナは咄嗟に口元を覆った。
「チッ」
煙の中でレーヴの舌打ちが聞こえる。煙が晴れたとき、そこには既に黒ローブの姿はなかった。
「逃がしたか……」
リオネルが鋭く周囲を警戒する。だが、レーヴは追おうとはしない。彼はただ、足元でもがく化け物を凝視していた。その瞳に宿っているのは激しい、けれど行き場のない怒りだった。
「……クソが」
珍しく、剥き出しの感情を隠さない声。
「……知っているの? あれを」
ミレアナの問いに、レーヴはすぐには答えない。代わりに、彼は化け物の首元へ手を伸ばした。そこには肉へと直接食い込むようにして埋め込まれた黒い結晶が、禍々しく拍動していた。
「……やっぱりか」
レーヴの表情が苦虫を噛み潰したように険しくなる。
「何なの、それは」
「……禁術系の改造だよ。魔力耐性の低い人間へ、無理やり魔物因子を混ぜ込む」
ミレアナの顔から血の気が引いた。
「普通は死ぬ。適合率なんて万に一つ、ほぼゼロだ。大体は自我が崩壊して暴走して終わり」
レーヴは足元で醜く蠢く塊を見下ろした。
「だからこれは……ただの“失敗作”だ」
失敗作。そのあまりに即物的な言葉に、ミレアナの胸が激しくざわついた。人間を、意志ある者を、まるで使い捨ての道具のように扱い、壊れたら捨てる。
「……最低ね」
絞り出した声は、氷のように冷えていた。レーヴがちらりと彼女を見た、その時。
「……た、す……け……」
掠れた、震える声が聞こえた。ミレアナが息を呑む。化け物が、こちらを見ていた。
濁り、光を失いかけた瞳。崩れ落ちた口元。けれどそれは確かに、魂が放った最期の言葉だった。
「たす、け……て……」
レーヴの目が揺れた。そして本当に一瞬だけ、彼は今にも泣き出しそうな酷く苦しそうな顔をした。だが次の瞬間には、その感情を冷徹な意志の下へ押し殺す。
「……ミレアナ」
名前を呼ばれ、彼女は彼を見た。
「こいつはもう、戻れない。生きていても、苦痛が続くだけだ」
ミレアナは沈黙し、そして理解した。レーヴが求めているのは救助ではない。これ以上の冒涜を止めるための介錯だ。
短剣を握る指先に、力がこもる。躊躇い、嫌悪、そして煮え繰り返るような怒り。感情が胸を掻き乱す。けれど化け物は絶え絶えの息で、今もなお喘ぎ続けている。
「……分かったわ」
ミレアナは静かに歩み寄った。レーヴは何も言わず、ただその道を開けた。彼の横顔は痛々しいほどに硬く、強張っている。ミレアナは短剣を逆手に持ち替え、迷うことなく一撃で急所を突き立てた。
びくりと異形の身体が大きく跳ね、それからゆっくりと弛緩していく。静かに、呪縛から解き放たれるように。
沈黙が降りた。ミレアナは、返り血のついた短剣の先をじっと見つめていた。
「……ほんと、容赦ないよなぁ」
ミレアナの横でレーヴがぼそりと呟いた。いつものように、おどけたような軽い口調。
けれどその声は、隠しきれないほどに細く掠れていた。




