第9話 妻が消していた不始末
第9話 妻が消していた不始末
美咲が荷物を運び出した翌朝、健一は目覚まし時計を三度止めた。昨夜は缶ビールを飲みながら動画を見続け、眠ったのは午前二時を過ぎていた。遮光カーテンが閉じた寝室には朝日が入らず、目を開けたとき、枕元のデジタル時計は八時十三分を表示していた。
「嘘だろ」
健一は布団を蹴り、床に落ちていた白いワイシャツを拾った。襟には先週の居酒屋でついた薄い染みがあり、袖口は灰色に汚れている。洗濯機を開けると、三日前に入れた衣類が濡れたまま残り、生乾きの匂いが鼻へ届いた。
「何で洗えてないんだよ」
洗濯機が自動で洗濯物を干すわけではないことくらい、健一にも分かっていた。それでも、以前は朝になると乾いたシャツがハンガーへ掛かっていた。美咲がいつ洗い、いつアイロンをかけていたのか、一度も気にしたことがなかった。
健一は染みのついたシャツを着て、コンビニで買った消臭剤を襟へ吹きかけた。朝食を作る時間はなく、駅まで走る途中で缶コーヒーと卵サンドを買った。会社へ着いた頃には汗でシャツが背中へ張りつき、消臭剤と生乾きの匂いが混ざっていた。
「佐藤さん、今日は珍しくぎりぎりですね」
後輩の西村が、机へ資料を置きながら言った。健一は取引先へ直行していたことにしようかと考えたが、受付の記録を確認されれば分かるため、電車が遅れたと答えた。実際には遅延証明が出るほどの遅れはなかった。
「東都建設の見積書ですが、材料費を更新したものを昨日メールで送りました」
「見ておくよ」
「今日の十時から打ち合わせです。変更幅が大きいので、先に確認をお願いします」
「分かってる。会議室へ印刷して置いておいてくれ」
「旧版と間違えないよう、表紙に日付を入れています」
「そこまで言われなくても分かるよ」
健一は卵サンドの袋を開け、パソコンを起動した。未読メールは二十件以上あり、その中に西村からの更新版も届いていた。しかし和子から電話がかかってきたため、添付ファイルを開かないままスマートフォンを持って廊下へ出た。
「健一、今日の帰りに病院へ寄ってちょうだい」
「今、会社なんだよ。朝から電話するな」
「お薬ができているの。今日までに受け取らないと困るでしょう」
「父さんに頼めばいいだろ」
「お父さんは午後から囲碁の集まりなのよ」
「囲碁なら休めるだろ」
「あなた、親に向かってその言い方は何なの?」
「俺だって仕事があるんだ!」
「美咲さんなら、昼休みに受け取ってくれたわ」
和子は美咲を早く連れ戻すよう求めた。来週は大学病院の診察があり、その翌週には親戚の法事がある。病院の送迎、薬の確認、義明の礼服の用意を誰がするのかと、一つずつ健一へ並べた。
「俺に全部させるつもりかよ」
「家族なんだから、助け合うのは当然でしょう」
「美咲には、全部やらせていたじゃないか」
「美咲さんは嫁でしょう。女の人のほうが、細かいことに向いているのよ」
「離婚すると言ってるんだ。もう頼めないよ」
「それを止めるのが夫でしょう。あなたがしっかりしないから、あの人がつけ上がるのよ」
健一は電話を切り、会議室へ向かった。西村が用意した資料を受け取り、表紙の日付だけを確認した。中身を見る時間はなかったが、部下が更新したのだから間違いはないと考えた。
午前十時、東都建設との打ち合わせが始まった。取引先の担当者は見積書を三ページ目まで読むと、以前とは金額が違うと指摘した。健一が手元を確認すると、資料には前月までの古い材料費が使われていた。
「西村、更新したと言っていたよな」
「更新版をメールでお送りしました」
「これは古いままだぞ」
「会議室へ置いてほしいと言われたので、共有フォルダにあった資料を印刷しました。送った更新版を確認されたのだと思っていました」
「分かりにくい場所へ置くなよ。口頭で説明したのか?」
「今朝、変更幅が大きいとお伝えしました」
「そんな一言で分かるわけないだろ」
取引先の担当者は二人のやり取りを黙って聞いていた。材料費の差額は数百万円あり、古い金額のままでは会社側に大きな損失が出る。正しい見積書を出し直すまで、契約の判断を保留すると告げられた。
会社へ戻ると、健一と西村は上司の小野寺に呼ばれた。会議室の机には、西村が送ったメールと、更新版の見積書が印刷されていた。件名には「要確認」と書かれ、本文には変更箇所と確認期限が明記されている。
「佐藤、このメールを読んだのか」
「朝は時間がなく、添付までは確認できませんでした」
「確認していないのに、なぜ西村が更新していないと言った」
「口頭の説明が十分ではなかったからです」
「西村は変更幅が大きいと伝えたと言っている」
「もっと具体的に説明するべきでした」
「確認するのは誰の仕事だ」
小野寺の声は大きくなかったが、健一は目をそらした。会議室の壁時計は午後一時を示し、昼食を取っていない腹が小さく鳴った。昨夜の弁当容器に残った油の匂いまで思い出し、口の中が乾いた。
「私です」
「なら、部下へ責任を押しつけるな」
「家庭の事情で、今朝は余裕がなかったんです。妻が突然出ていきまして」
「家庭の事情があれば、事実と違う説明をしていいのか」
「そういう意味ではありません」
「妻が会社の見積書を確認していたわけではないだろ」
「それは、もちろん違います」
「なら、この件に妻は関係ない」
健一は正しい見積書と経緯報告書を、その日のうちに作成するよう命じられた。東都建設の案件には、今後、小野寺が直接加わることになった。健一は担当から外されなかったものの、責任者として一人で判断する権限を失った。
会社を出たのは午後九時近くだった。健一は駅前のクリーニング店へ寄り、ワイシャツ五枚とスーツ二着をカウンターへ置いた。店員が示した料金は四千円を超え、翌日仕上げには追加料金が必要だった。
「シャツ一枚に、こんなにかかるんですか?」
「しみ抜きが必要なものもありますので」
「洗うだけでいいんですけど」
「ご家庭で洗える表示のものもありますよ」
「アイロンをかける時間がないんです」
健一は追加料金を払い、翌日仕上げを頼んだ。帰りにコンビニへ寄り、唐揚げ弁当、ポテトサラダ、缶ビール、朝食用のサンドイッチを買った。袋代を含めた金額を見て、高いと思ったが、スーパーへ行って料理をする気にはならなかった。
自宅の玄関には、宅配便の不在票が二枚落ちていた。居間には脱いだ衣服、空のペットボトル、読みかけの新聞が散らばっている。台所の流しには三日前のカレー皿が残り、黄色い油が皿の縁へ固まっていた。
「水につけておけば落ちるだろ」
健一は皿へ水を張り、そのまま放置した。電子レンジで温めた唐揚げは、中央だけ冷たかった。もう一度温めると今度は衣が湿り、ポテトサラダまで生ぬるくなった。
美咲が作る夕食には、肉料理の日でも野菜の小鉢と味噌汁が添えられていた。健一は味噌汁がぬるい、きんぴらが硬いと文句を言ったことはあったが、献立を考えたことはない。翌朝の弁当分まで取り分けていたことにも、今になって気づいた。
翌週、健一は家事代行サービスを申し込んだ。二時間で台所、浴室、居間を掃除してもらうつもりだったが、散らかった衣服と食器を片づけるだけで一時間以上かかった。洗濯と作り置き料理は別料金だと説明され、健一は眉を寄せた。
「全部まとめてやってくれるんじゃないんですか?」
「ご契約は水回りとお部屋のお掃除です。洗濯、アイロン、お料理は追加プランになります」
「妻は全部やっていましたけど」
「奥様のお仕事については、こちらでは分かりかねます」
「妻だって働いていたんですよ。それでもできたんです」
「では、お客様ご自身でされる方法もございます」
家事代行の女性は穏やかに答え、固まったカレー皿へ洗剤を吹きかけた。健一は自分でやるとは言えず、洗濯と料理の追加料金を払った。週一回の利用だけでも、一か月で以前の小遣いの半分近くが消える計算になった。
月末、健一は銀行口座の残高を見て、何度も画面を更新した。給与額は以前と変わっていない。しかし家賃十三万五千円、駐車場二万二千円、車のローン三万八千円、光熱費、通信費、保険料が次々と引き落とされていた。
以前は家賃と生活費を夫婦で分担していた。食費や日用品も、美咲が特売日を確認し、まとめて買っていた。今はコンビニ、外食、クリーニング、家事代行の支払いが何行も並んでいる。
「何でこんなに減ってるんだよ」
健一は電卓を取り出したが、計算するまでもなかった。二人分の収入で維持していた暮らしを、一人分の給与で続けようとしている。そこへ自分でしない家事の料金が加わり、残高を削っていた。
健一は美咲へ電話をかけた。留守番電話へ切り替わったため、家賃と光熱費の半分を払うようメッセージを送った。十分ほどすると、短い返信が届いた。
『現在、私はそこに住んでいません。費用については弁護士を通してください』
「夫婦なのに、家賃くらい払えよ」
健一が画面へ向かって言っても、返事はなかった。代わりに和子から電話がかかり、義明の礼服を買いに連れていってほしいと頼まれた。来週の法事で着る礼服が虫に食われていたという。
「新しいものを買えばいいだろ」
「だから、お店へ連れていって。裾上げも頼まないと」
「父さんと二人で行ってくれよ」
「お父さんは服のことが分からないのよ。美咲さんなら、礼服も靴下も香典袋も全部そろえてくれたのに」
「何でも美咲に頼むなよ!」
「あなたまで冷たいことを言うの? あの人が出ていったせいで、家族がめちゃくちゃよ」
健一は電話を切り、スマートフォンをソファへ投げた。端末はクッションから跳ねて床へ落ち、近くに置いていた缶ビールへ当たった。倒れた缶から泡が流れ、カーペットへ大きな染みを作った。
健一は雑巾を探したが、どこにあるのか分からなかった。洗面所から古いタオルを持ってきて押し当てると、ビールの匂いが部屋へ広がった。濡れたタオルをどこで洗えばいいか考え、結局、流しの端へ置いた。
翌日、会社で再び小野寺に呼ばれた。東都建設の案件は、別の主任を責任者にすることが決まったという。健一は補助として残るが、重要な判断は新しい責任者と小野寺の確認を受けなければならない。
「一度の間違いで、責任者を外すんですか?」
「間違いだけが理由ではない。確認していない事実を認めず、部下の責任にしたことが問題だ」
「妻が出ていってから、家のことを全部一人でしなければならないんです」
「それは大変だろう。だが、会社の見積書とは別の話だ」
「出張の荷物や礼服、取引先への手土産も、今までは妻が用意していました」
「会社から必要なものは通知されているはずだ」
「家庭で準備することもあるんです」
「なら、自分で準備すればいい。妻がいなければ仕事ができないことを、会社への説明には使えないぞ」
小野寺は新しい担当表を机へ置いた。責任者の欄から健一の名前が消え、その下の担当者欄へ移されている。健一は紙を持ち上げたが、何度見ても名前の位置は変わらなかった。
その夜、健一は家事代行の女性が作った肉じゃがを温めた。容器には作った日と消費期限が書かれた付箋が貼られている。じゃがいもは柔らかかったが、健一の苦手な糸こんにゃくが多く、味つけも美咲のものより甘かった。
「何だよ、この味」
文句を言っても、食卓の向かいには誰もいなかった。家事代行会社へ連絡して味の好みを指定すれば、相談料や材料費が追加される。健一は黙って肉じゃがを食べ、冷蔵庫から缶ビールを出した。
食卓の隅には、結婚記念日に使った透明な花瓶が水切り籠へ伏せられていた。七本のろうそくも、青い縁取りの皿も、美咲が持っていったため残っていない。空いた食器棚には、埃の線だけがついていた。
健一は美咲へメッセージを送った。
『家賃も車の支払いもある。母さんの通院と父さんの礼服も何とかしなければならない。会社でも大事な仕事を外された。もう意地を張らずに戻ってこい』
しばらく待っても既読はつかなかった。健一は肉じゃがの汁へ箸を入れ、崩れたじゃがいもを何度もつぶした。妻の体調や重雄の回復を尋ねる言葉は、一つも送らなかった。
寝室のクローゼットを開けると、法事で着る自分の礼服は見つかった。しかし白いシャツは黄ばみ、黒い靴下は片方しかない。香典袋の表書きを何と書けばいいのかも、健一には分からなかった。
「美咲は、どこへしまっていたんだよ」
健一は衣装ケースを引き出し、畳んであった服を床へ放り出した。探し物は見つからず、散らかった衣類だけが増えていった。美咲がいなくなって生活が壊れたのではない。美咲が黙って片づけていたため、健一には見えていなかった不始末が、ようやく床の上へ現れただけだった。




