第8話 あなたを優先しない生活
第8話 あなたを優先しない生活
重雄が退院した日の朝、美咲は父の家の台所で、鮭と大根の味噌汁を作った。古い換気扇は低い音を立て、味噌汁の湯気が曇った窓ガラスへ張りついた。美咲は薄い黄色のブラウスに紺色のパンツをはき、髪を後ろで一つに束ねていた。
重雄は胸元へ手を添えながら、居間からゆっくり歩いてきた。退院祝いだから寿司を取れと言っていたが、医師から塩分を控えるよう注意されたため、美咲が朝食を作った。食卓には焼き鮭、大根の味噌汁、ほうれん草のおひたし、柔らかく炊いたご飯が並んでいる。
「病院の飯より豪華だな」
「鮭は半分だけにして。お味噌汁も薄く作ったからね」
「退院した日くらい、好きなものを食わせろ」
「退院した日に無理をして、病院へ戻るつもり?」
「朝から口の減らない娘だ」
重雄は文句を言いながら、焼き鮭の皮を箸で外した。以前なら皮まで食べていたが、油が多いと言われたことを覚えていたらしい。美咲は父の薬を曜日ごとのケースへ分け、朝食後に飲む薬を小皿へ出した。
「薬は自分で管理する。お前は仕事があるんだろ」
「最初の一週間だけ確認するわ。慣れたら、お父さんに任せる」
「健一君の母親の薬も、こうしていたのか」
「お義母さんには、もうしないと伝えたでしょう」
「また頼まれても断れるのか」
「断るわ」
「今、少し間があったぞ」
「なかったわよ」
美咲は食べ終えた茶碗を流しへ運んだ。蛇口をひねると、しばらく茶色く濁った水が出た。重雄の入院中、台所をほとんど使っていなかったため、美咲は透明になるまで水を流し、古いスポンジを新しいものへ取り替えた。
父を家へ送り届けたあと、美咲は薬局へ向かった。白衣へ着替える前に、職員用の洗面台で手を洗い、保湿剤を塗った。海老の殻で傷ついた親指には、まだ薄い赤い線が残っている。
昼休み、美咲は奈緒と一緒に薬局近くの喫茶店へ入った。店内には焙煎したコーヒーと、焼いたバタートーストの匂いが漂っていた。美咲は卵サンドとミルクティーを頼み、奈緒はナポリタンを注文した。
「お父さん、無事に退院できてよかったね」
「うん。しばらく工場へ行けないことが、一番不満みたい」
「一人にして大丈夫?」
「近所の人にもお願いしてあるし、訪問看護も利用することになったの。私が全部引き受けるのは、お父さんも嫌だって」
「きちんとしたお父さんね」
「お義母さんとは正反対でしょう」
美咲は卵サンドを一口食べた。薄く焼かれた卵にはからしマヨネーズが塗られ、食パンの端からきゅうりが少しはみ出していた。義実家の食事会で、流しの横に立ったまま炊き込みご飯を食べたことを思い出し、美咲は空いている自分の椅子へ手を置いた。
「それで、健一さんとはどうするの?」
「昨日も、お義母さんに謝るなら迎えに行くとメッセージが来たわ」
「美咲が謝るの?」
「健一は、私が勝手に家を出たと思っているの」
「戻るつもりはある?」
美咲はミルクティーをかき混ぜた。カップの底へ沈んでいた砂糖が、スプーンに当たって小さな音を立てた。結婚記念日の夜から、健一に言われた言葉や義実家で起きたことを何度も思い返してきた。
「戻らない」
「決めたのね」
「うん。離婚について、弁護士へ相談しようと思う」
奈緒はすぐに喜んだり、夫を悪く言ったりしなかった。ナポリタンの上に載ったピーマンを端へ寄せながら、通帳、給与明細、家計の記録、義母から届いたメッセージを整理しておくよう助言した。美咲は小さな手帳を鞄から出し、これまでの記録が残っていると伝えた。
「一人で健一さんと話さないほうがいいと思う」
「そこまでしなくても大丈夫よ」
「携帯を取り上げようとした人でしょう」
「でも、殴られたことはないわ」
「殴られなければ、何をされても一人で対応するの?」
美咲は返事をせず、冷めかけたミルクティーを飲んだ。奈緒の言葉は強かったが、義実家へ呼ばれるたびに断れなかった自分だけで話し合えば、また健一の言葉へ押し切られる可能性があった。
一週間後、美咲は弁護士へ相談し、離婚までに必要な準備を確認した。夫婦それぞれの給与、預金、家賃と生活費の負担、義実家のために立て替えた費用を一覧へまとめた。家計簿を調べると、美咲が義母の薬、通院時のタクシー代、親戚への手土産を何度も支払っていた。
「こんなにあったのね」
父の家の食卓には、領収書、通帳の写し、給与明細が並んでいた。醤油の染みがついた古い家計簿には、美咲の丸い字で支払先と金額が書かれている。重雄は隣で新聞を読んでいたが、何度も眼鏡の上から娘の手元を見た。
「離婚するのか」
「うん」
「本当に、お前が決めたのか」
「お父さんに言われたからではないわ」
「なら、俺からは何も言わない」
「反対しないの?」
「帰ってこいとは言ったが、俺の世話をするために戻れとは言ってない。離婚したあと、ここへ住み続ける必要もない」
「しばらくは一緒にいさせてよ」
「家賃は取るぞ」
「娘から取るの?」
「娘でも水道と電気は使う」
重雄は真面目な顔をしていたが、新聞を持つ口元が少し緩んでいた。美咲も小さく笑い、自分名義の預金額を確認した。薬剤師として十年間働いてきたため、離婚後に部屋を借り、家具をそろえても生活できる蓄えがあった。
翌土曜日、美咲は奈緒と一緒に自宅へ戻った。玄関を開けると、空になったペットボトルと宅配便の不在票が床へ落ちていた。台所にはコンビニ弁当の容器が積まれ、流しの鍋には白い脂が固まっていた。
「美咲、何でこいつまで連れてきたんだ」
健一は黒いTシャツと灰色のスウェット姿で、居間のソファへ座っていた。テーブルには飲みかけの缶ビール、冷めた唐揚げ、開封したままのポテトチップスが置かれている。エアコンの冷気には、洗っていない衣類と揚げ物の匂いが混じっていた。
「荷物を運ぶのを手伝ってもらうためよ」
「夫婦の家へ他人を入れるな」
「私も家賃と生活費を払ってきた家です」
「父親のところへ勝手に出ていったのは、お前だろ」
「今日は私のものを取りに来たの。薬剤師免許証と通帳、仕事の服、母の形見の食器を持っていきます」
「帰ってくるためじゃないのか?」
「戻りません」
健一は缶ビールをテーブルへ置き、立ち上がった。口元には、唐揚げにつけたマヨネーズが少し残っていた。美咲はそれを指摘せず、寝室へ向かった。
クローゼットから白いブラウス、紺色のパンツ、冬用のコートを取り出し、段ボールへ詰めた。健一のシャツやスーツには触れなかった。洗面所では化粧品、歯ブラシ、保湿剤を小さな袋へ入れた。
「離婚なんて、本気で言ってるのか?」
「弁護士にも相談しました」
「父親に言われて、その気になったんだろ」
「私が決めました」
「たかが結婚記念日を忘れたくらいで、離婚する夫婦がどこにいるんだよ」
「結婚記念日だけではないわ。仕事のあとに義実家で料理をさせられ、食事の席もなかった。薬剤師なら役に立てと言われた。父の手術の日には、仕事だと嘘をついてお義母さんの家でお酒を飲んでいた」
「全部、何度も話したことだろ。いつまで蒸し返すんだ」
「話しても、あなたが一度も謝らなかったからよ」
「俺は家族のために動いただけだ!」
「その家族に、私は入っていなかった」
美咲は食器棚から、母が結婚祝いに買ってくれた青い縁取りの皿を取り出した。七年間、健一の夕食を載せてきた皿だった。新聞紙で一枚ずつ包み、箱の底へ並べた。
「勝手に皿まで持っていくなよ」
「母が私に買ってくれたものです」
「離婚するなら、財産は夫婦で分けるんだろ」
「だから弁護士を通してください。必要なものは一覧にします」
「弁護士、弁護士って、俺を犯罪者みたいに扱うな」
「二人で話すと、あなたは怒鳴るからです」
「妻が勝手なことをするから、声が大きくなるんだろ!」
奈緒がスマートフォンを手にすると、健一は口を閉じた。美咲は小さな手帳と、結婚記念日の七本のろうそくを鞄へ入れた。ろうそくは火を消した部分が黒くなり、二本は少し曲がっていた。
「そんなごみまで持っていくのか」
「私が捨てるものだから」
「好きにしろ。どうせ一人で生活できなくなって戻ってくる」
「戻りません」
「お前、一人で生活できると思っているのか」
健一は鼻で笑い、ソファへ座り直した。美咲は鞄から先月分の給与明細を取り出し、弁当の汁が乾いたテーブルへ置いた。健一は面倒そうに紙を見たが、手取り額を確認すると眉を寄せた。
「先月の手取りは、あなたより一万八千円多かったわ」
「残業代が多かっただけだろ」
「薬剤師手当も入っています。先月だけではなく、一年間の平均でも、私たちの収入はほとんど同じです」
「そんな話、聞いてないぞ」
「毎年、源泉徴収票を家計簿と一緒に見せていました。あなたが見なかっただけです」
「金だけで生活できると思うなよ」
「家事も家計管理も、今まで私がしていました。生活できなくなるのは、私ではなくあなたです」
「洗濯や料理くらい、誰にでもできる」
「それなら、どうして台所に弁当の容器が積まれているの?」
「仕事が忙しかっただけだ」
「洗濯機の中には、いつ入れたか分からないシャツが残っているわ」
「俺を馬鹿にするな。家事代行だって頼める」
「頼めばいいと思います。その料金も、自分の収入から払ってください」
健一は給与明細をつかみ、もう一度金額を確認した。美咲が自分と同じ程度に稼いでいたことを、初めて知ったような顔をしている。家計へ毎月いくら入れていたのかさえ、健一は正確に覚えていなかった。
「その金があるなら、これからも家賃の半分を払えよ」
「私はここへ住みません。費用については弁護士から連絡します」
「俺一人で、この家賃を払えっていうのか?」
「ここへ住み続けると決めるのも、退去するのも、あなたです」
「車のローンもあるんだぞ」
「車を買うとき、維持費が高いから小さい車にしようと私は言いました。あなたが見栄で選んだ車です」
「夫婦で使っていただろ」
「私は電車で通勤しています。お義母さんの送迎に使うほうが多かったでしょう」
美咲は給与明細を取り返し、透明なファイルへ入れた。健一は、食卓に残された缶ビールを一口飲んだ。ぬるくなっていたのか、すぐに顔をしかめた。
「母さんの病院はどうするんだ」
「健一さんか、お義父さんが付き添ってください」
「俺は平日に仕事がある」
「私にも仕事があります」
「お前は薬剤師なんだから、薬の説明を聞くのに向いているだろ」
「だから何度も言いました。私は、お義母さんの専属薬剤師ではありません」
「家族を見捨てるのか?」
「私はあなたたちから、家族として大切にされたことがありません」
健一は立ち上がり、美咲の前へ離婚届を出せと手を差し出した。脅せば引っ込めると思っているような口調だった。美咲は鞄から署名済みの離婚届と、弁護士の名刺を取り出し、食卓へ置いた。
「話し合う準備ができたら、こちらへ連絡してください」
「本当に用意してきたのかよ」
「会社もご両親も、今までどおり大切にすればいい。ただし、もう私を使って支えることはできません」
「少し頭を冷やせば、後悔するぞ」
「結婚記念日の夜から、ずっと考えてきました」
「七年間を無駄にするのか?」
「無駄にしたくなかったから、我慢してきたの。でも、これからの七年まで差し出すつもりはありません」
美咲は最後の段ボールを抱えた。奈緒が玄関の扉を開けると、外から夏の湿った風が入り、室内にこもった揚げ物の匂いを押し流した。健一は追いかけてこなかった。
父の家へ戻ると、重雄が台所で冷や麦を茹でていた。胸へ負担をかけないよう小さな鍋を使ったため、麺が固まっている。薬味のねぎは太く、きゅうりは厚さがそろっていなかった。
「帰ったか」
「ただいま」
「話はできたのか」
「うん。荷物も持ってきた」
「そうか。冷や麦を食うか」
「お父さん、麺を入れすぎ。鍋の中で固まってるよ」
「食えば同じだ」
「同じじゃない。少し水でほぐしてみるね」
美咲は段ボールを居間へ置き、台所で父の隣へ立った。重雄は何があったか詳しく尋ねず、冷蔵庫から麦茶を出した。二人分のコップへ注ぐ手はまだ少し遅かったが、美咲は急かさずに待った。
夕食後、美咲は結婚記念日の七本のろうそくを、小さな手帳と一緒に机の引き出しへ入れた。今すぐ捨てることもできたが、自分の家を持つ日に、自分の手で処分すると決めた。引き出しを閉めると、隣の部屋から重雄が薬の袋を開ける音が聞こえた。
「美咲、夕食後の薬は赤い印だったか?」
「緑よ。赤は朝」
「分かりにくいな」
「明日、もっと大きく書くね」
「明日でいい。今日はもう休め」
美咲は灯りを消し、母が縫った白い当て布のある布団へ横になった。健一の帰宅時間を待つ必要も、義母からの着信に備える必要もなかった。自分の収入、自分の仕事、自分の時間を、これからは自分の生活のために使える。
生活できなくなるのは美咲ではなかった。妻が何も持たず、自分へ頼るしかないと思い込んでいた健一のほうだった。




