第7話 家族なら我慢するべきだ
第7話 家族なら我慢するべきだ
重雄の手術から三日後、美咲は午前五時半に起きた。居間へ敷いた布団を畳み、窓際へ立てかけると、薄いカーテンを開けた。夜の雨は上がっていたが、ベランダの手すりには水滴が残り、向かいの屋根から雨水が一定の間隔で落ちていた。
寝室では健一が一人で眠っていた。手術当日の夜から、美咲は居間で寝ているが、健一は理由を尋ねてこなかった。自分が怒られて被害を受けたと思っているらしく、昨夜も和子と一時間近く電話をし、重雄は親戚付き合いを理解していないと話していた。
美咲は台所で湯を沸かし、冷凍していたご飯を電子レンジへ入れた。朝食には、しらすを載せたご飯、豆腐と小松菜の味噌汁、きゅうりの浅漬けを用意した。健一の分も作ったが、以前のように寝室まで呼びに行かず、自分の分だけ食べ始めた。
「俺の味噌汁は?」
健一は青いTシャツに短パン姿で台所へ入ってきた。寝癖のついた髪を掻きながら、食卓の上を見回している。美咲は冷蔵庫から父へ持っていく麦茶を取り出し、水筒へ移した。
「鍋にあるわ」
「ご飯は?」
「冷凍庫。電子レンジで二分半温めて」
「どうして俺の分だけ用意してないんだよ」
「作ってあるでしょう。味噌汁もご飯もあるわ」
「食卓へ出してないって言ってるんだ」
「私はこれから薬局へ出勤して、仕事が終わったらお父さんの面会へ行くの。自分でできることは自分でして」
健一は冷凍庫を開け、ご飯の容器を一つ取り出した。蓋を外さずに電子レンジへ入れようとしたため、美咲が蒸気口を開けるよう言うと、だったら最初からやってくれればいいと不満をこぼした。美咲は水筒の蓋を締め、鞄へ入れた。
「鈴木さん、もう大丈夫なんだろ?」
「まだ集中治療室を出たばかりよ。胸を開く手術をしたの」
「手術は成功したんだから、毎日行かなくてもいいだろ」
「あなたは一度も面会へ行っていないでしょう」
「手術の日に顔を見たよ」
「酒の匂いをさせてね」
「またそれを言うのか。いつまで責めれば気が済むんだ」
「あなたが謝るまでかもしれないわ」
健一は口を閉じ、電子レンジのボタンを強く押した。中で容器が回り始めると、冷凍ご飯についた霜が溶け、蓋の裏へ水滴が広がった。美咲は食べ終えた自分の茶碗だけを洗い、白いブラウスの袖口を整えて家を出た。
薬局では、休暇中の引き継ぎ事項が机の上へ積まれていた。冷蔵保管の薬が予定より早く届いたこと、患者から飲み合わせの問い合わせがあったこと、次回の発注数を変更する必要があることが、黄色い付箋に書かれている。美咲は白衣の胸ポケットへ三色のペンを差し、一つずつ内容を確認した。
「佐藤さん、お父様はいかがですか」
後輩の田村が、小さな焼き菓子の袋を渡してくれた。中には個包装のフィナンシェが三つ入り、表には「休憩中に食べてください」と丸い字で書かれていた。美咲は礼を言い、休憩室の自分の棚へしまった。
「手術は終わって、昨日一般病棟へ移りました。まだ胸が痛むみたいだけど、今朝は少し歩く練習をするそうです」
「よかったです。でも、佐藤さんも休んでくださいね。手がまた荒れていますよ」
「保湿剤を塗っているんだけど、すぐ落ちちゃうの」
「それだけじゃありません。顔色もよくないです」
「昨日、少し寝るのが遅かっただけよ」
美咲は笑って調剤室へ戻った。棚から薬を取り出すとき、指先の傷が箱の角へ触れた。細い痛みが走ったが、絆創膏を貼り直し、処方箋と薬の名前を照合した。
正午過ぎ、昼休みに入ると、美咲のスマートフォンへ和子から電話がかかってきた。画面に表示された名前を見て、すぐには通話ボタンを押せなかった。奈緒は向かいの席でカップスープの蓋を開けながら、美咲の顔を見た。
「出なくてもいいんじゃない?」
「何度もかかってきたら、仕事に差し支えるから」
「スピーカーにはしないでね。お義母さんの声を聞きながら、コーンスープを飲みたくないもの」
奈緒の言葉に、美咲はわずかに口元を緩めた。窓際へ移動し、通話ボタンを押した。和子は挨拶もせず、重雄の手術が成功したと健一から聞いたと言った。
「もう大丈夫なんでしょう? 今の手術は進んでいるものね」
「まだ術後三日です。一般病棟へ移ったばかりで、これからリハビリもあります」
「でも、命に別状はないのでしょう」
「今は経過を見ているところです」
「それならよかったわ。こちらも安心したわよ」
和子は、重雄の体調をそれ以上尋ねなかった。電話の向こうでは食器を重ねる音がし、テレビの通販番組が聞こえていた。和子は一度咳払いをすると、来週火曜日の予定について話し始めた。
「私、来週は大学病院の診察なの。朝九時半の予約だから、八時には迎えに来てちょうだい」
「何の話ですか?」
「私の通院よ。前に言ったでしょう。血圧とコレステロールの薬を見直してもらうの」
「その日は仕事です」
「休めばいいじゃない。お父様のためには休めたのでしょう」
「父は心臓の手術を受けました」
「病気に大きいも小さいもないわ。私だって血圧が高いのよ」
「お義父さんか健一さんに頼んでください」
「お父さんは医師の説明を聞いても覚えられないし、健一は仕事でしょう。美咲さんなら薬の説明も聞いてくれるでしょう。仕事は一日くらい休めるわよね」
美咲はスマートフォンを握り直した。窓の外には調剤薬局へ入ろうとする高齢の女性が立ち、自動ドアの前で鞄の中の処方箋を探していた。美咲が一日休めば、同僚たちがその分の患者を担当することになる。
「休めません。すでに父の手術で休暇をいただいています」
「薬局にはほかの薬剤師もいるのでしょう?」
「だから、私が好きなときに休んでいいわけではありません」
「家族の健康より仕事を優先するの?」
「お義母さんの息子は健一さんです」
「健一は大きな会社で働いているのよ。あなたの薬局とは違うでしょう」
「私も正社員です。健一さんと同じくらいの給与をいただいています」
「お金の話なんてしていないわよ。女の人のほうが、こういうことには向いていると言っているの」
「私は、お義母さんの専属薬剤師ではありません」
電話の向こうが静かになった。美咲は自分の声が休憩室に響いたことに気づき、廊下へ出た。壁際には段ボールが二箱積まれ、納品された消毒液の匂いが鼻へ届いた。
「美咲さん、今、何て言ったの?」
「私は仕事として患者さんへ薬の説明をしています。休日に、お義母さんの病院予約や薬の管理をすべて引き受ける契約はしていません」
「契約だなんて、家族に向かって使う言葉ではないでしょう」
「家族なら、頼まれたことをすべて引き受けなければいけないんですか?」
「今までしてくれたじゃない」
「今までしていたから、これからも当然なんですか?」
「家族なのに、冷たいことを言うのね」
美咲は廊下の白い壁を見た。これまで和子から「家族だから」と言われるたび、断る自分のほうが悪いと思ってきた。しかし和子が美咲へ連絡するのは、薬の相談、病院の予約、買い物、料理、親戚の接待を頼むときばかりだった。
「お義母さんは、父の手術について一度も詳しく聞きませんでしたね」
「成功したのでしょう? 今さら何を聞くの」
「胸を開いて、血管を三箇所つなぎました。まだ痛みが強く、歩く練習も数メートルから始めています」
「それは大変でしょうけど、病院にいるなら専門の人が見てくれるじゃない」
「お義母さんの通院も、病院の専門家が診てくれます」
「話をすり替えないで。私は嫁に付き添ってほしいだけよ」
「父も、娘である私に付き添ってほしかったと思います。それでも健一さんは嘘をついて、お義母さんの家へ酒を運びました」
「健一を責めないで。あの子は私が困っていると知って、助けてくれただけなの」
「私が困っていても、助けてくれませんでした」
「あなたは薬剤師なんだから、一人でも何とかなったでしょう」
美咲は目を閉じた。健一と同じ言葉だった。和子にとっても、美咲の資格は敬意を向けるものではなく、支えなくても壊れないという理由に使われていた。
「来週の通院には行きません。薬の説明は担当の医師と薬剤師へ確認してください」
「美咲さん、待ちなさい。まだ話は終わっていないわ」
「私の昼休みは終わります。失礼します」
美咲は通話を切り、スマートフォンの電源ボタンを押した。手のひらには汗がにじみ、画面には指の跡がいくつも残っていた。廊下の端にあった椅子へ腰を下ろすと、足から力が抜け、白衣の裾が床へ触れた。
休憩室へ戻ると、奈緒がカップスープを半分残したまま待っていた。机には美咲の弁当箱が開かれ、梅干しのおにぎりと、昨夜作ったひじき煮がそのまま残っていた。奈緒は何も尋ねず、冷蔵庫から麦茶を出して紙コップへ注いだ。
「断ったわ」
「何を?」
「お義母さんの通院。仕事を休んで付き添えと言われたけど、行かないと答えた」
「そう」
「冷たい嫁だと言われた」
「温かい嫁なら、仕事を休んで無料で使っていいの?」
「私、今までずっと、家族だから頼られていると思っていたの」
「違ったの?」
「必要なのは、私じゃなかった。薬を調べて、予約を取って、料理をして、皿を洗う人なら誰でもよかったのかもしれない」
美咲は梅干しのおにぎりを一口食べた。海苔は弁当箱の湿気を吸い、指へ貼りついた。中央の梅干しは思ったより酸っぱく、舌の奥が縮むようだった。
「美咲が薬剤師を辞めたら、あの人たちはどうすると思う?」
「困ると言うでしょうね」
「美咲の体を心配する?」
「たぶん、資格を無駄にするなと言うと思う」
「それが答えじゃない?」
奈緒は残ったスープを飲み、空の容器を小さく潰した。美咲は弁当を食べ終えると、和子との通話内容を手帳へ書いた。最後に『私は専属薬剤師ではないと断った』と記し、その一文へ二本の線を引いた。
仕事を終えた美咲は、父の病院へ向かった。白衣から水色のブラウスへ着替え、紺色のパンツの裾を整えたが、一日立ち続けた足はむくみ、黒い靴の縁が足の甲へ食い込んでいた。病院の売店で重雄用の無糖ヨーグルトと、自分用の小さなクリームパンを買った。
重雄は一般病棟の窓際のベッドにいた。胸元をかばいながら上半身を起こし、夕食の献立表を読んでいる。テーブルには半分残した麦茶と、理学療法士から渡された歩行記録の用紙が置かれていた。
「今日は何メートル歩いたの?」
「廊下を二往復だ。若い療法士が、俺を老人扱いする」
「手術から三日しかたっていない人を走らせるわけにはいかないでしょう」
「走るとは言ってない。工場なら、もっと歩いている」
「工場へ戻る話は、先生の許可が出てからよ」
「お前は俺を病院へ閉じ込めるつもりか」
「お父さんが勝手に帰りそうだから見張っているの」
重雄は文句を言いながらも、美咲が買ってきたヨーグルトを受け取った。蓋を開けようとして胸に力が入り、顔をしかめたため、美咲が代わりに開けた。重雄は一口食べると、砂糖が入っていないと不満を言った。
「心臓の病院で、甘い菓子を出せとは言えないでしょう」
「娘が買ってきたのが、味のないヨーグルトとはな」
「明日は果物を少し持ってくるね。先生に確認してからだけど」
「毎日来なくていい。仕事のあとでは疲れるだろ」
「来たいから来ているの」
「健一君は?」
「来ないと思う」
重雄はスプーンを止め、美咲の顔を見た。美咲は和子から通院の付き添いを求められ、断ったことを話した。重雄は怒鳴らず、ヨーグルトの表面をスプーンで平らにならした。
「それで、健一君は何と言った」
「まだ話していないわ」
「今夜、話すのか」
「たぶん、お義母さんから先に電話がいくと思う」
「またお前が悪者にされるな」
「今回は謝らない」
「そうか」
「私、お義母さんの家族だったんじゃないみたい。資格と時間が使えるから、家族と呼ばれていただけだった」
「気づくのが遅い」
「ひどいことを言うのね」
「父親だから言えるんだ。お前が気づく前に俺が決めつけたら、余計なお世話になる」
重雄はヨーグルトを最後まで食べ、空の容器をテーブルへ置いた。美咲がごみ袋へ入れようとすると、自分でできると言って蓋を重ねた。手元はまだゆっくりだったが、美咲は手を出さずに待った。
「美咲が倒れたときも、あいつらは同じことを言うんだろうな」
「何て?」
「薬剤師なんだから、自分の体のことは自分で分かるだろう、とな」
重雄の言葉へ答える前に、病室の入口から健一の声がした。後ろには和子と義明が立っており、和子は花束ではなく、大きな紙袋を二つ持っていた。義明は薄茶色の半袖シャツに灰色のズボンをはき、居心地が悪そうに帽子を握っていた。
「美咲、母さんから聞いたぞ。通院を断ったんだって?」
健一は見舞いの挨拶をする前に、美咲を責めた。和子も病室へ入り、重雄のベッド脇へ紙袋を置いた。中には重雄への見舞いではなく、美咲に持ち帰らせるつもりらしい古いお薬手帳、薬の袋、病院の予約票が入っていた。
「ちょうどよかったわ。これを見て、来週の薬について先生へ聞くことをまとめてちょうだい」
「ここは父の病室です」
「分かっているわよ。手術が成功して、本当によかったですね」
和子は重雄へ一度だけ頭を下げ、すぐに美咲へ予約票を差し出した。重雄は紙袋の中身を見てから、和子の顔へ視線を戻した。和子はその意味に気づかず、診察の待ち時間が長いから美咲に車を出してほしいと話し続けた。
「私は行かないと、電話でも伝えました」
「家族なのに、どうしてそんなに意地を張るの?」
「私は父の術後の面会と、自分の仕事があります」
「お父様は病院にいるでしょう。看護師さんが見てくれるじゃない」
「お義母さんも病院へ行けば、医師と薬剤師が対応してくれます」
「嫁に付き添ってほしいと言っているのよ」
「それなら、息子である健一さんに付き添ってもらってください」
「健一は会社があるんだ!」
健一が病室に響く声で言った。隣のベッドとの間を仕切るカーテンが、空調の風で揺れた。美咲は父の顔色を確認し、声を抑えるよう健一へ伝えた。
「私にも仕事があるわ」
「お前のところには代わりの薬剤師がいるだろ」
「あなたの会社にも、ほかの社員がいるでしょう」
「俺はプロジェクトを任されているんだ。お前とは責任が違う」
「私が薬を間違えれば、患者さんの体に関わる。責任がないと思っているの?」
「そういう言い方をするな。母さんが困っているんだぞ」
「手術当日、私も困っていたわ」
「またその話かよ。手術は成功したんだから、いつまでも責めるな!」
病室が静かになった。重雄は胸元をかばいながら、ベッドの背を少し起こした。美咲が横になっているよう頼んだが、重雄は和子と健一を交互に見た。
「美咲が倒れたときも、あんたたちは同じことを言うのか」
「どういう意味ですか?」
和子が眉を寄せた。重雄は胸の痛みに耐えるよう一度呼吸を整え、娘を指した。
「薬剤師なのだから、自分で何とかしろ。病院にいるなら家族は行かなくていい。仕事を休む価値はない。あんたたちは、美咲が手術を受けても同じことを言うのか」
「美咲さんはまだ若いですし、体も丈夫でしょう」
「年齢を聞いているんじゃない」
「私たちは美咲さんを家族として頼っているだけです。家族なら助け合うのが普通でしょう」
「この娘があんたたちへ差し出しているものばかりじゃないか。あんたたちは何を返した」
「嫁として家へ迎えてあげました」
和子が答えると、義明が小さく咳払いをした。健一は母を庇うように前へ出て、美咲が少し折れれば済む話だと言った。重雄はしばらく健一を見たあと、ベッド脇の水を一口飲んだ。
「家族なら我慢しろと言う人間は、自分では我慢しないんだな」
「鈴木さん、これは俺たち夫婦の問題です」
「なら、なぜ母親を連れてきた」
「母さんが傷ついているからです」
「俺の娘は傷つかないと思っているのか」
健一は答えず、美咲へ向き直った。病人の前で揉めたくないなら、今ここで母へ謝り、来週の通院に付き添うと約束するよう求めた。美咲は床に置かれた紙袋を持ち上げ、和子へ返した。
「私は、お義母さんの専属薬剤師ではありません」
「まだそんなことを言うの? 家族なのに、冷たい人ね」
「私は家族ではありません」
「何ですって?」
「少なくとも、お義母さんたちにとっては違います。私は薬を調べ、予約を取り、料理をして、皿を洗う係です。便利だから家族と呼ばれていただけです」
「被害者ぶるのもいい加減にしなさい」
「結婚記念日に約束を破られました。仕事のあとに親戚の料理を作り、食事の席もありませんでした。父の手術の日には、夫が仕事だと嘘をついて、お義母さんの家で酒を飲んでいました」
「全部、仕方のない事情があったのよ」
「仕方がないという言葉を、我慢する本人以外が使わないでください」
美咲は一語ずつ、はっきりと伝えた。白いブラウスの袖口から、消毒液で荒れた手がのぞいていた。指には薬局で貼った絆創膏が残り、端が少し黒くなっていた。
「もう、お義母さんの予約は取りません。薬の確認もしません。買い物にも行きません。必要なことは、ご自分か、ご主人か、息子さんでしてください」
「健一、この人に何か言いなさい!」
「美咲、いい加減にしろ。家族なら俺の立場を理解するべきだ」
「あなたの立場って何?」
「会社で働き、親を支える立場だ」
「私は薬局で働き、あなたと同じくらい稼ぎ、家事をして、あなたの親まで支えてきた。それでも私の立場は、誰も理解しなかったわ」
「妻が夫を支えるのは当たり前だろ」
「夫が妻を支えるのは、当たり前ではないの?」
健一の口が止まった。和子は息子を責めるような言い方をするなと声を上げたが、義明は隣で帽子を握ったまま、床を見ていた。美咲は健一の目を見て、これまで一度も口にできなかった言葉を伝えた。
「私はあなたの家族ではありません。あなたにとって私は、最後まで我慢する係です」
病室の外で、看護師が足を止めた。重雄は胸元へ手を置きながらも、美咲を止めなかった。健一は顔を赤くし、今すぐ帰るぞと美咲の腕をつかもうとした。
「触らないで」
美咲が一歩下がると、看護師が病室へ入ってきた。患者の安静に関わるため、面会を終えるよう求められた。和子は自分たちだけが追い出されるのはおかしいと抗議したが、義明に腕を引かれ、紙袋を持って廊下へ出た。
「美咲、帰ったら話があるからな」
「私は今日、父の家へ泊まります」
「勝手なことをするな!」
「父が退院したら、自宅へ連れて帰る準備が必要なの。あなたの許可は要らないわ」
健一はさらに言い返そうとしたが、看護師が廊下へ出るよう促した。和子は最後まで「冷たい嫁」「恩知らず」と繰り返し、三人の声はエレベーターの扉が閉まるまで聞こえていた。
病室へ静けさが戻ると、重雄は枕へ頭を沈めた。美咲は水を新しくし、乱れた掛け布団を整えた。重雄の夕食には白身魚の煮付け、青菜のおひたし、薄味の澄まし汁が出されたが、騒ぎのせいで澄まし汁はすっかり冷めていた。
「お父さん、ごめんね。病院であんな話をして」
「謝る相手を間違えるな」
「血圧、上がっていない?」
「お前が看護師に追い出されなかったことのほうが不思議だ」
「家族だから残してもらえたの」
「そういうときに使う言葉だ」
重雄は白身魚を一口食べ、味が薄いと眉を寄せた。美咲はそれなら元気がある証拠だと笑い、箸で崩れた魚を皿の中央へ集めた。父が自分で食べられるよう、手を出しすぎないで見守った。
「美咲」
「何?」
「俺が娘を返せと言ったから、無理に決めなくていい」
「お父さんに言われたからではないわ」
「そうか」
「私、自分が家族として愛されていると思いたかったの。だから頼まれるたびに、必要とされていると思い込んでいた」
「必要にはされていたんだろう。便利な人間としてな」
「やっぱり、言い方がひどい」
「甘く言って、また戻ったら困る」
重雄は澄まし汁を一口飲み、すぐに冷たいと言って椀を置いた。美咲は看護師へ頼み、温め直してもらうことにした。病室の窓からは夕方の光が入り、床に置かれた美咲の黒い鞄を照らしていた。
面会を終えたあと、美咲は自宅へ戻らず、重雄の古い家へ向かった。玄関を開けると、使われていない家の空気と、畳の乾いた匂いがした。台所には父が入院前に洗った湯飲みが伏せられ、冷蔵庫には卵が二つと、しなびたきゅうりが一本残っていた。
美咲は窓を開け、押し入れから自分が高校時代に使っていた布団を出した。花柄の敷布団には薄い染みがあり、母が縫った白い当て布が残っていた。シーツを洗濯機へ入れると、古い機械は大きな音を立てて回り始めた。
健一からは、着信が七件入っていた。和子からも長いメッセージが届き、夫婦の問題を大きくしたのは美咲だ、明日までに謝れば許すと書かれていた。美咲は返信せず、すべての画面を保存した。
台所の小さなテーブルで、売店から持ち帰ったクリームパンを食べた。朝から鞄へ入れたままだったため、パンは少し潰れ、クリームは生地の端へ偏っていた。それでも美咲は、一口ずつゆっくり噛んだ。
食べ終えると、小さな手帳を開いた。和子から通院を要求されたこと、断ると冷たい嫁と責められたこと、病室で健一から妻なら支えて当然だと言われたことを書いた。最後の行には、自分の言葉を記した。
『私はあなたの家族ではありません。あなたにとって私は、最後まで我慢する係です』
洗濯機が止まり、古い家に終了音が響いた。美咲は立ち上がり、濡れたシーツを両手で抱えた。窓の外には、父が手入れしてきた小さな庭と、錆びた物干し竿が見えた。
美咲はシーツを竿へ広げ、端を洗濯ばさみで留めた。義実家の通院も、薬の確認も、健一の朝食も、明日のワイシャツも、今夜は考えなくてよかった。誰にも許可を求めずに断った夜、美咲はようやく、自分の時間が自分の手へ戻ってくる感覚を知った。




