第6話 父が倒れた夜
第6話 父が倒れた夜
手術当日の午前四時五十分、美咲は目覚まし時計が鳴る前に目を開けた。窓の外はまだ暗く、台所の換気扇の下では、昨夜干した布巾が半分湿ったまま揺れていた。美咲は白いTシャツに紺色のカーディガンを羽織り、動きやすい黒いパンツへ着替えた。
朝食には、塩を少なめにしたわかめのおにぎりと、豆腐の味噌汁を用意した。健一の分も食卓へ並べたが、味噌汁が冷め始めても寝室から出てこなかった。美咲は自分のおにぎりを半分だけ食べ、重雄の手術説明書と入院書類が入った透明なファイルを確認した。
薬局には一か月前から休暇を申請していた。前日には患者からの問い合わせ、発注中の薬、冷蔵保管品の在庫を同僚へ引き継ぎ、何かあれば副薬局長へ連絡するよう手配も済ませた。白衣を着ていないのに、薬の確認を忘れていないか何度も鞄を開ける自分に気づき、美咲はファスナーを閉じた。
「健一、五時半よ。起きて」
「もうそんな時間か」
「六時十五分には家を出るわ。病院へ七時に来るよう言われているから」
「分かってるよ。有給も取ったんだから」
「本当に会社へ連絡したの?」
「先週、申請した。何度聞けば気が済むんだ」
健一は布団の中で背中を向けたまま答えた。美咲はその言葉を信じることにし、寝室のカーテンを開けた。東の空がわずかに白くなり、ベランダでは前夜に干した健一のワイシャツが風もないのに細かく震えていた。
午前五時五十分、健一のスマートフォンが鳴った。健一は画面を見ると、急に上半身を起こした。電話には出ず、美咲のいる台所まで来ると、困ったように眉を寄せた。
「会社からだ。取引先で設備の不具合が出たらしい」
「今日は休暇でしょう」
「担当者が俺だから、どうしても確認したいんだろ」
「電話で答えれば済むことではないの?」
「現場を見ないと分からないよ」
「お父さんの手術は、今日しかないのよ」
「俺だって行くつもりだった。けど、仕事で問題が起きたんだから仕方ないだろ」
健一は昨夜から椅子へ掛けてあった黒いジャケットを取り、白いシャツへ腕を通した。有給休暇を取った人間が、なぜ出勤用の服を準備していたのかと美咲は思った。襟元には前日の飲み会でついたらしい薄い染みがあった。
「病院へは何時に来られるの?」
「現場が片づいたら向かうよ」
「手術は九時からよ。五時間くらいかかると説明されたでしょう」
「手術中に俺がいても、何もできないだろ」
「待っていてほしいの。何かあったときだけではなく、私と一緒にいてほしいのよ」
「子どもじゃないんだから、一人でも待てるだろ。お前は薬剤師なんだし、病院にも慣れているじゃないか」
美咲は冷めた味噌汁の表面に浮いたねぎを見た。今ここで健一と話し続ければ、父との約束の時間に遅れる。美咲は鞄を持ち、来られる時間が分かったら必ず連絡してほしいと伝えた。
「昼までには顔を出すよ」
「約束できる?」
「できるって。仕事の問題が片づけば、すぐ行く」
健一はそう答えたが、美咲の目を見なかった。食卓に置かれた味噌汁へも手をつけず、洗面所へ向かった。美咲は玄関で黒い運動靴をはき、一人で家を出た。
午前六時半、重雄の病室へ着くと、父は淡い青色の手術着へ着替えていた。ベッド脇の棚には眼鏡、入れ歯の容器、使い込んだ腕時計が並べられている。重雄はテレビをつけていたが、画面では早朝の天気予報が音を消したまま流れていた。
「早かったな。健一君は?」
「会社で急な仕事が入ったの。終わったら来るって」
「手術の日まで会社へ呼ばれるのか。偉くなったもんだな」
「担当している現場で問題が起きたらしいわ」
「本当か?」
「どういう意味?」
「いや、仕事なら仕方ない」
重雄はそれ以上聞かず、枕元の眼鏡を眼鏡ケースへ入れた。ケースの内側には、いつ貼ったのか分からない猫のシールが残っていた。美咲が小学生の頃、父の黒い眼鏡ケースが地味だからと勝手に貼ったものだった。
「まだ剥がしていなかったのね」
「何をだ」
「猫のシール。私が貼ったものでしょう」
「剥がす理由がなかっただけだ」
「三十年近く、そのままにしていたの?」
「物は壊れるまで使うものだ。お前はすぐに思い出話を始めるな」
重雄は顔を背けたが、耳が少し赤くなっていた。美咲は父の薬について、看護師と最後の確認をした。前日から中止している薬、当日の朝に飲んだ薬、持参した薬の保管場所を一つずつ照合した。
午前八時四十分、看護師が迎えに来た。重雄はベッドの上で運ばれるのを嫌がり、自分で歩いて手術室へ行けると言い張った。しかし鎮静薬を使用する予定があるため、看護師に説得され、しぶしぶ移動用のベッドへ横になった。
「お父さん、終わるまでずっと待っているからね」
「五時間も座っていたら腰が痛くなるぞ。どこかで飯を食ってこい」
「食欲が出たらね」
「健一君が来たら、二人で交代すればいい」
「うん」
「そんな顔をするな。俺は機械より丈夫だ」
「工場の古い旋盤と一緒にしないで」
「古くても、手入れをすれば動くんだ」
重雄は右手を上げ、美咲の指先へ軽く触れた。手術室の扉が開くと、消毒液の匂いを含んだ冷たい空気が流れてきた。重雄は最後まで天井を見たまま、扉の向こうへ運ばれていった。
美咲は家族待合室へ移り、窓際の椅子へ座った。室内には長椅子、自動販売機、飲み残しの紙コップを捨てるごみ箱があった。壁の時計は午前九時を示し、秒針だけが一定の音で進んでいた。
午前九時半、健一へメッセージを送った。
『手術が始まりました。何時頃に来られそうですか』
既読はつかなかった。美咲は鞄から文庫本を取り出したが、同じ一行を何度読んでも内容が頭へ入らなかった。近くの長椅子では、別の患者の家族がコンビニのおにぎりを分け合い、鮭と梅干しのどちらを食べるか話していた。
午前十一時を過ぎても、健一から返事はなかった。美咲は薬局の同僚から届いた「無事に終わりますように」というメッセージへ礼を返し、病院の売店で温かいほうじ茶を買った。蓋を開けても飲む気になれず、両手でボトルを握っているうちにぬるくなった。
正午、美咲は健一へ電話をかけた。呼び出し音が続いたあと、留守番電話へ切り替わった。会社へ直接電話をすることも考えたが、仕事中だと言った健一の立場を悪くするのではないかと思い、画面を閉じた。
午後一時十八分、家族用の連絡アプリに通知が入った。和子が、親戚の集まりの写真を何枚も投稿していた。座敷のテーブルには寿司、唐揚げ、枝豆、刺身が並び、中央には親戚へ配る酒の箱が積まれている。
美咲は写真を一枚ずつ見た。三枚目の端に、白いシャツを着た健一の腕が写っていた。四枚目では健一が酒瓶を持ち、親戚のグラスへ注いでいた。
『健一が朝から運んでくれたので助かりました。やっぱり親孝行な息子です』
和子の文章の下には、笑顔の絵文字が並んでいた。健一が会社へ行っていないことは、写真を見れば明らかだった。美咲は何度も画面を拡大し、健一の腕時計、黒いジャケット、朝に見た襟元の染みを確認した。
「仕事じゃなかったのね」
声に出すと、喉の奥が乾いた。すぐに健一へ電話をかけたが、今度は呼び出し音も鳴らず、電源が入っていないという案内が流れた。美咲は写真と投稿時刻を画像として保存し、小さな手帳へ健一から言われたことを書き込んだ。
『午前五時五十分、急な仕事が入ったと言う。午後一時十八分、義実家の親戚会で酒を注いでいる写真を確認』
書き終えると、ペン先が紙へ強く当たり、文字の下に跡が残った。美咲は手帳を閉じ、スマートフォンを鞄の一番下へ入れた。今は健一の嘘を追及するより、父の手術が終わるのを待たなければならなかった。
午後二時になっても、手術終了の連絡はなかった。予定では五時間ほどと聞いていたため、美咲は看護師へ状況を尋ねた。看護師は手術室へ確認し、手術は続いているが、現時点で家族に知らせる緊急事態はないと説明した。
「予定より長くなっていますが、処置の内容によって時間は前後します。こちらでお待ちください」
「人工心肺から離脱できていないのでしょうか。それとも、出血が多いのでしょうか」
「申し訳ありません。手術中の詳しい状況は、執刀医から終了後に説明します」
「分かりました。すみません」
美咲は看護師を困らせたことを謝り、椅子へ戻った。冠動脈バイパス手術で起こり得る合併症を、説明書を読まなくてもいくつも挙げられた。出血、不整脈、心筋梗塞、脳梗塞、腎機能の悪化、感染症という言葉が、薬の添付文書のように頭の中へ並んだ。
患者へ説明するときは、起こり得る危険と起こる確率を分けて考えるよう伝えてきた。それでも今は、知識が安心にはつながらなかった。どれほど薬や治療法を知っていても、美咲にできるのは、自動販売機の明かりがついた待合室で父の名前を呼ばれるのを待つことだけだった。
午後三時、売店で買った梅のおにぎりを開けた。海苔は湿気を吸い、米は冷たく固くなっていた。二口食べると喉を通らなくなり、残りを包装へ戻した。
「お父さん、朝はバナナ一本だったのに」
重雄が手術前に、終わったら蕎麦を食べたいと話していたことを思い出した。退院したら塩分の少ないつゆを作ろう、工場へ戻る時期は医師と相談しようと、まだ決まっていない予定を手帳の余白へ書いた。書いていなければ、悪い想像だけで余白が埋まりそうだった。
午後四時半、健一からようやくメッセージが届いた。
『仕事が長引いた。今から向かう』
美咲は返信しなかった。和子が投稿した写真には、午後三時過ぎに健一が親戚と乾杯する姿まで写っていた。嘘を重ねる夫と話す力を、今は残しておきたくなかった。
午後五時二十分、看護師が待合室へ来た。手術が終わり、森田医師から説明があると告げられた。美咲は急いで立ち上がったため、何時間も同じ姿勢でいた足がもつれ、長椅子へ手をついた。
説明室で、森田医師は血管を三箇所つなぐ手術を行ったと話した。途中で血流の確認に時間がかかったものの、予定した処置はすべて終了しているという。重雄は集中治療室へ移され、麻酔から覚めるまで慎重に経過を見ることになった。
「手術は成功したと考えてよいでしょうか」
「現時点では予定どおり終了しています。ただし、今夜は出血、不整脈、血圧の変動などに注意が必要です」
「人工呼吸器は、いつ頃外せる予定ですか」
「状態が安定して自発呼吸が十分に戻れば外します。詳しい時間は、経過を見ながら判断します」
「ありがとうございました」
美咲は何度も頭を下げた。説明室を出ると、膝から力が抜け、廊下の椅子へ座り込んだ。白い壁に貼られた入院食のポスターがにじみ、何度瞬きをしても文字を読めなかった。
午後六時過ぎ、集中治療室のガラス越しに重雄の姿を見ることができた。胸元には管がつながれ、機械の画面には心拍数や血圧が表示されている。美咲は薬剤師として数値を確認しようとしたが、すぐに視線を父の顔へ戻した。
「お父さん、終わったよ。先生が、予定していた手術はできたと言っていたよ」
重雄から返事はなかった。看護師は声が届くこともあるので、普段どおり話しかけてよいと教えてくれた。美咲はガラスに触れないよう両手を胸元で重ね、父が目を開けるまでそこに立っていた。
午後六時四十分、エレベーターの扉が開き、健一が紙袋を持って現れた。白いシャツの襟は乱れ、頬は赤く、歩くたびに酒と煙草の匂いが近づいてきた。紙袋には、義実家で余った饅頭と海苔の箱が入っていた。
「手術、終わったんだって?」
「午後五時二十分に終わったわ」
「成功したんだろ。ならよかったじゃないか」
「仕事はどうしたの?」
「だから、急な対応が長引いたんだよ。そのあと少しだけ母さんのところへ寄った」
「朝から義実家にいたでしょう」
「何を言ってるんだ」
美咲は和子が投稿した写真を表示し、健一の前へ差し出した。午前中から酒を運び、親戚と食卓を囲んでいた姿が、時刻とともに残っている。健一は画面を見ると、面倒そうに鼻から息を吐いた。
「母さんがどうしても困っていると言うから、先に寄ったんだよ」
「会社へ行ったというのは嘘だったのね」
「酒を運んだあと、会社の電話にも対応した。全部が嘘じゃない」
「病院へ来ると約束したでしょう」
「俺が来ても手術が早く終わるわけじゃないだろ。親戚が集まる日は今日しかなかったんだ」
「お父さんの手術も今日しかなかったわ」
「だから、美咲がいたじゃないか」
健一は紙袋を椅子へ置き、自動販売機で水を買った。硬貨を入れる手元が少し乱れ、一本目は取り出し口へ落ちてもすぐに拾えなかった。酒を少し飲んだだけだと言ったが、息にもシャツにも日本酒の甘い匂いが染みついていた。
「私は朝から一人で待っていたの。予定より三時間近く長引いても、あなたへ連絡がつかなかった」
「俺に電話したって、何もできないだろ」
「何かをしてほしかったんじゃない。一緒に待ってほしかったの」
「お前は薬剤師なんだから、俺がいなくても医者の説明は分かるだろ」
「説明が分かれば、一人でも平気だと思っているの?」
「実際、ちゃんと対応できただろ。医療のことを知らない俺がいても邪魔になるだけだ」
「私は薬剤師である前に、お父さんの娘なのよ」
「またそれか。感情で話すなよ」
健一は腕時計を見て、手術が終わったなら自分は帰ってもよいかと尋ねた。明日は仕事があり、早く寝なければならないという。美咲は、病院の廊下に酒の匂いをさせて現れた夫の顔を見た。
「今夜は、お父さんの状態が安定するまで連絡を待つわ」
「じゃあ、美咲だけ残ればいいだろ。薬のことも分かるし」
「帰るなら帰って。ただし、今日あなたがしたことは、なかったことにはしない」
「好きにしろよ。俺は母さんを助けただけだ」
健一が紙袋を持ち上げたとき、集中治療室の看護師が廊下へ出てきた。重雄の意識が戻り、人工呼吸器も外れたため、短時間なら家族が一人ずつ面会できると告げられた。美咲はすぐに立ち上がったが、健一も後ろからついてきた。
集中治療室では、機械の電子音が一定の間隔で鳴っていた。重雄は酸素マスクをつけ、胸元を大きな布で覆われていた。顔色は白く、目を開けているだけでも力を使っているようだった。
「お父さん、分かる?」
「……美咲か」
「手術は終わったよ。先生が、三箇所とも血管をつなげられたと言っていた」
「そうか。長かったな」
「無理に話さなくていいからね」
重雄は美咲の後ろにいる健一へ目を向けた。健一は酒の匂いを隠すようにマスクを直し、手術が成功してよかったと軽く頭を下げた。重雄の目が、健一の持つ義実家の紙袋へ移った。
「健一君……今、来たのか」
「仕事でトラブルがありまして。美咲が薬剤師なので、病院のことは安心して任せられました」
「違うよ、お父さん。健一は会社へ行っていなかった。お義母さんの家で酒を運んで、親戚と飲んでいたの」
「おい、今ここで言うことじゃないだろ」
「あなたは仕事だと嘘をついた」
「手術は終わったんだから、もういいだろ!」
健一の声が大きくなり、看護師が静かにするよう注意した。重雄は酸素マスクの下で浅く息をしながら、健一を見た。胸の管が動くたびに顔をしかめたが、それでも目をそらさなかった。
「娘が薬剤師なら、一人で父親の手術を待っても平気なのか。資格があれば、怖くもならず、誰の支えもいらないとでも思っているのか」
「そういう意味ではありません。美咲なら医師の説明も理解できますし、俺より役に立つという意味です」
「役に立つかどうかを聞いているんじゃない」
「鈴木さん、今は休んでください。手術のあとなんですから」
「俺の体を気遣うなら、なぜ娘を一人にした」
重雄の声は弱かったが、一語ずつはっきりしていた。美咲は父の腕へ触れようとしたものの、点滴や管がつながっているため、シーツの端を握った。重雄はゆっくり呼吸を整え、健一へ続けた。
「仕事なら、まだ分かった。だが、お前は嘘をついて、娘を一人でここに座らせた。親戚の酒と、俺の手術を比べたんだ」
「母も困っていたんです。親戚付き合いだって、社会人には必要でしょう」
「酒は明日でも運べる。手術は今日しかなかった」
「俺が待っていても、医者に任せるしかないじゃないですか」
「待つこともできない人間が、家族を名乗るな」
健一の口元から笑いが消えた。看護師が重雄の血圧を確認し、これ以上の会話は体へ負担になると告げた。美咲も父に休むよう頼んだが、重雄は最後にもう一度、健一へ顔を向けた。
「お前の優先順位は狂っている。娘を返してもらう」
「お父さん」
「美咲、お前が決めることだ。だが、帰る場所がないとは思うな」
重雄は目を閉じ、看護師に促されるまま呼吸を整えた。美咲と健一は集中治療室を出された。扉が閉まると、健一はすぐに美咲を廊下の端へ連れていった。
「何なんだ、あの言い方は。父親が夫婦のことに口を出すなよ」
「手術を終えたばかりのお父さんに、あなたは自分の言い分しか話さなかった」
「お前が余計なことを告げ口したからだろ」
「私が黙っていれば、あなたは仕事へ行ったことにするつもりだったの?」
「家族のために動いたんだ。母さんだって家族だろ」
「私の父は家族ではないの?」
「お前が付き添ったんだから、それでいいじゃないか」
美咲は鞄から小さな手帳を取り出した。廊下の壁際にある椅子へ座り、健一が仕事だと嘘をついたこと、義実家で飲酒していたこと、手術後も謝罪しなかったことを書いた。健一は苛立った様子で、その手帳をのぞき込んだ。
「また記録かよ。そんなものを書いて、俺を悪者にしたいのか?」
「悪者にするためではないわ」
「じゃあ、何のためだ」
「明日になったら、私がまた『仕方なかった』と思わないためよ」
美咲はペンの蓋を閉めた。待合室へ戻ると、朝に買ったほうじ茶が鞄の中で冷たくなっていた。梅のおにぎりも二口しか減っておらず、海苔は水分を吸って黒く縮んでいた。
健一は義実家から持ってきた饅頭の箱を、美咲の隣へ置いた。
「母さんが持っていけと言ったんだ。鈴木さんが食べられるようになったら渡せばいい」
「心臓の手術をした人への見舞いに、甘い饅頭を持ってきたの?」
「手ぶらよりいいだろ」
「これは、お義実家で余ったものよね」
「いちいち文句を言うなよ。俺は明日も会社だから帰るぞ」
健一は紙袋を置いたまま、エレベーターへ向かった。美咲は呼び止めなかった。エレベーターの扉が閉まるまで、健一は一度も集中治療室のほうを振り返らなかった。
午後九時を過ぎ、看護師から重雄の状態が落ち着いていると伝えられた。美咲は病院を出る前に、集中治療室の扉へ向かって小さく頭を下げた。外は雨が降り始め、アスファルトから湿った土と埃の匂いが立ち上っていた。
自宅へ帰ると、朝の味噌汁とアジの開きが食卓に残っていた。健一は食器を片づけず、寝室で電話をしていた。扉の向こうから、母親へ「鈴木さんに怒鳴られた」「美咲まで父親の味方をした」と訴える声が聞こえた。
美咲は冷めた味噌汁を流しへ捨て、アジの骨を新聞紙に包んだ。洗濯籠には健一が脱いだ白いシャツが入っており、襟元からまだ酒の匂いがした。美咲はそのシャツを取り出さず、洗濯機の蓋を閉めた。
食卓には、水だけを入れていた花瓶と、結婚記念日の七本のろうそくが残っていた。美咲は手帳を開き、父が言った言葉を最後に書き加えた。『帰る場所がないとは思うな』
寝室から健一の笑い声が聞こえた。和子が、手術は終わったのだから気にする必要はないと慰めているらしい。美咲はスマートフォンの予定表を開き、翌日から重雄の面会へ通う日程を一人で入力した。
「お父さんの手術は、終わった。でも、なかったことにはならない」
美咲は手帳を閉じ、自分の分だけ布団を居間へ運んだ。薬剤師の資格があっても、一人で待つ時間が短くなるわけではなかった。そして夫がついた嘘を治す薬は、どこの薬局にも置いていなかった。




