第10話 土下座で頼んだのは、妻ではなかった
第10話 土下座で頼んだのは、妻ではなかった
九月の最初の日曜日、美咲は父の家の台所で、栗かぼちゃの煮物を作っていた。重雄は退院から三週間が過ぎ、家の中なら杖を使わずに歩けるようになっている。医師から工場へ戻る許可はまだ出ていなかったが、朝になると作業着を眺め、機械の音が聞きたいと口にした。
「今日は味が濃くないか」
重雄は小皿へ取り分けたかぼちゃを箸で割り、湯気へ顔を近づけた。美咲は白いTシャツの上に薄緑色のエプロンを着け、鍋の火を止めた。隣の鍋では、鶏肉、ごぼう、大根を入れた薄味の汁が煮えている。
「まだ食べてもいないのに、分かるの?」
「匂いで分かる」
「お父さんが薄味に慣れてきたのよ」
「病院の飯に舌を壊されたんだ」
「味の濃いものばかり食べて壊していたのを、戻してもらったの」
「退院したら娘が厳しくなったな」
重雄は文句を言いながら、かぼちゃを一切れ食べた。砂糖を控え、出汁を利かせた味つけだったが、黙ってもう一切れ取ったところを見ると、気に入ったらしい。美咲は使い終えたまな板を洗い、窓辺へ立てかけた。
居間の小さなテーブルには、離婚協議書、財産分与の一覧、弁護士から届いた封筒が置かれていた。健一には弁護士を通して書類を送ったが、返事はない。代わりに「一度会って話したい」「夫婦だけで解決するべきだ」というメッセージが、毎日のように届いていた。
「今日も連絡が来たのか」
「今朝だけで三件」
「弁護士へ任せたんじゃないのか」
「必要なこと以外は返事をしていないわ」
「それでいい。お前は返事を考え始めると、飯が冷めるまで携帯を見ているからな」
「お父さんも、工場のことを考えて味噌汁を冷ましているでしょう」
「俺の話はいい」
重雄が新聞を広げたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。宅配便が届く予定はなく、近所の人なら裏口から声をかける。美咲がモニターを確認すると、健一と和子、義明が門の前に立っていた。
三人が一緒に来るという連絡は受けていなかった。健一は黒いスーツを着ていたが、ネクタイは曲がり、肩には白い糸くずがついている。和子は紫色の花柄ブラウスに黒いパンツをはき、義明は茶色い紙袋を一つ持っていた。
「帰ってもらうか」
重雄が新聞を畳んだ。美咲は玄関のモニターを見ながら、すぐには答えなかった。健一から逃げ続ければ、話し合いを拒否していると言われる可能性があるため、弁護士からは会う場合でも二人きりにならないよう助言されていた。
「私が話す。お父さんは怒鳴らないでね」
「怒鳴る価値がある話かどうか、聞いてから決める」
「胸に負担がかかるでしょう」
「医者から普通に話す許可は出ている」
「喧嘩をする許可は出ていないわよ」
美咲は重雄へ血圧の薬を飲んだか確認してから、玄関を開けた。健一は美咲の顔を見ると、安堵したように息を吐いた。和子は挨拶より先に、外は暑かった、立ち話では疲れると言い、家へ上がろうとした。
「今日は連絡を受けていません」
「家族が来たのに、玄関先で追い返すつもり?」
「書類についての話なら、弁護士を通してください」
「弁護士なんて入れたら話が大きくなるでしょう。私たちは、あなたを迎えに来たのよ」
「頼んでいません」
「ここでは近所の目もある。中で話そう」
健一は以前と同じように、美咲が道を空けるのを待っていた。美咲は重雄の体調を考え、三十分だけという条件で三人を居間へ通した。和子は畳の縁を踏まないよう足を運びながらも、古い家は段差が多くて危ないと小声で義明へ話した。
居間のテーブルには、重雄が飲みかけた麦茶と、半分に折った新聞が残っていた。美咲は三人へ冷たい麦茶を出したが、菓子は用意しなかった。義明が持ってきた紙袋には、駅前の店で買った煎餅が入っていた。
「鈴木さん、その後のお体はいかがですか」
義明が最初に重雄へ尋ねた。重雄は順調に回復していると答え、麦茶を一口飲んだ。健一と和子は父の体調について、それ以上質問しなかった。
「美咲、いつまで意地を張るつもりだ」
健一は座布団の上で膝をそろえ、美咲を見た。黒いスーツの袖口には、アイロンでつけた不自然な折り目が二本あった。自分で手入れしたのか、クリーニング店へ出す金を惜しんだのか、美咲には分からなかった。
「意地ではありません。離婚の意思は変わらないと、書面でも伝えました」
「七年も夫婦だったんだぞ。こんな終わり方でいいのか」
「七年間あったから、終わらせるまで考えました」
「俺だって、反省しているところはある」
「何を反省したの?」
「結婚記念日に帰れなかったことや、手術の日に酒を飲んだことだよ」
「帰れなかったのではなく、帰らなかった。手術の日も仕事だと嘘をついたのよ」
「だから、それは悪かったと言ってるだろ」
「今、初めて聞きました」
健一は唇を結び、膝の上で両手を握った。和子は息子を追い詰めるような言い方をするなと口を挟んだ。美咲は和子へ視線を移したが、言い返さずに健一の次の言葉を待った。
「俺一人の給料では、今の部屋も車も維持できないんだ」
「だから私に戻ってほしいの?」
「それだけじゃない。夫婦なら助け合うものだろ」
「私たちは同じくらい稼いでいました。でも、家事も親の世話も私がしていました。それを助け合いとは呼びません」
「これからは俺も家事をする」
「何をするの?」
「洗濯とか、掃除とかだよ」
「週に何回、どのようにするの?」
「そんな細かいことは、生活しながら決めればいいだろ」
「今も自分の家で生活しているでしょう。洗濯と掃除はできていますか?」
「家事代行を頼んでいる」
「私が戻ったら、その契約を続けるの?」
「お前がいるなら必要ないだろ」
美咲は麦茶のコップへ目を落とした。健一が求めているのは、家事を分担する妻ではなかった。料金を払わずに掃除、洗濯、料理を引き受け、家賃と車の費用まで負担する人間だった。
「家事代行には料金を払うのに、私なら無料でいいのね」
「夫婦の間で金を取るのか?」
「私の時間には、価値がないと思っているの?」
「そういう意味じゃない。生活を一緒にするなら、できるほうがやればいいだろ」
「今までは、できるかどうかに関係なく私がしていたわ」
「俺は会社で責任のある仕事をしていたんだ」
「その仕事も、責任者から外されたそうね」
健一の顔が強張った。会社のことは話していないはずだと声を上げたが、健一自身が美咲へ送ったメッセージに「大事な仕事を外された」と書いていた。美咲はスマートフォンに保存した文章を見せた。
「それも、お前が出ていったからだ」
「私が会社の見積書を作ったの?」
「家のことで余裕がなかったんだよ」
「確認をしなかったのも、部下へ責任を押しつけたのも、あなたでしょう」
「家が回っていれば、そんな間違いはしなかった!」
「私は家を回しながら、薬剤師として働いていました」
健一は答えられず、麦茶を一口で飲み干した。コップを強く置いたため、古いテーブルの表面へ水滴が飛んだ。美咲は布巾を取りに立たず、健一がこぼした水をそのままにした。
「美咲さん、健一も困っているのよ。そろそろ許してあげたらどう?」
和子が、話をまとめるように言った。紫色のブラウスの襟元を指で整え、自分も健一も美咲が戻れば助かると続けた。美咲が黙っていると、和子は鞄からお薬手帳を取り出した。
「この前、薬を一種類増やされたの。先生の説明を聞いても、よく分からなくて」
「処方された薬局で相談してください」
「あなたが見てくれれば早いでしょう」
「私は、お義母さんの担当薬剤師ではありません」
「でも、薬剤師の嫁がいるから安心していたのよ」
美咲は和子の顔を見た。復縁の話をするために来たはずなのに、和子の鞄には自分のお薬手帳が入っていた。重雄への見舞いには何も持ってこなかった人が、美咲へ頼む道具だけは忘れず持参している。
「私が必要なのではなく、無料で使える薬剤師が必要なのですね」
「そんな言い方をしなくてもいいでしょう。家族なら、持っている知識を役立てるのは普通よ」
「私が薬剤師を辞めたら、どうしますか?」
「何を馬鹿なことを言っているの。せっかく取った資格でしょう」
「私の体を心配するのではなく、資格が使えなくなることを心配するのですね」
「辞める必要なんてないでしょう。仕事を続けながら、家のこともすればいいのよ」
「それを七年間してきました」
「だったら、これからもできるじゃない」
和子は何がおかしいのか分からない顔をしていた。美咲は、これ以上説明しても届かないことを知った。相手の時間や労働を自分のものだと思っている人には、使われる側が疲れたという事実さえ、怠けるための言い訳に見えるのだろう。
「もう、しません」
「家族を見捨てるの?」
「お義母さんにはご主人と息子さんがいます。病院には医師と担当薬剤師がいます。私がいなくても、ご自分で生活できます」
「健一、何とか言いなさい」
「美咲、母さんに冷たくするなよ」
「あなたが付き添ってあげればいいでしょう」
「平日は会社があるんだ」
「私にも仕事があります」
「また同じ話をするのか!」
「同じ要求を繰り返しているのは、あなたたちです」
義明は麦茶のコップを持ったまま、妻と息子を見比べた。これまで黙っていれば家庭が丸く収まると思い、和子を止めなかった。しかし美咲が戻らなければ、自分が通院や家事を引き受ける可能性があると、ようやく理解したようだった。
「和子、病院には俺が一緒に行けばいいだろう」
「あなたに薬の説明が分かるの?」
「分からなければ、医者に聞く。薬局でも聞けるんだろう」
「でも、美咲さんがいるのに、どうして私たちが苦労しなければならないの?」
「その言葉が答えですよ」
美咲が言うと、和子は口を閉じた。義明は目を伏せ、お薬手帳を妻の鞄へ戻すよう促した。和子は納得していなかったが、重雄の前で夫と口論することは避けたらしい。
「美咲」
健一は座布団から降り、畳へ両手をついた。和子が驚いて息子の肩へ触れようとしたが、健一は頭を下げた。結婚してから一度も見たことのない土下座だった。
「悪かった。俺が間違っていた。戻ってきてくれ」
「何が間違っていたの?」
「お前に任せすぎた。母さんのことも、家のことも」
「私が一人で手術を待ったことは?」
「それも悪かった」
「仕事だと嘘をついたことは?」
「謝るよ」
「なぜ今になって謝るの?」
「だから、一人の給料では生活が苦しいんだ。母さんのこともある。会社でも評価を戻さなきゃならない。お前がいれば、またやり直せる」
健一は頭を下げたまま、妻がいなくなって困ったことを並べた。家賃、車、家事、義母の通院、会社での評価が語られたが、美咲がどんな思いで父の手術を待ったのかは、最後まで尋ねなかった。
重雄は畳へ手をつく健一を見たあと、美咲へ顔を向けた。
「俺が追い返すことは簡単だ。だが、お前の人生だから、お前が答えろ」
「分かってる」
美咲は離婚協議書を透明なファイルから取り出し、健一の前へ置いた。財産分与、家財の整理、今後の連絡方法が記載されている。健一は顔を上げ、書類と美咲を交互に見た。
「あなたが取り戻したいのは私ではありません。私が黙って引き受けていた、便利な暮らしです」
「違う。俺はお前を妻として必要としている」
「それなら、私の好きな食べ物を言ってみて」
「急に何だよ」
「私が薬局で何を担当しているか知ってる?」
「薬を出す仕事だろ」
「先月、私が何日休んだか覚えている?」
「そんな細かいことまで覚えていられない」
「父の退院後、私がどんな生活をしているか、一度でも尋ねた?」
健一は答えられなかった。美咲は離婚協議書の署名欄を指した。今日すぐに署名する必要はないが、今後は弁護士を通して回答するよう告げた。
「私たちは七年間一緒に暮らしました。でも、あなたは私の仕事も、収入も、好きな食べ物も知らなかった。知っていたのは、私が何をしてくれるかだけです」
「これから知ればいいだろ」
「知ろうとする時間は七年ありました」
「一度の失敗で、全部を捨てるのか?」
「一度ではありません。私が記録した手帳には、何年分もの『仕方ない』が残っています」
美咲は小さな手帳をテーブルへ置いた。油の染み、濡れた指で触れた跡、何度も開いたために曲がった表紙が、健一の前にあった。健一は手を伸ばしたが、美咲は手帳を自分の側へ戻した。
「これは私の記録です。あなたの言い訳を書き直すためのものではありません」
「本当に終わりにするのか」
「はい。私は離婚します」
健一の肩から力が抜けた。和子はそんな勝手は認めないと声を上げたが、義明が腕をつかんだ。重雄は何も言わず、冷めた麦茶を一口飲んだ。
三人が帰ったあと、玄関には義明が持ってきた煎餅の紙袋だけが残った。和子は自分のお薬手帳を忘れずに持ち帰り、健一は離婚協議書の写しを鞄へ入れた。門が閉まる音がすると、重雄は背もたれへ体を預けた。
「血圧を測ろうか」
「お前の元夫候補よりは安定している」
「まだ夫よ」
「面倒なものだな」
「結婚は、始めるより終わらせるほうが大変なの」
「煎餅、開けるか」
「塩分が高いから、一枚を半分ね」
「見舞いの品だぞ」
「お義父さんが持ってきた手土産でしょう」
「俺が食えば見舞いになる」
美咲は煎餅を一枚取り出し、二つに割った。醤油の香ばしい匂いが、かぼちゃの煮物の甘い匂いと混ざった。大きいほうを重雄へ渡すと、父は何も言わずに受け取った。
食卓には離婚協議書の原本が残っていた。美咲はそれをファイルへ戻し、自分名義の通帳と一緒に鞄へ入れた。土下座を見ても、胸の内に戻ってくるものはなかった。
健一が謝ったのは、美咲を傷つけたからではない。妻が消した不始末を、自分で片づけなければならなくなったからだった。美咲はもう、その不始末の中へ戻るつもりはなかった。




