第11話 私が最初に守る人
第11話 私が最初に守る人
離婚が成立したのは、重雄の手術から六か月後だった。二月の朝、家庭裁判所の前には薄い雪が残り、歩道の端で黒く固まっていた。美咲は濃紺のコートに灰色のマフラーを巻き、弁護士から渡された離婚成立の書類を鞄へしまった。
健一とは、手続きが終わるまで一度も二人きりで会わなかった。財産分与、家財の引き取り、車のローン、賃貸契約については、すべて弁護士を通して話し合った。健一は最後まで、車の維持費と家賃の一部を美咲に負担させようとしたが、住み続ける部屋と車を自分で選んだ以上、支払いも自分で引き受けることになった。
裁判所の建物を出ると、健一が階段の下に立っていた。以前より少し痩せ、黒いスーツの肩には細かな埃がついている。クリーニングに出したばかりなのか、薬品のような匂いが風に混じって届いた。
「これで、本当に終わりなんだな」
「はい」
「鈴木さんは元気か?」
「週に三日だけ、工場へ出ています。重いものは持たない約束ですけど」
「そうか」
健一は何か言おうとして、口を閉じた。手にはコンビニの紙袋があり、中から缶コーヒーとおにぎりの包装が見えていた。結婚していた頃、美咲が毎朝握っていた鮭のおにぎりを、健一は座って食べたことがほとんどなかった。
「母さんは、今も美咲のことを言っている」
「どのように?」
「薬のことを聞ける人がいなくなって不便だって」
「病院の薬剤師さんへ相談するよう、最後にお伝えしました」
「父さんが通院へ付き添うようになった。薬の名前をノートに書いているらしい」
「それでいいと思います」
「俺も、ときどき車を出している」
「そうですか」
「もっと早く、そうすればよかったんだろうな」
健一の言葉に、美咲は答えなかった。今になって義両親の用事を自分で引き受けても、手術の日についた嘘が消えるわけではない。けれど健一が、誰かに任せず自分で動き始めたことまで否定する必要もなかった。
「美咲」
「何ですか?」
「七年間、悪かった」
健一は今度こそ、家賃や車、母親の薬について話さなかった。復縁を求める言葉もなかった。美咲は一度だけ頭を下げ、駅へ向かって歩き出した。
その日も美咲は午後から薬局へ出勤した。更衣室で紺色のコートを脱ぎ、白衣へ袖を通した。胸ポケットには黒、赤、青のボールペンを差し、荒れやすい指へ保湿剤を塗った。
「佐藤さん、手続きは終わりましたか?」
後輩の田村が、処方箋の束をそろえながら尋ねた。美咲が終わったと答えると、田村は何と声をかければよいか迷ったらしく、机の上にあった飴の缶を差し出した。中には苺味、みかん味、ハッカ味の飴が混ざっていた。
「お祝いと言っていいのか分からないので、飴をどうぞ」
「ありがとう。では、苺味を一つもらうね」
「それ、最後の一個だったんです」
「返そうか?」
「一度もらったものは返さなくていいです」
美咲は苺味の飴を白衣のポケットへ入れ、調剤室へ向かった。待合室には、杖をついた女性と、小さな子どもの手を握る父親が座っていた。消毒液、湿布、暖房で乾いた衣服の匂いが混ざり、いつもの午後が始まった。
美咲は処方箋を確認し、前回から薬が変更された患者へ飲み方を説明した。薬の名前と服用時間を大きな字で薬袋へ書き、不明な点があれば自己判断で中止せず、薬局へ連絡するよう伝えた。仕事として向き合う患者には、時間と知識を惜しまなかった。
薬局での仕事を終えたあと、美咲は新しい部屋へ帰った。駅から徒歩十分の、一人暮らしには少し広い一LDKだった。玄関には茶色い低い靴と黒い通勤靴が一足ずつ並び、靴箱の上には黄色いガーベラを三本飾っていた。
居間の壁には、白衣を掛けるための木製ハンガーがある。食器棚には青い縁取りの皿、白い茶碗、花柄の湯飲みが一つずつ並んでいた。母の形見の皿は新聞紙から出し、自分が毎日使える場所へ置いた。
引っ越したばかりの頃、美咲は一人分の料理を作りすぎた。味噌汁は三日分になり、肉じゃがは鍋いっぱいに残った。何度か失敗したあと、小さな鍋と小さなフライパンを買い、一人分の量を覚えた。
忙しい日は、駅前の総菜店でコロッケや焼き魚を買った。以前なら、正社員の妻が総菜を食卓へ出すのは手抜きだと健一に言われる気がして、疲れていても料理をしていた。今は、買ってきたアジの南蛮漬けを青い皿へ移し、インスタントの味噌汁を添える日もあった。
「今日は、これで十分」
誰に許可を求めるでもなく、美咲はそう言って食べた。南蛮酢は少し酸っぱく、玉ねぎにはしゃきしゃきした歯触りが残っていた。食べ終えた皿は一枚だけで、洗い物は五分もかからなかった。
時間のある休日には、牛肉と白いんげん豆のトマト煮込みを作った。結婚七周年の朝に仕込んだものと同じ料理だったが、以前使っていた赤い琺瑯鍋ではなく、新居で買った小さな黄色い鍋を使った。玉ねぎを炒める音と、赤ワインを加えたときに立つ甘い匂いが、静かな台所へ広がった。
煮込みを作る日は、健一の帰宅時間を計算する必要がない。自分の腹が減れば食べ、残った分は翌日の弁当にする。味が薄ければ塩を足し、疲れていれば鍋のまま冷蔵庫へ入れた。
日曜日、美咲はトマト煮込みを保存容器へ入れ、重雄の家へ持っていった。玄関を開けると、工場で着た作業着が廊下へ掛けられ、金属と機械油の匂いが残っていた。重雄は台所で、自分の昼食に蕎麦を茹でていた。
「お父さん、今日は工場へ行ったの?」
「午前中だけだ。軽い仕事しかしていない」
「何を持った?」
「ノギスと鉛筆だ」
「材料は?」
「若いのに運ばせた」
「ちゃんと約束を守っているのね」
「俺を子ども扱いするな」
重雄の食卓には、朝の薬を飲んだあとの空袋と、小さな記録帳が置かれていた。血圧、体重、歩いた時間を自分で書き、飲んだ薬には丸をつけている。数字は少し右上がりで、何度か書き直した跡もあった。
「薬は忘れていない?」
「朝の分は飲んだ。夕方の薬は、冷蔵庫に貼った紙に書いてある」
「痛み止めは?」
「昨日の夜に一度だけだ。記録もした」
「完璧ね」
「お前が毎日確認に来たら、俺が覚えないだろ」
重雄は蕎麦をざるへ上げ、冷水で締めた。以前なら水を出しっぱなしにしていたが、その日は途中で蛇口を止めた。美咲が水道代を気にしたのかと尋ねると、一人で暮らすなら節約も仕事のうちだと答えた。
「トマト煮込みを持ってきたよ。夕食に温めて食べて」
「塩は控えたのか」
「お父さん用は薄味にしてあるわ」
「娘が来るたびに、味の薄いものが増える」
「嫌なら、自分で作って」
「食べないとは言っていない」
重雄は保存容器を冷蔵庫へ入れ、自分で賞味期限の日付を書いた付箋を貼った。美咲は手を出さず、その作業が終わるまで椅子へ座って待った。父ができることを奪わないのも、家族を大切にする方法だと分かるようになっていた。
昼食後、二人は近所の公園まで歩いた。冬の終わりの風はまだ冷たかったが、花壇には黄色い水仙が咲いていた。重雄は途中のベンチで一度休み、水筒のほうじ茶を飲んだ。
「新しい部屋はどうだ」
「だいぶ片づいたよ。食器も一人分だけだから、棚が余っているけど」
「広い部屋を借りすぎたんじゃないか」
「お父さんが泊まりに来られるように、少し広くしたの」
「行かないぞ」
「来なくていいけど、来られる場所があると思って」
「家賃は大丈夫なのか」
「薬剤師として働いているから大丈夫。貯金もできているわ」
「無駄遣いはするなよ」
「結婚していた頃より、ずっと支出が少ないの。義実家の手土産も、健一のクリーニング代も、車のローンもないから」
「それなら、たまにはうまいものを食え」
「お父さんもね。塩分は控えて」
重雄はまた塩分の話かと顔をしかめた。公園では、小さな子どもが赤いボールを追いかけ、母親が転ばないよう後ろを歩いていた。美咲はその様子を見ながら、鞄の中に入れた七本のろうそくを思い出した。
帰宅後、美咲は机の引き出しから白い小皿を取り出した。結婚記念日の夜から保管してきた七本のろうそくが並んでいる。火をつけた先端は黒く、溶けた蝋が細く垂れていた。
美咲は一本ずつ手に取り、七年間の出来事を思い返した。誕生日に帰らなかった夜、熱を出しても義母の買い物へ行かされた休日、親戚の食事会で自分だけ席がなかったこと、父の手術中に一人で握っていた冷たいほうじ茶が、順番に浮かんだ。
ろうそくを捨てても、七年間が消えるわけではない。その中には、美咲が選んだことも、笑った日も、仕事を続けて得たものもある。美咲はろうそくを紙へ包み、ごみ箱へ入れた。
翌日の夜、奈緒が新居へ遊びに来た。生成り色のセーターに茶色のロングスカートをはき、引っ越し祝いに小さなコーヒーミルを持ってきた。二人はトマト煮込み、野菜サラダ、焼きたてのパンを食卓へ並べた。
「一人暮らしなのに、ちゃんと料理してるのね」
「毎日ではないわよ。昨日は総菜のコロッケだった」
「それでいいのよ。誰かに合格点をもらうための夕食じゃないんだから」
「そうね。味噌汁を作らない日があっても、誰にも怒られない」
「家事代行は頼まないの?」
「忙しい月は頼もうと思ってる。働いて得たお金で、自分の時間を買うのも悪くないでしょう」
美咲は黄色い鍋から煮込み料理をよそった。白いんげん豆にはトマトの味が染み込み、牛肉はスプーンで崩れるほど柔らかかった。奈緒は一口食べると、赤ワインの匂いがして店の料理みたいだと褒めた。
「これから、どうするの?」
「今までどおり薬剤師を続ける。新人の教育にも、もう少し関わりたいと思ってる」
「再婚は?」
「今は考えていないわ。でも、結婚そのものが悪いとは思っていない」
「健一さんとの七年を、後悔してる?」
「後悔だけではないよ。私が何をされると嫌なのか、誰とどんなふうに暮らしたいのか、ようやく分かったから」
食後、美咲は一人分の食器だけが並ぶ棚を開け、花柄の湯飲みを二つ出した。一つは重雄が新居祝いに持ってきたもので、もう一つは美咲が自分で買ったものだった。奈緒が、この先は自分を後回しにしないよう念を押すと、美咲は温かいほうじ茶を注いだ。
「私は夫と同じだけ働き、家では夫の二倍働いていた。それでも最後に回されていたの。だからこれからは、私が稼いだお金も、私が使える時間も、まず私の人生のために使うわ」




