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第4話 父の弁当

第4話 父の弁当


 月曜日の朝、美咲が薬局へ着くと、自動ドアの前にはすでに五人の患者が並んでいた。八月の強い日差しを避けるため、建物の細い影へ体を寄せている人もいれば、処方箋を団扇代わりにしている人もいた。美咲は白いブラウスの背中に浮いた汗をハンカチで押さえ、急いで職員用の入口から中へ入った。


 更衣室で白衣へ着替え、長い髪を後ろで一つに束ねた。白衣の胸ポケットには黒、赤、青のボールペンと細い油性ペンを差し、腰のポケットには小さなメモ帳と印鑑を入れた。鏡には目の下の薄いくまが映っていたが、美咲はファンデーションを塗り直す時間もなく、調剤室へ向かった。


「佐藤さん、おはようございます。今日は朝から多いですね」


「総合病院が休み明けだからね。冷房を少し下げましょう。外で待っていた人は体が熱くなっているから」


「分かりました。あ、それから昨日、発注した軟膏が届いています」


「ありがとう。開局前に数を確認しておくわ」


 美咲は納品された薬の箱を開け、伝票と数量を一つずつ照らし合わせた。机の端には前日の担当者が飲んだ紙コップが残り、底には乾いたコーヒーの輪がついていた。美咲はそれを捨て、アルコールを含ませた布で机を拭いてから、午前九時に自動ドアの鍵を開けた。


 午前中は処方箋が途切れなかった。血圧の薬を受け取りに来た高齢者、熱を出した子どもを抱く母親、検査を終えて疲れた顔で椅子に座る男性が、次々に受付を訪れた。美咲は処方内容を確認し、薬をそろえ、別の薬剤師と一緒に錠数を数え直した。


「佐藤さん、この患者さん、二つの病院から同じ成分の薬が出ています」


 後輩の田村が、お薬手帳と二枚の処方箋を持ってきた。美咲は服用開始日を確認し、総合病院の医師へ連絡した。処方は重複しており、一方を中止するよう訂正された。


「見つけてくれてありがとう。患者さんへ、今日はどちらを飲まないのか、袋にも大きく書いて説明しましょう」


「もし気づかなかったら、二倍飲んでいたかもしれませんね」


「だから、分からないときは止まるの。急いで渡すことより、間違えずに渡すほうが大事だから」


 そう言いながら、美咲は自分の指先を見た。何度も手洗いと消毒を繰り返したため、親指の付け根は白く粉を吹き、昨夜塗った保湿剤もすっかり落ちていた。義実家で海老の殻をむいたときにできた小さな傷は、曲げるたびに赤く開いた。


 十二時半を過ぎ、午前中の患者がようやく少なくなった。美咲が受付横の棚を整理していると、自動ドアの向こうに、灰色の作業着を着た男が立っているのが見えた。右手には紺色の布で包んだ弁当箱を持ち、左手には使い込んだ革の鞄を下げている。


「お父さん?」


 重雄は帽子を脱ぎ、短く刈った白髪を手で撫でた。六十二歳になっても町工場へ出る日は必ず作業着を着ており、袖口には金属を削った細かな粉が残っている。美咲が窓口から出ていくと、重雄は邪魔をして悪かったと言いながら弁当を差し出した。


「近くの会社へ部品を届けに来た。朝、少し作りすぎたから持ってきただけだ」


「ここまで歩いてきたの? 暑かったでしょう」


「十分くらいだ。これしきでへばるほど年寄りじゃない」


「顔が赤いわよ。中へ入って。麦茶くらい出すから」


「患者さんの椅子を使ったら悪いだろ」


「今は空いているから大丈夫。昼休みも近いし、少し待っていて」


 重雄は遠慮しながら、待合室の端へ腰を下ろした。美咲は冷水機から紙コップへ水を入れ、父の前へ置いた。重雄は一口飲んだあと、胸元に手を当ててゆっくり息を吐いたが、美咲が振り返る前に手を膝へ戻した。


「お父さん、本当に大丈夫?」


「外が暑かっただけだ。それより、仕事中に騒ぐな」


「倒れられたほうが困るの」


「娘が薬剤師だと、ちょっと息をついただけで患者にされるな」


 重雄はそう言って笑ったが、紙コップの水を飲み干すまで、いつもより時間がかかった。美咲は血色と呼吸の様子を確かめたものの、本人が大丈夫だと言い張るため、昼休みにもう一度話を聞くことにした。受付へ戻ると、重雄は娘が働く姿を黙って眺めていた。


 美咲は高齢の女性を服薬指導の席へ案内した。女性は持ってきた薬の袋を全部広げ、朝に飲む薬と夕方に飲む薬が分からなくなったと話した。美咲は一包ずつ日付を確認し、朝、昼、夕方に分けた箱を用意した。


「この青い印が朝です。赤い印は夕食のあとにしてください」


「昨日、朝の薬を二回飲んだかもしれないのよ」


「今、具合の悪いところはありませんか?」


「少しふらふらしたけど、今日は大丈夫」


「次に分からなくなったときは、飲む前に電話をしてください。ご家族にも、薬の置き場所を伝えておきましょう」


 美咲は説明を繰り返し、女性が自分の言葉で飲み方を言えるようになってから薬を渡した。重雄は待合室でその様子を見ており、女性が帰ると、作業着の胸ポケットから小さな手帳を出した。部品の寸法や納期を書くための手帳だったが、その日は何も書かずにまたしまった。


「父さん、休憩に入ります」


 美咲は白衣を着たまま、重雄を薬局の奥にある小さな休憩室へ案内した。室内には丸いテーブルと椅子が四脚あり、流しの横には職員が持ってきた菓子の空箱が積まれていた。冷蔵庫の扉には、誰のものか分からないプリンへ「食べないでください」と書いた付箋が貼られていた。


「狭いところだけど、座って」


「町工場の休憩所より立派だ。冷房も効いている」


「お父さんの工場は、まだ古い扇風機を使っているの?」


「新しいのを買ったぞ。首が回るやつだ」


「扇風機は普通、首が回るでしょう」


「前のは回らなかったんだ。針金で正面に固定して、二十年使った」


 重雄は弁当包みをほどき、二段の弁当箱を美咲の前へ置いた。上の段には俵形のおにぎりが三つ入り、下の段には甘い卵焼き、里芋とにんじんの煮物、焼いたウインナー、きゅうりの浅漬けが詰められていた。卵焼きは太さがそろわず、端の一切れだけ焦げている。


「お父さんが作ったの?」


「俺以外に誰が作るんだ。隣の奥さんが勝手に入って作ったとでも思ったか」


「こんなにきれいに詰められるようになったのね」


「弁当箱に入れただけだ。きれいも汚いもない」


「卵焼き、少し上手になったね」


「少しは余計だ。砂糖も昔より控えたぞ」


 美咲は卵焼きを一つ口へ入れた。重雄の言葉とは反対に、砂糖はしっかり入っており、噛むと懐かしい甘さが広がった。子どもの頃の遠足でも、母が寝坊した朝には重雄が同じ卵焼きを作り、焦げた面を内側へ巻いて隠していた。


「お母さんが作った卵焼きより甘かったよね」


「あいつは砂糖をけちっていたんだ」


「健康を考えていたのよ」


「お前は母親の味方ばかりするな」


「だって、お母さんはお父さんの血圧を気にしていたもの」


 美咲が笑うと、重雄も口元を緩めた。しかし美咲が箸を持つ手を見た途端、重雄の眉が寄った。親指の付け根には小さな傷があり、手の甲には乾燥による細い線が何本も走っていた。


「その手、どうした」


「消毒のしすぎ。薬局では何度も手を洗うから」


「ここだけじゃないだろ。この傷は切れてるぞ」


「土曜日に海老の殻をむいたの。少し刺さっただけだから大丈夫」


「家で海老なんか食べたのか」


「健一の実家で親戚の食事会があったのよ。天ぷらを作ったから」


「仕事が終わってからか?」


「うん。でも、海老の下処理と料理と片づけをしただけよ」


「それを『だけ』と言うのか」


 重雄は弁当箱の蓋を閉めるように、ゆっくり両手を重ねた。美咲は鞄から小さな保湿剤を取り出し、荒れた指へ塗り込んだ。無香料のはずだったが、薬局の消毒液と混ざると、わずかに苦い匂いがした。


 そのとき、テーブルに置いた美咲のスマートフォンが震えた。画面には和子の名前と、「この薬は朝と夜のどちらに飲むの」という文章が表示された。続けて薬の包装を撮影したぼやけた写真が二枚届いた。


「仕事の連絡か?」


「お義母さん。薬の飲み方が分からないんだって」


「処方されたときに説明を受けただろ」


「聞いても忘れてしまうみたい」


 美咲は写真を拡大したが、薬の名前が途中で切れており、用法を確認できなかった。処方箋の控えか薬袋を撮影するよう返信すると、すぐに「今、出先だから手元にない」「薬剤師なら写真で分かるでしょう」と返ってきた。さらに、次の診察日を調べてほしい、病院へ予約の電話をしてほしい、帰りに湿布を買ってきてほしいというメッセージが続いた。


「ずいぶん鳴るな」


「いつものことよ。お義母さん、薬の名前を覚えるのが苦手だから」


「病院の予約まで、お前がするのか」


「電話が混んでいると嫌になるらしいの。私なら昼休みにできるでしょうって」


「お前の昼休みは、そのためにあるのか?」


 美咲は返事をせず、冷めかけた卵焼きを小さくかじった。重雄はテーブルの上で何度も光るスマートフォンを見た。画面には今度は「買い物のついでに血圧計の電池もお願い」と表示されていた。


「お前、薬局でも人の薬を見て、家へ帰ってからもあちらの薬を見ているのか」


「お義母さん、一人では不安なんだと思う」


「健一君は何をしている」


 美咲は箸を止めた。健一は母親から薬について聞かれると、専門家である美咲に聞けばいいと言う。通院の予約や買い物を頼まれれば、美咲のほうが勤務先から近い、女性同士のほうが話しやすいと理由をつけた。


「健一は会社が忙しいから」


「お前は仕事をしていないのか」


「そういう意味じゃないの」


「給料だって、同じくらいだと言っていたな」


「うん」


「なら、なぜお前だけが、仕事のあとまで働いている」


 美咲は答えられず、里芋の煮物を半分に割った。重雄の煮物は醤油が少し濃く、中心まで色が染みていた。口へ運んでもなかなか飲み込めず、麦茶を一口飲んだ。


「家族だから、できる人がすればいいと思っていたの」


「できる人間には、何を頼んでもいいのか」


「お義母さんも悪気があるわけじゃないのよ」


「悪気がなければ、相手を使い潰してもいいのか」


「使い潰すなんて、大げさよ」


「じゃあ、なぜそんな顔をしている」


 重雄の声は大きくなかった。しかし美咲は、笑ってごまかすことができなかった。食事会で席がなかったこと、薬を見ろと迫られたこと、SNSへ書いたら健一から家の恥をさらすなと怒鳴られたことを、少しずつ話した。


 重雄は途中で口を挟まなかった。膝の上に置いた帽子のつばを、節の太い指で何度もなぞっていた。美咲が話し終えると、休憩室の冷蔵庫が低い音を立て、誰かが置いたスプーンが扉の振動で小さく鳴った。


「投稿したことは、軽率だったと思ってる。公開は止めたの」


「そこを聞いているんじゃない」


「でも健一は、会社の人に知られたら自分の信用に関わるって」


「自分がしていることを知られて信用を失うなら、悪いのは話した人間か、した人間か」


「お父さんまで健一を悪く言わないで」


「俺はまだ悪く言っていない。お前から聞いたことを並べただけだ」


 重雄は弁当箱の端に落ちたご飯粒を指で拾った。職人として働いてきた太い指には、小さな火傷の痕や古い切り傷が残っている。美咲はその手が、子どもの頃には大きすぎて、握ると自分の手が隠れたことを思い出した。


「お父さんに心配をかけたくなかったの」


「心配をかけたくないと言って黙るのは、お前の母親と同じだ」


「お母さんも?」


「あいつは我慢してから笑う癖があった。体調が悪くても、俺が忙しそうだからと言わなかった」


「でも、お父さんとお母さんは仲がよかったでしょう」


「仲がよくても、相手の我慢に気づかなければ駄目なんだ。俺は今でも、もっと早く聞けばよかったと思っている」


 重雄は帽子を持って立ち上がったが、すぐにテーブルへ片手をついた。顔から血の気が引き、作業着の胸元を押さえた。美咲も立ち上がり、父の腕を支えた。


「お父さん、どうしたの?」


「急に立ったから、少しくらっとしただけだ」


「胸を押さえたでしょう。痛いの?」


「痛いというほどじゃない。重たい感じがするだけだ」


「いつから?」


「このところ、階段を上るとな。今日も病院へ行ってきた」


「病院?」


 重雄はしまったという顔をし、椅子へ座り直した。弁当を届けに来たのは、部品の配達だけが理由ではなかった。朝から総合病院で心電図と血液検査を受け、その帰りに美咲の薬局へ寄ったのだという。


「どうして言わなかったの?」


「まだ結果が出ていない。余計な心配をさせても仕方ないだろ」


「さっき、自分で何と言ったの。心配をかけたくないと言って黙るのは、お母さんと同じでしょう」


「言い返すようになったな」


「誰の娘だと思っているの」


 美咲は父の脈を確かめ、胸の重さが続くなら、すぐに病院へ戻ると告げた。重雄はもう治まったと主張したが、美咲は仕事中の薬剤師ではなく、娘として譲らなかった。薬局長へ事情を説明しようと立ち上がったとき、重雄の携帯電話が鳴った。


 画面には総合病院の代表番号が表示されていた。重雄が電話に出ると、循環器内科の看護師から、検査結果について医師から説明したいので、できれば今日中に戻ってきてほしいと告げられた。重雄は短く返事をし、電話を切った。


「ただの運動不足だろう。最近、腹も出てきたからな」


「それなら病院から呼び戻されないわ」


「仕事はどうする」


「薬局長に相談する。お父さんを一人で帰せるわけがないでしょう」


「患者さんが待っているんじゃないのか」


「私が一人抜けても、今日はほかに三人いるわ。家族なら、できる人がすればいいんでしょう?」


 重雄は何も言い返せず、帽子を被り直した。美咲は弁当箱の蓋を閉め、食べ残した卵焼きと煮物を冷蔵庫へ入れた。白衣のポケットから何本ものペンを抜き、机の上へ並べると、荒れた手へもう一度保湿剤を塗った。


 美咲は薬局長の許可を得て白衣を脱ぎ、父と一緒に総合病院へ向かった。外へ出ると、昼の熱気が二人の頬へ当たり、道路の向こうでは救急車が入口へ入っていくところだった。重雄はいつもの速さで歩こうとしたが、美咲は父の腕をつかみ、ゆっくりでいいと何度も言った。


 循環器内科で追加の説明を受けた結果、重雄の心臓へ血液を送る血管に、強く狭くなっている部分が見つかった。詳しい検査が必要で、状態によっては手術を受けることになると医師から告げられた。重雄は検査の日程表を見ながら、工場の納期をどうするかばかり気にしていた。


「部品なら、ほかの工場へ頼めるでしょう」


「長く付き合っている客だ。簡単に渡せる仕事じゃない」


「お父さんが倒れたら、仕事そのものができなくなるのよ」


「分かってる。大きな声を出すな」


「分かっている人は、胸が苦しいのを黙って一人で病院へ来たりしないの」


 美咲が言うと、重雄は診察券を財布へしまいながら目をそらした。財布の透明なポケットには、亡くなった母と美咲が一緒に写った古い写真が入っていた。角が擦れて白くなっていたが、十年以上たっても取り出されずに残っていた。


 病院を出たところで、美咲のスマートフォンがまた震えた。和子から「病院の予約は取れましたか」「湿布も忘れないで」というメッセージが届いていた。続けて健一から、「母さんが待っているから、昼休みに電話くらいできるだろ」と送られてきた。


 重雄は娘の手元へ視線を落としたが、何も尋ねなかった。美咲は画面を閉じ、父の検査日程を自分の予定表へ入力した。薬局へ戻る前に、二人は病院の売店で温かいほうじ茶を一本ずつ買った。


「美咲」


「何?」


「困ったときは帰ってこい」


「まだ何も決まっていないわ。健一にも、ちゃんと話してみるから」


「離婚しろと言っているんじゃない。帰ってこられる場所はあると言っている」


「お父さんは自分の心配をして。まず検査でしょう」


「お前も同じだ。人の薬より先に、自分の暮らしを見ろ」


 重雄はほうじ茶の蓋を開け、一口だけ飲んだ。美咲は笑って受け流そうとしたが、口元がうまく動かなかった。代わりに父が作った弁当の包みを胸へ抱え、薬局までの道をゆっくり歩いた。


 その夜、帰宅した美咲は食べ残した卵焼きを電子レンジで温めた。少し温めすぎて端が固くなったが、砂糖の甘さは昼と変わらなかった。健一は会社からまだ帰っておらず、食卓には朝に飲んだコーヒーのカップが置かれたままだった。


 美咲は小さな手帳を開き、父の検査日と、医師から聞いた内容を書き込んだ。その下へ、父から言われた言葉も記した。『困ったときは帰ってこい。帰ってこられる場所はある』と書くと、ペン先が紙の上でしばらく止まった。


 スマートフォンには、和子からの不在着信が三件残っていた。美咲はすぐには折り返さず、父の弁当箱を洗った。蓋の隅には卵焼きの小さな欠片が残っており、美咲はそれを指で取り、水道の水をゆっくり流した。



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