第3話 家の恥を作ったのは誰ですか
第3話 家の恥を作ったのは誰ですか
義実家から帰った翌朝、美咲は午前六時に目を覚ました。カーテンの隙間から白い朝日が差し込み、床には健一が昨夜脱いだ短パンと片方だけの靴下が落ちていた。美咲は薄い水色のパジャマのまま台所へ行き、冷蔵庫に残っていたトマト煮込みを小鍋へ移した。
食卓の上には、昨夜使った小さな手帳が開いたまま置かれていた。八月八日の欄には、義実家で料理と片づけをさせられ、食事の席もなく、薬の無料相談を断ったら役に立てと言われたことが書いてある。美咲は麦茶をコップへ注ぎ、その一行を読み返した。
トマト煮込みが温まるまでの間、美咲はスマートフォンを手に取った。普段使っている実名の交流サイトではなく、料理や仕事の愚痴を書くために作った匿名のアカウントを開いた。フォロワーは百人ほどで、勤務先や家族の名前、住んでいる場所は一度も書いたことがなかった。
投稿欄へ文字を打ち始めると、昨夜の油の匂い、流しの横へ置かれた小さな茶碗、白いブラウスへ跳ねた染みが次々と浮かんだ。美咲は一度すべて消し、朝食用の器へ煮込み料理をよそった。赤いスープの表面には牛肉の脂が丸く浮いていたが、健一が起きてくる気配はなかった。
「これくらい、書いてもいいよね」
美咲は誰もいない食卓でつぶやき、もう一度投稿欄を開いた。夫や義母の名前は書かず、勤務先も場所も伏せたまま、昨夜の出来事を短くまとめた。最後の送信ボタンを押す指は、薬の数を確認するときよりも長く止まっていた。
『結婚記念日の翌日も妻をこき使う夫と義実家。薬剤師の資格を「無料の相談窓口」「家政婦」扱いされ、食事の席すらない冷遇に限界を迎えた夜、妻は自分の尊厳を守るための記録を静かに刻み始める――。』
投稿した直後、美咲はスマートフォンを伏せた。鍋の底では、残った豆が小さな音を立てて煮えていた。自分の家庭のことを外へ書いたという事実が喉に引っかかり、温め直した料理を口へ運んでも、トマトの酸味ばかりが強く感じられた。
十分ほどすると、スマートフォンが何度も震え始めた。知らない人から「それは家族ではなく、無償労働者として扱われています」「食事の席もないのはおかしい」「薬剤師に薬を見せれば何でも分かると思うのは危険」という返信が届いていた。なかには、服用中の薬は必ず医療機関へ相談するべきだと書く看護師や薬剤師もいた。
『あなたが冷たいのではありません。責任を持てない薬について答えなかったのは、専門職として正しい対応です』
その返信を読んだとき、美咲は荒れた指先でコップの縁をなぞった。昨夜、和子と健一から融通が利かないと責められたため、自分の対応が本当に正しかったのか、何度も考えていた。知らない相手の短い言葉だったが、白衣を着て患者へ説明してきた自分まで否定する必要はないのだと思えた。
午前八時を過ぎた頃、健一が寝室から出てきた。黒いTシャツと灰色のスウェットを着ており、髪は片側だけ潰れていた。冷蔵庫を開けると、残っていたケーキの箱を取り出し、朝食代わりに食べようとした。
「コーヒーないの?」
「今日は淹れていないわ。飲むなら自分でお願い」
「昨日、遅くまで母さんを手伝ったから疲れてるんだよ」
「あなたは座敷で飲んでいたでしょう」
「親戚の相手も疲れるんだ。伯父さんは同じ話を何度もするし、酒がなくなるたびに注がなきゃならないし」
「私は薬局で働いたあと、料理をして、皿を洗って、食事も立ったまま二口だけだったわ」
「またその話か。母さんだって忙しかったんだから仕方ないだろ」
健一はケーキを皿へ移さず、箱に入ったままフォークを刺した。七粒あった苺は二粒しか残っておらず、チョコレートの記念日プレートは端が割れていた。美咲は健一の向かいへ座らず、洗濯機へ昨夜のブラウスと紺色のパンツを入れた。
午前中、美咲は掃除機をかける代わりに、汚れた白いブラウスを洗面器へつけ置きした。海老を揚げたときについた油染みへ洗剤を塗り、古い歯ブラシで何度もこすった。健一はソファに寝転び、スマートフォンで動画を見ていた。
「昼飯、どうする?」
「冷蔵庫にトマト煮込みがあるわ」
「またあれかよ。もう三日目だろ」
「食べたくなければ、自分で作るか買ってきて」
「妻に飯を頼んだだけで、その言い方はないだろ」
「夫に食事の席を頼んでも、用意してもらえなかったけれどね」
健一は舌打ちし、財布を持って近所のコンビニへ出かけた。玄関の扉が閉まると、部屋に洗濯機の回る音だけが残った。美咲はベランダに干してあったタオルを取り込み、乾いたものから端をそろえて畳んだ。
昼過ぎ、投稿には五百件を超える反応がついていた。美咲のアカウントでは、これまで料理の写真に十件ほど反応があれば多いほうだった。急に増えた通知へ戸惑いながら画面を見ていると、薬局で一緒に働いていた元同僚から個別のメッセージが届いた。
『これ、美咲さんのことではないですよね。文章の癖が似ていたので心配になりました。違っていたらごめんなさい』
美咲はすぐに否定しようとしたが、指が動かなかった。元同僚は健一とも一度だけ会ったことがあり、結婚式では同じテーブルに座っていた。美咲が返信を迷っているうちに、コンビニの袋を持った健一が帰宅した。
「冷やし中華とおにぎりを買ってきた。箸をくれ」
「袋に入っていないの?」
「店員が忘れたんだよ。気が利かないな」
「食器棚の一番上にあるわ」
「取ってくれればいいだろ。近くにいるんだから」
美咲は黙ったまま食器棚を指した。健一は自分で割り箸を取り出し、冷やし中華の蓋を開けた。酢の匂いが広がり、テーブルには剥がした透明なフィルムと、こぼれた紅しょうがが残された。
健一のスマートフォンが鳴ったのは、それから十分ほど後だった。画面には大学時代の友人・中村の名前が表示されていた。健一は冷やし中華をすすりながら電話へ出たが、すぐに箸を止めた。
「何だよ、急に。……薬剤師の妻? 食事の席がない? 何の話だ」
美咲の背中に、エアコンの冷たい風が当たった。健一は通話を続けながら、眉間へ深いしわを寄せていった。友人から投稿の画像を送られたらしく、電話を切るとすぐにメッセージ画面を開いた。
「おい、美咲」
「何?」
「これは何だ」
健一はスマートフォンを美咲の前へ突き出した。画面には、朝に投稿した文章の画像が表示されていた。アカウント名は消されていたが、結婚記念日、薬剤師、義実家、食事の席という言葉が並んでいる。
「私が書いたものよ」
「お前、頭がおかしいんじゃないか?」
「名前も住所も書いていないわ」
「そういう問題じゃない! 中村には俺の妻が薬剤師だと知られているんだぞ。結婚記念日の翌日だって書けば、俺たちのことだと分かるだろ!」
「それを中村さんが見つけたの?」
「誰かが面白がって広めたんだよ。もう何千人も見ているじゃないか!」
健一は椅子を引く勢いで立ち上がった。食卓が揺れ、冷やし中華の汁が容器からこぼれた。酢醤油の茶色い染みが、結婚祝いでもらった白いテーブルクロスへ広がった。
「すぐに消せ。今すぐだ」
「どうして?」
「家の恥をネットにさらすな!」
「恥になることをした自覚はあるのね」
「俺が何をしたっていうんだ! 母さんの手伝いを頼んだだけだろ!」
「仕事を終えた私に料理と片づけをさせた。親戚の前で薬を見ろと言った。断ったら役に立てと言った。私の食事の席もなかった」
「大げさに書くなよ。飯なら台所にあっただろ!」
「流しの横に置かれた小さな茶碗で、立ったまま二口食べただけよ」
「それを『食事の席すらない』なんて書けば、俺たちが嫁いびりをしたみたいじゃないか!」
「していないなら、何と呼ぶの?」
健一は答えず、テーブルを強く叩いた。空になった麦茶のコップが倒れ、氷が床へ落ちた。美咲はそれを拾わず、健一の顔を見た。
「家族のことをネットに書くなんて最低だ。会社の人間に知られたら、俺の信用に関わるんだぞ」
「私の信用は?」
「何の話だよ」
「親戚の前で、薬剤師なら分からない薬でも答えろと言ったでしょう。私が適当に答えて何か起きたら、薬剤師としての信用を失うのは私よ」
「伯父さんの相談くらい、うまく答えれば済んだだろ」
「私は薬剤師だから、分からないものを分かったふりはしない」
「また資格を盾にするのか。家族なら融通を利かせろよ」
「家族なら、私の仕事を軽く扱っていいの?」
美咲の問いに、健一は唇を歪めた。返事の代わりに美咲のスマートフォンを取ろうと、テーブル越しに手を伸ばした。美咲はすぐに端末を胸元へ引き寄せた。
「貸せ。俺が消す」
「私のものよ。触らないで」
「夫婦なんだから、見られて困るものなんてないだろ」
「それなら、あなたのスマートフォンも見せて。昨日、本当に部長と何時まで一緒だったのか確認するから」
「今はその話をしていない!」
「都合の悪いときだけ、話を分けるのね」
健一の顔がさらに赤くなった。すると今度は、和子から美咲のスマートフォンへ電話がかかってきた。健一が友人へ何か話し、その友人から親戚へ伝わったのか、画面には義母の名前が何度も点滅していた。
「出ろよ。母さんにも謝れ」
「なぜ私が謝るの?」
「親戚に知られたら、母さんが笑われるだろ!」
「私は昨夜、親戚の前で食事の席も与えられなかったわ。私がどう見られるかは気にならなかったの?」
「嫁が台所を手伝うのは普通だ!」
「それが普通なら、ネットに書かれても恥ずかしくないはずでしょう」
健一は口を開いたが、言葉が出なかった。着信が切れると、すぐに和子からメッセージが届いた。『健一から聞きました。今すぐ投稿を消して、親戚全員に謝りなさい』と書かれている。
美咲は画面を伏せ、白いテーブルクロスを外した。冷やし中華の汁が染み込み、裏側まで茶色くなっていた。洗濯機で落ちるか分からなかったが、今すぐ洗わなければ染みが残る。
「私は名前を書いていない。写真も載せていない。誰の家か分かったのは、書かれていることが事実だからでしょう」
「とにかく消せ。消さないなら、俺にも考えがある」
「考えって何?」
「母さんのところへ行って、きちんと謝るまで家に入れない」
美咲はテーブルクロスを両手で持ったまま、健一を見た。家賃も生活費も夫婦でほぼ半分ずつ負担し、家具や家電の多くは美咲の給与で購入している。その家から自分を追い出せると、健一は疑いもせずに考えていた。
「ここは、あなた一人の家ではないわ」
「夫に恥をかかせた妻が偉そうに言うな!」
「あなたは、私が何をされたかではなく、それを他人に知られたことに怒っているのね」
「当たり前だろ。家庭の問題は家庭の中で解決するものだ」
「昨日、私が嫌だと言ったとき、あなたは聞かなかったでしょう」
「母さんの前で騒ぐなと言っただけだ」
「家では我慢しろ。義実家では母さんに恥をかかせるな。ネットでは書くな。それなら私は、どこで口を開けばいいの?」
健一はまたテーブルを叩こうとしたが、途中で手を止めた。美咲は濡れたテーブルクロスを洗面所へ運び、洗濯機へ入れた。洗剤を量る手は細かく震えていたが、蓋を閉めると、いつもどおり標準コースのボタンを押した。
居間へ戻ると、健一はソファで和子へ電話をしていた。美咲が反省していない、知らない人間に家族を悪者として売った、自分の立場をまるで考えていないと訴えている。和子は受話口の向こうで、「やっぱり仕事を持つ嫁は我が強い」と大きな声で答えた。
美咲は食卓の手帳を開いた。昨日の記録の下へ、今日の日付を書いた。健一は電話をしながら美咲をにらんだが、美咲はペンを止めなかった。
『匿名のSNSへ義実家での出来事を投稿。健一は内容を謝らず、「家の恥をさらすな」「投稿を消せ」「母へ謝れ」と要求。私の携帯を取り上げようとした。家から追い出すとも言った』
書き終えると、美咲は投稿を削除せず、公開範囲だけを自分以外には見えない状態へ変更した。さらに投稿画面と返信、和子から届いたメッセージを画像として保存し、自分だけが使う保管先へ送った。感情に任せて書いた文章を広げ続けるつもりはなかったが、起きたことまで消すつもりもなかった。
「消したのか?」
「公開は止めたわ」
「最初からそうすればよかったんだ。母さんにも謝っておけよ」
「削除はしていない。記録として保存したの」
「何のために?」
「私がまた『そのくらい普通だった』と思い込まないためよ」
洗濯機が回り始め、水の流れる音が洗面所から聞こえた。白いテーブルクロスについた染みが落ちるかどうかは、洗い終わるまで分からない。けれど美咲は、自分に残された染みまで、健一の都合に合わせて見えないことにするのをやめた。




