辺境の地 ニヴェリア 6
ジュンは焼き菓子を一つ摘んで口に運んだ。バターの香りとジャムの甘みが胃ではなく脳に染み渡る。
甘みを感じてほっとしている様子を見て、クレージュが言葉をかけた。
「昼食、抜いていそうだな。体調を崩さないように気をつけろよ」
「善処するよ」
元から決まっていたような返事の運びが、日常で言われていて直す気がないのだと知れる。レオンハルトもそうだったが、上に立つ者はどうにも自分の事は後回しにする人間が多いとクレージュは思った。
「そういえば、午前中に町で初めて見た軽食を食べたよ。厚いパン生地の中に細かい肉や野菜を入れて蒸した…なんて言ったかな」
「カルネだな。あれは元々俺たちがよく食べていたものなんだ」
「そうだったのか」
「まともな食事を作るのが得意な子供なんて、あまりいないからな。誰かがパンに好きな具材を挟んで温めたのが始まりだったと思う。簡単で応用が効くから、しばらく新しい味を生み出すのが流行ったな。そのうちに蒸して食べることが増えた。手も汚れにくいし食べ易いだろ」
「確かに、忙しい時にも良さそうだったな」
「手軽で腹も満たされるから、鉱山の方でも好評らしい。俺たちからすれば安上がりで都合のいい食べ物って認識だったから、喜んで食べられているのは少し不思議な感じだ」
「調理に通常の道具を使っていたみたいだけど、美味しくできてたよ」
「あえて魔道具じゃない道具を使うのが新鮮で楽しいそうだ。魔法の方が色々楽そうなのにな」
二口目はゆっくりコーヒーを味わったジュンの表情が嬉しそうで、クレージュも釣られて表情を緩めた。
午前中に町に出て色々な場所に立ち寄ってみたが、領主の悪い噂を聞く事はなかった。新しい顔も増えていたし、二つの文化が時間をかけて上手く解け合っていっているようだ。
「お前の方こそ体調はどうだ?髪色以外の変化は?」
「特に自覚症状はないかな」
「魔法使いは歳をとると魔力が弱るというより、複雑な魔法自体が上手く構成できなくなるらしいが、精霊の力はどうなんだ?」
「前例も少ないし、正直よくわからないんだ。最近は風の力を使う事も減ったから、変化を比べる事もできなくて」
クレージュは適温になったコーヒーを飲んで、言葉を続ける。
「でもそうだな、もう風竜召喚はないかな」
「どうしてだ?」
「その力を借りようと思うほどの状況にはない、という感じだな。風だけで十分」
クレージュが少し開いた左手から緩い風が生まれた。小さく巻き上がった風はクレージュの髪を揺らして立ち消える。
「それだけ今が平和って事だと思うよ」
少し微笑んでいるような口角を上げた表情は、いつものクレージュの表情だ。大体の人間は、この温和な雰囲気の裏を見ることが出来ない。けれど、今生きている中で一番長い時間を共にしたジュンは違う。
元々明敏なので気を緩めていると、嫌なところで見抜いてくる。
「でもお前は詰まらなさそうだよな」
「そんな事はないよ。今はどこにいっても皆が幸せそうに笑っているから、こっちも幸せな気分になる」
「俺はさ、お前が他人の幸せを喜んでるところは飽きるほど見たんだが、お前の幸せを噛み締めてるところを見た事ないんだよな。……ここ何年か、旅先での出来事を話さなくなったよな、お前。人と深く絡む事をやめただろ」
自分を真っ直ぐ見てきたジュンの断言に、クレージュが返事をする間もなく、言葉が続く。
「人間と絡まないと人間は死ぬぞ。心臓が止まるって意味合いじゃない。存在意義の話だ」
窓が風に押されて僅かに音を立てた。音に目を向けると、いつの間にか外は荒れて白一面の景色になっていた。
ジュンに視線を戻して穏やかに返事をする。
「俺は今、余生で本当の縛られない自由を満喫してるんだよ」
「何が余生だよ。いつ終わるかも分からないんだ、今が余生かどうかもわからないだろ」
「まぁ色々落ち着いた頃合いって意味だよ。ところで、今回はお土産というか、贈り物があるんだ」
クレージュは鞄から箱を三つ出して机に置いた。
長辺十五センチ程の箱が二つと、手に乗るサイズの小箱が一つ、どちらも大きくはないがしっかりした作りの物だ。
そのうち真ん中にある小さい箱をジュン側に少し押し出す。
「これがジュンの分。後の二つはジンとマコトの分だ」
「あいつらの・・・?」
「二人の分は中に仕様書を付けてあるから、このまま渡して貰えると助かる」
クレージュが名前を出した『ジン』『マコト』の二人は、子供の頃からジュンの側近をしている双子だ。
もちろんクレージュとも親しいので大抵は直接渡している。わざわざここで出すという事は、正式にジュンを通して渡すべき品だという事だ。
彼らは武器を取る役目にいるので、中身はなんとなく予想がついた。
問題はこちらだ。とジュンは小箱を見る。
「良い予感がしないんだが、中身を聞いてもいいか?」
とんとん、と、箱を指で軽く叩くジュンに、クレージュは口角を上げた。
「ジュンのは風の精霊石だ」
「呪いのアイテムだな」
準備が出来ていたと言わんばかりの間髪入れない返事にクレージュは軽く吹き出した。
「これをそう呼ぶのはお前くらいだよ」
ジュンの方に向けた箱を開封する。
中には、晴れ渡る冬空色の宝石がついたペンダントが収まっていた。宝石をつなぐ細い鎖にも同じような石が細かく散りばめられていて、燭台の灯りを美しく反射している。
ジュンには魔法力はない、ないが、鉱山を持つニヴェリアの領主となって短くない。
掘り出された一級品の宝石に魔法を込めたとしても、こんなに存在感は出ない。予想を上回る中身に、息を飲む。
「これ一体何の、いや、お前、どれだけ時間費やして…」
言葉にしたい思いと疑問が次々と湧いてくる。
どんな魔法を込めてもこの色は出ない。そもそも魔法力に特定の色など無いが、この色は陽の光を受けて風に揺られる風竜の騎士の髪色を思い出させる。
クレージュしか持たない色だ。
普通に贈り物というには過ぎる一品だ。
これはまるでーーー
数秒の間に思考が導き出そうとした答えに辿り着きたくなくて、ジュンは考えることを遮断した。
黙ってしまったジュンに、クレージュが言葉をかける。
「これに関しては、俺の力ほぼ純度100%だ。あんまり深く考えずに、お守りみたいなものだと思って貰えると嬉しいんだけど」
この世に己にしか無い能力の結晶。
死期が近いかもしれない存在からの
ーーーそれはまるで形見だ。
そう思ってしまった直後、ジュンの中で考えるより早く感情が走った。
「っ・・・やめろよそういうの!」
ジュンは歯噛みした後テーブルに身を乗り出してクレージュの襟を掴み引いた。
「何だよお前!生きるの辞める準備してんじゃねえよ!ふざけんな!!スカイゲートを出たのも、一人でいるのも、お前が選んだんだろう!一人で勝手に怖気付いてんじゃねぇよ!」
ジュンが初めて感情をむき出しにした瞬間だった。更にクレージュの襟を引いて、だが今度は言いかけた言葉をグッと飲み込んだジュンは、力を緩め俯くと掠れた苦い声を吐き出す。
「それは…お前だけが怖いんじゃねぇよ」
(ああ、やっぱり……)
レオンハルトが去ってからクレージュの中に現れた黒溜まりが意外な所で正体を見せた。クレージュはそれに驚きながらも、どこか片隅では酷く納得していた。
覚悟していた。長い一人の時間は自分を蝕むものだ。
それを知らないふりをして生きている。自分が抱えているのだからそんな事出来るはずがないことも、とうの昔に知っている。なんと馬鹿げたことをしているのだと何度思ったか分からない。
もう十分生きた自分はそれに耐えられると思い上がっていた事に、何年も前に気がついていた。
それでも、自分はもう誰かと深く関わってはいけないのだ。と硬く思う。
今の状況を見ても尚更だ。
距離が近ければ近いほど、必ず巻き込んでしまう。
詫びるべきだろうか、お礼を言うべきだろうか。
どちらも違う気がして言葉にするのは躊躇われた。
クレージュは無言のままジュンの手を外してそっと机に置くと、一言だけ告げた。
「これが俺の精一杯だ」
「なんだよそれ…」
ジュンは脱力するとソファーに深く身を預けた。
クレージュも姿勢を落ち着けると、しばらくどちらも指すら動かさない沈黙の間が流れた。
やがて冷えたコーヒーを飲み干して、ジュンが大きく息をついた。
長く深く息を吐き終わると、落ち着き取り戻した目をクレージュに向ける。
「俺は言わないぞ。この間に浮かんでる言葉を。言ったらお前は断って、二度と来なくなる」
「うん、あってる」
「俺が言わない理由も、お前から言わない理由も、間違っていない自信がある。万が一に俺たちを巻き込まないためだな」
「……。いいよ、答える。質問をどうぞ。ただし、何処で誰が聞いているか分からないから、具体的な言葉は使わないでもらえるとありがたいかな」
沈黙という肯定の後、クレージュはいつもの温和な表情で言葉を続けた。
表情も言葉もとても柔らかいのに、空気が一気に重くなる。
これから聞くのは、ジュンが子供の頃に土足で踏み込もうとして失敗した事があるクレージュの秘め事だ。
そこでやめておけと笑顔で気圧された事はずっと記憶に残っている。
あの時のクレージュは遠回しに肯定と思わせる言葉を使ったが、それでは結果的にジュンの憶測でしかない。
精霊族が居なくなった今、もう自分しか知らない事。その答え合わせだ。
ジュンは重い空気に抵抗するように深く息を吸ってから言葉を発した。
「お前は、まだ宿で飼っているんだな」
「そうだね。もし先に宿が壊れてそのまま残ってしまったら、野に放つ事になる」
「誰彼構わずに噛み付いたりしないんだろ」
「しないよ。基本的には穏やかだから。これは生き物全部に共通だけど、酷い事をされなければね」
「でも人間は短絡的な考えで噛み付くよな」
「だから誰にも預けられない。今の所この状況が最良なんだ」
「今の所って事は、まだ当てはありそうなのか?」
「……まぁ、一応は」
「なんだ、歯切れ悪いな?」
「これはちょっと本筋から外れるんだけど、ほら、嫌な選択肢は後回しにするから」
「なるほど、お前にとってやりたく無い事が残ってきてるってことな」
「そういう事。他に質問は?」
「・・・ない」
少し考えてから答えた後、ジュンは肩から項垂れた。
「やっとこの話ができたな。何年越しだよ」
「ずっと機会を伺ってたもんな。ジュン」
「お前知ってて」
「分かってたよ。話すタイミング、自然に消えてただろ」
上手く誘導されていた真実に驚いたジュンを見てクレージュは得意気に笑った。
ピッチャーから水を注いだグラスをジュンに差し出すと、もう一つのグラスで自分の喉の渇きを潤す。
ジュンは腑に落ちない気持ちと一緒に水を半分ほどを一気に飲んだ後、三つの箱を一つに寄せ固めてクレージュに向き直った。
「お礼がまだだったな。ありがとう、クレージュ」
言葉にクレージュは目を丸くした。
今までジュンが自分を名前で呼んだことがなかったからだ。
返す言葉を無くしているクレージュを見て、今度はジュンが勝ち誇って笑った。
ご一読ありがとうございました。




