Sylphe(ジルフェ)
それから彼は眠る事が多くなった。
髪と羽から徐々に黒が抜け、数日で黒では無くなった。
それからまた数日後に、スイは精霊魔法の枷を解いていた。
腰と首には柱へと固定する為の捕縛魔法を残すが、魔力封じの身体的辛さからは解放される。
一連の動きで揺り起こされたらしい。彼の視線がしばらく周囲を確認してから、スイへと焦点を合わせた。
ここのところ起きていても意識の浅い様子が伺える。話した事を覚えているのかも疑わしい。
「おはよう。よく眠っていたわね、気分はどう?」
「……どうだろうな、よくわからない」
「そう、痛みや苦しみがなくて何よりだわ」
魔力封じの窮屈さから解放された事にも気がついていないのか、それに触れなかっただけなのか、尋ねてみたいが、もし前者だった場合を考えると出来なかった。
ふいに彼が嘲笑のように僅かに息を吐いた。
「もう褒められた黒は無くなったな」
言葉を聞いて彼の視線が水面に映る自分を見ていたのだと知る。
すぐにこの部屋に来た日に褒めた事を指しているのだと思い当たった。
自由になった彼の手が存在を確認するようにスイの頬と髪に触れる。
「あんたは相変わらず月の光の様だな」
スイは頬に触れている手を両手で握り返した。
「しっかり此処にいると自覚して。私もレオンも側にいるわ。生きるのよ」
諦めない強い言葉を聞き届けると、一つ大きく呼吸をして、彼はまた眠りに落ちた。
レオンハルトは、いつもと変わらず椅子に座った。
最初にエーテル・フォントの側に置いた椅子だ。もうそこが定位置のように置いたままになっている。
「おはよう、午後を少し回った頃だ。今日は神殿前でバザーが開かれているから、外は賑やかだぞ」
「聞こえてたのは、その声か……」
「あれが聞こえる?魔神族は耳がいいのか」
「……多分、風のせいだ。時折、色々届いてくる」
「お前の力は制御することが多くて大変そうだな。精神勝負になりそうだ」
返事はないが小さく口元が緩んだのが見て取れる。毒を受けてずっと治療を受けていないような状況だろうかと勝手に想像した。だとしたら活力を持てというのが無理な話だと思う。
「今日は報告があるんだ。テオとハンナは村に戻らないことを決めたよ。俺たちの拠点に住むそうだ」
彼はこの話題にだけは、興味を示して顔を上げる。
「大丈夫、危険なことはさせない。住んでいる人も皆、良い人達だ。同じくらいの子供達と仲良くしていると報告をもらったよ」
「そうか……」
嬉しそうな顔をする。だが覇気がない。その表情を見る度に、レオンハルトは心が痛む。もう気を張ることすら大変な状況なのだろう。
「お前のことは、二人にはまだ伏せている。現れたら驚くだろうな」
優しさが見える、いつもの笑顔だ。
彼は深く息を吸うと、俯いて少し口角を上げた。
誰もが上手く嘘をつく。
風に乗る心音と声色だけが、彼に真実を告げてくる。
静かなはずのこの部屋は、今、雑音だらけだ。
不安と緊張と優しさと、それでも望みを諦めない強い意志の声色が鼓膜を揺らしてくる。
未だどこかで、このまま消滅したいと望んでいる自分を、都度、鼓舞してくる。
(なんて厄介な力だ)
いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めて、いつものように天井画を見上げる。
だが、視界にはもう何も映らない。
いつだったか、太陽など、朝など、光などなければいいのにと望んだ事があった。
これがその望んだ世界か。
思い、虚無に声なく笑う。
勝手に脳裏に再生される記憶が止まらない。
テオとハンナと過ごした時間も、村で過ごした記憶も、一人で放浪した時間も、仲間と暮らしていた記憶も、悲しみも苦しみも、少しの喜びも、全て清らかな水に溶け落ちていく。
やっとこの忌々しい命が終わると、清々しているというのに。
どこかで、彼らと共に生きてみたいと思っているなど、最後の最後で最悪だ。
それはどうあっても魔に見えるこの姿では願えない。
なるほど、神は最悪の呪いをかけたものだ。
神に呪われた生物で、最後に縋るのが精霊だなんて
ーーーなぁ、ジルフェ
思いは上手くお前に届いているだろうか?
部屋の異変を察知したスイがほんの数分後に駆けつけた時、すでに彼の姿はなかった。代わりに体に長い法衣を絡ませた、五歳くらいの少年が柱に固定されていた。慌てて精霊水を踏み駆け寄り、枷を外し抱き上げる。
安定した寝息を確認して一先ず安堵の息を吐く。
淡い淡い透けるような、夜明けの空色をした髪をそっと撫でる。
髪色にも、背にも、どこにも彼の面影がないことが、脳にじわりと浸透していく。
遅れて駆けつけたレオンハルトの気配を感じて、振り返ったスイは唇を震わせていた。
「レオン、ねえ、精霊の存在しかないのよ」
「……」
「失敗したわ。彼を、救えなか、た」
「スイ……!」
スイの瞳から堰を切ったように涙が溢れる。
レオンハルトは精霊水をかき分けるようにして、スイの元に辿り着いた。悲しみに震える背に腕を回し、少年ごとそっと横抱きにすると、慎重に精霊水を踏み立つ。
その腕の中で少年が僅かに瞼を震わせた。
月のように白い光と、頬に降り落ちてきた輝く雫。
それがこの世界で初めて、クレージュが瞳に映した景色だった。
ご一読ありがとうございました。




