五段弁当と除菌シート
昼休みの私の机に、重箱が建っていた。置かれていた、ではない。建っていた、と言うほうが正確だと思う。紺色の風呂敷をほどいた中から現れたのは、漆塗りの五段重ねで、その一番上は、座った私の目の高さとほとんど変わらなかった。
「お口に合えば、いいのですが」
向かいの椅子に腰を下ろした廣宮くんは、いつもと同じ静かな声でそう言った。座っていてもなお、彼の頭は教室の誰よりも高い位置にある。そのせいで、重箱と廣宮くんが並ぶと、私の机の上だけ都市計画が進んでいるように見えた。
* * *
始まりは、朝の正門だった。昨日と同じ八時十五分、同じ関所。私が門をくぐろうとすると、廣宮くんは名簿から顔を上げて、こちらに半歩だけ近づいた。
「桜井さん。今日の昼食は、どうされる予定ですか」
「え? 購買でパンでも買おうかなって」
「購買のパンは、四時間目終了から七分で主要な品が売り切れます。桜井さんの教室から購買までは、普通に歩いて四分半。古典の先生は、毎回二分ほど授業を延長されます」
淡々と並べられた数字に、私は思わず指を折りかけた。計算するまでもなく、私の分のパンは存在しない、ということらしい。そういえば、先週は二回続けてコッペパンの耳みたいなものしか残っていなかった。
「ですので、僕が用意してきました」
「用意?」
「昨日の手当のお礼です。昼休みに、伺います」
断る隙間は、どこにもなかった。彼はそれだけ告げると、私の後ろにいた男子の寝癖を指摘する仕事に戻っていった。お礼ならポケットティッシュでもう返してもらったはずだけれど、と気づいたのは、下駄箱で上履きに履き替えてからのことだ。
* * *
そして今、私の前には五階建ての重箱がある。
「……開けてもいい?」
「どうぞ。一段目から順に」
一段目は、俵型のおにぎりだった。鮭、梅、昆布、それから私がいちばん好きな、甘辛く煮たおかかのもの。海苔は食べる直前に巻けるよう、別の小袋に分けてある。二段目には卵焼きと唐揚げ。卵焼きは砂糖の多い、焦げ目の少ない黄色だった。三段目は野菜の煮物で、四段目は彩りのいいサラダ。五段目には、皮を剥いて食べやすく切った梨とりんごが、薄く塩水にくぐらせたような艶をまとって並んでいた。
どれも、料亭の仕出しみたいに整っている。けれど眺めているうちに、私は小さな引っかかりを覚えた。
「ねえ、廣宮くん。この煮物って」
「はい」
「ピーマン、入ってないね」
「桜井さんは、ピーマンが苦手でいらっしゃるので」
言ったことがあっただろうか。記憶をさらってみても、彼の前でピーマンの話をした覚えはない。中等部の給食で、こっそり友達のお皿に移していたことなら、あるけれど。
「……私、言ったっけ」
「見ていれば、分かります」
廣宮くんはそう答えて、眼鏡のブリッジを押し上げた。見ていれば分かる。たしかに、そういう人もいるのかもしれない。風紀委員長というのは、きっと人の好き嫌いまで観察する仕事なのだろう。私はそう納得して、それ以上は掘り下げなかった。掘ったら何かが出てきそうな気がしたから、というのは、後になって付け足した理由だ。
箸を取ろうとした私の手を、大きな手がやんわりと制した。
「その前に」
廣宮くんがブレザーのポケットから取り出したのは、除菌シートのボトルだった。コンビニで見かける携帯用の小袋ではない。病院の受付に置いてあるような、円筒形の、業務用の大きさのものだ。どうやってポケットに入っていたのか、物理の先生に訊いてみたい。
「失礼します」
彼は一枚引き抜くと、私の右手を取った。手のひらを上に向け、親指の付け根から順に、丁寧に拭っていく。一本ずつ、指の股まで、爪の際まで。冷たいシートがすべるたび、ほのかなアルコールの匂いが鼻先をかすめた。
「自分でできるよ」
「承知しています。ですが、僕がやったほうが確実です」
何が確実なのかは分からない。けれど、その手つきがあまりに真剣だったので、私は振りほどくタイミングを失った。右手が終わると、新しい一枚で左手。使い終わったシートは、どこにも捨てられることなく、彼の手の中で小さく四つ折りにされていった。
教室のあちこちから、視線が刺さってくる。窓際の席で、友人の真琴が卵焼きを箸でつまんだまま固まっていた。口の形だけで「なにあれ」と言っている。私にも分からない。分からないまま、私は肩をすくめて見せることしかできなかった。
「いただきます」
両手を合わせて、私はまず卵焼きを口に運んだ。ふわりと甘い。出汁より砂糖が勝っている、子どもっぽいと言われがちな、けれど私がいちばん好きな味だった。
「……おいしい」
思わずこぼれた一言に、廣宮くんは何も言わなかった。ただ、膝の上で組んだ指に、ほんの少しだけ力がこもったのが見えた。
「これ、廣宮くんが作ったの?」
「はい。朝の四時から」
「四時」
「五段ありますので」
理屈としては通っている。通っているのが、なんだか怖い。私は唐揚げをかじりながら、この人の朝はいったい何時に始まって、正門の関所に何時に立つのだろうと考えた。たぶん、私がまだ一度目のアラームを止めている頃には、もう世界のほうが彼に合わせて動き出しているのだ。
「廣宮くんは食べないの?」
「僕は、桜井さんが召し上がっているところを見ているだけで、十分に満たされますので」
「それ、栄養にならないよね」
「なります」
言い切られてしまった。反論の材料を探しているうちに、教室の入口から、クラスメイトの佐伯くんが顔を出した。
「桜井、悪い。午後の英語のプリント、配っといてって先生が」
「あ、うん。ありがとう」
差し出された紙の束を受け取るとき、佐伯くんの指先が、ほんの一瞬だけ私の指に触れた。紙を渡すときには、よくあることだ。気にも留めずにプリントを机の端に置いた、その瞬間。
空気の温度が、三度くらい下がった。
佐伯くんの視線が、私の向かいへと吸い寄せられていく。そこでは、廣宮くんがゆっくりと立ち上がっていた。立ち上がる、という動作に、こんなにも時間がかかる人を見たのは初めてだった。椅子から腰が離れ、膝が伸び、背筋が積み上がっていくにつれて、佐伯くんの顔が上を向いていく。最後には、ほとんど天井を仰いでいた。
「佐伯くん」
「は、はい」
「プリントの配布、ご苦労さまです。……指定の業務以外の接触は、慎むように」
「接触って、いや、今のはただ」
「慎むように」
二度目は、一度目よりずっと静かだった。佐伯くんは、まるで職員室に呼び出された生徒のように何度も頷き、後ずさりで教室を出ていった。廊下で誰かとぶつかったらしい鈍い音が、遅れて聞こえてくる。
廣宮くんは何事もなかったように腰を下ろすと、例のボトルからまた一枚、除菌シートを引き抜いた。
「右手を」
「え、さっき拭いたよ」
「状況が変わりました」
今度は、さっきよりも念入りだった。特に、佐伯くんの指がかすめた人差し指の先だけを、三回。四回。私が五回目を数えたところで、ようやく彼の手が止まった。拭かれすぎた指先が、ほんのり赤くなっている。
「……廣宮くん、潔癖症なの?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで」
「校内の衛生管理も、風紀の範囲ですので」
そう言われると、それ以上は何も言えなかった。風紀の範囲は、たぶん私が思っているより、ずっと広いのだ。
五段のうち三段を食べ終えたところで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。残りは持ち帰ってください、と言われ、重箱の下二段だけが風呂敷に包み直されて私の手元に残った。片付けをしながら、私はふと思い出して尋ねた。
「そういえば、昨日のハンカチ。急がなくていいからね」
廣宮くんの手が、一瞬だけ止まった。
「……まだ、洗い終わっていません」
「一日で乾かなかった?」
「工程が、多いもので」
ハンカチを洗う工程というものが、私には二つくらいしか思いつかない。洗って、干す。けれど彼の家には、きっと彼なりのやり方があるのだろう。四時に起きて五段の重箱を作る人なのだから。
「そっか。じゃあ、いつでもいいよ」
「はい。……いつか、必ず」
その「いつか」が少しだけ遠くに聞こえたのは、たぶん、予鈴の残響のせいだと思うことにした。
◇
風紀委員室の鍵を内側から閉めて、僕は鞄の中のファイルを取り出す。表紙には何も書いていない。何も書かないことが、いちばん目立たない。
内ポケットから、四つ折りにした除菌シートを三枚取り出した。一枚目と二枚目は、彼女が箸を取る前に拭った両手のもの。三枚目は、あの男子が触れた後のものだ。三枚目だけは、別の袋に分ける。混ぜるわけにはいかない。
日付と時刻を記したチャック付きの袋に、一枚ずつ収めていく。それから、ファイルの最新のページを開いた。
『十二時三十八分 卵焼きから食べる(中等部一年より変わらず)』
『十二時三十九分 「おいしい」。右の頬の窪み、深い方』
『十二時四十四分 佐伯。人差し指、接触〇・四秒』
最後の一行の下に、ペン先で短く線を引く。〇・四秒。たったそれだけの時間を、僕は五回の拭き取りで上書きした。足りたのかどうかは、分からない。
ハンカチは、まだ返せない。あれは洗えば終わってしまう。終わらせ方を、僕はまだ決めていない。
窓の外では、午後の授業に向かう生徒たちが渡り廊下を流れていく。その中に彼女の後ろ姿を見つけて、僕はファイルを閉じた。
「明日は、ピーマンの代わりに何を入れましょうか」
誰もいない部屋で口にした問いに、答える人はいない。それでも僕は、明日の献立を考えはじめていた。彼女が五段目まで食べきれる日のことを。




