防犯上、一人は危険ですので
風紀委員長の廣宮郁人くんは、この学校でいちばん恐れられている人だ。その彼が書いたプロフィール帳の一行を、私は今も上手く飲み込めずにいる。――恋人ができたらしたいこと、匂いを覚えること、及び毛髪の回収。
あの日のことを順番に思い出そうとすると、いつも朝の正門から始まる。
* * *
八時十五分の正門には、毎朝ささやかな関所が立つ。四月の終わりの風はまだ少し冷たくて、桜の残りが校門脇の植え込みに薄く溜まっていた。登校してくる生徒たちは、その手前で示し合わせたように歩幅を縮め、ネクタイの結び目や袖口に指を走らせる。理由はひとつしかない。
「そこの君。ネクタイが緩んでいます」
低く、よく通る声だった。大きくはないのに、ざわめきの隙間を正確に縫って届く。声をかけられた男子生徒の肩が、目に見えてこわばった。
関所の真ん中に立っているのは、二年A組の廣宮郁人くんだ。身長は百九十センチを優に超え、人の流れの中で、彼の頭だけが一段高い場所に浮いている。黒縁の眼鏡、皺ひとつないブレザー、左腕には几帳面に安全ピンで留めた「風紀」の腕章。父親は現職の警察官だと聞くけれど、聞かなくても誰も驚かないと思う。彼の佇まいそのものが、すでに一枚の通達のようだったから。
「す、すみません。寝坊して、それで」
「寝坊は、ネクタイを緩める理由にはなりません。締め直してください。今、ここで」
言葉遣いはどこまでも丁寧で、そのぶん逃げ場がない。男子生徒は震える指で結び目を作り直し、廣宮くんは手元の名簿に短く何かを書きつけた。ペン先が紙を擦る乾いた音が、妙に耳に残る。続けて、髪色の申請が出ていない別の男子に放課後の出頭を告げると、彼はもう次の違反を探す目に戻っていた。氷の委員長、と誰かが名づけたのは、たぶん言い得て妙というやつなのだろう。
私、桜井陽菜は、できるだけ人の陰に入るようにして門をくぐろうとした。別にやましいことはない。ただ、あの視線の射程に入るのが、なんとなく落ち着かないだけだ。
「桜井さん」
名前を呼ばれて、足が止まる。振り返ると、廣宮くんがこちらを見下ろしていた。見下ろす、という言葉がこれほど物理的に正確な人を、私はほかに知らない。
「おはよう、廣宮くん」
「おはようございます。……襟が、少しだけ折れています」
長い指が伸びてきて、私の襟元を一度だけなぞった。触れられたのかどうかも曖昧なほどの、短い仕草だった。指はすぐに引っ込められ、彼は半歩下がる。
「これで大丈夫です。今日も、気をつけて」
それだけだった。名簿には、何も書かれなかった。背後で、さっきネクタイを直された男子が小さく「なんで」と漏らすのが聞こえた。私も同じことを訊きたかった。
廣宮くんは、私にだけ怒らない。一年生の頃からずっとそうで、友人には弱みでも握っているのかと真顔で心配されたことがある。握っていない。どちらかといえば、こちらの方が何かを握られている気さえする。
それでも私は、たぶん、と考えることにしていた。私があまりにぼんやりしているから、叱る手間をかけるまでもないと思われているのだろう。そう結論づけると、不思議と腑に落ちた。腑に落ちることと正しいことが別物だと、このときの私はまだ知らなかった。
* * *
四時間目は古典だった。窓際の私の席には、昼前の日差しが斜めに落ちてくる。先生が朗読する和歌は、意味を追う前に音だけが耳の中で丸くなって、春の陽気と混ざり合いながらゆっくりと沈んでいった。抵抗したつもりはある。ただ、まぶたというのは、意思よりずっと正直にできているらしい。
目を覚ましたとき、最初に感じたのは影だった。さっきまで頬を温めていた光が、いつの間にかどこかへ退いている。雲でも出たのだろうか。そう思って顔を上げると、目の前に白い平面があった。
ワイシャツだった。きちんとアイロンのかかった、広い背中ほどもある白。その上をたどっていくと、ずっと高いところに、眼鏡をかけた横顔がある。
「……おはようございます、桜井さん」
廣宮くんが、私の机と窓のあいだに立っていた。窓から差し込む光を、その大きな体で過不足なく塞ぐ位置に。
「廣宮くん。授業は」
「終わりました。今は昼休みです」
淡々とそう告げてから、彼は窓の外へ一度だけ目をやった。
「日差しが、まぶしそうでしたので。起こすのは忍びなく、遮っていました」
教室にはカーテンがある。紐を引けば三秒で済む。けれど彼は、それよりも自分の体を選んだらしい。教室の後方では、何人かのクラスメイトが遠巻きにこちらを窺っていて、誰かが息を潜めるように「肉体の壁だ」と呟いた。言い得て妙、二度目である。
「ずっと、そこに?」
「四十分ほどです」
授業のほとんど全部だった。立ちっぱなしで疲れたでしょう、と謝ると、彼は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、いいえ、と首を振った。
「とても有意義な時間でした」
その声が、ほんの少しだけ柔らかかった気がした。表情はいつもと同じく静かなのに、目元のどこかに、満ち足りたものがかすかに滲んでいる。氷の委員長にもそんな顔があるのかと、私は寝起きの頭でぼんやり思った。
* * *
昼休みの残りで、私はプロフィール帳の用紙を廣宮くんに差し出した。クラスでささやかに流行っていて、頼まれるまま回しているうちに、いつの間にか私が集める係になっていたものだ。
「よかったら、廣宮くんも書いてくれる? 嫌なら全然いいんだけど」
「……僕に、ですか」
廣宮くんは用紙を見つめたまま、数秒、瞬きもしなかった。それから、ひどく真剣な声で言った。
「書きます。全力で」
全力で書くようなものではないと思う。けれど廣宮くんは自分の席に戻るなり、背筋を伸ばして用紙に向かい、ほとんど速記のような勢いでペンを走らせはじめた。三分もかからなかった。返ってきた用紙は両手で丁寧に差し出され、まるで提出書類のように角がきっちり揃っていた。
開いてみる。端正な、教科書に載っていそうな字だった。
『デートで行きたい場所 第一位:桜井さんの行きたい場所』
『第二位:桜井さんの家(最終的に連れ込むから)』
『秘密にしているギャップ:表の顔は全部嘘です』
『恋人ができたらしたいこと:匂いを覚えること、及び毛髪の回収』
読み終えてから、もう一度最初から読んだ。字が綺麗なぶん、内容の奇妙さが余計に際立っている。顔を上げると、廣宮くんは姿勢を崩さずに座ったまま、こちらをまっすぐ見ていた。
「あの、これって……冗談、だよね?」
返事はなかった。窓の光が眼鏡のレンズに白く溜まって、その奥の目がどこを見ているのか分からない。沈黙が三秒ほど続いて、私はようやく一つの答えに辿り着いた。真面目な人ほど、冗談を言うときは手加減を知らないものだ。
「廣宮くんって、意外と面白いんだね」
「……桜井さんがそう受け取るなら、今は、それで構いません」
(今は?)
◇
面白い、と彼女は言った。
用紙を胸に抱えるようにして、僕の書いた文字を目で追いながら、彼女は笑った。笑うとき、右の頬にだけ浅い窪みができる。中等部の頃から、ずっとそうだ。窪みの深さは、本当に可笑しいときと気を遣って笑うときとで、ほんの僅かに違う。今日のは前者だった。
一文字たりとも嘘は書いていない。それを嘘だと思ってくれるのなら、それでいい。人は、自分が信じたい形で物事を受け取る。彼女の中で僕が「意外と面白い委員長」として仕舞われるなら、その棚の奥に何を置いても、きっと誰も気づかない。
気づかなくていい。今は、まだ。
◇
午後の休み時間、ふと背中に視線を感じた。振り返ると、教室の隅の席に廣宮くんがいた。机の上に分厚い国語辞典を屏風のように立て、その陰からこちらを見ている。
隠れているつもりなのだろう、たぶん。けれど辞典の幅はせいぜい二十センチほどで、彼の肩幅はその三倍はある。眼鏡も、額も、きちんと分けた前髪も、すべて辞典の外にはみ出していた。隠れているというより、辞典のほうが彼に隠されているようにすら見える。私は見なかったことにして前を向き、目にかかった前髪を指先でかき上げた。
そのときだった。
「あ゛ー……」
背後から、低く濁った声がした。地の底で何かが軋むような音だった。振り返ると、廣宮くんがワイシャツの胸元を片手で握りしめ、深くうつむいている。具合でも悪いのかと、私は椅子を鳴らして立ち上がった。
「廣宮くん、大丈夫?」
駆け寄った私の足元に、赤いものが落ちた。ぽたり、という可愛らしい音ではなかった。もっと遠慮のない量が、彼の鼻から顎へ、顎から床へ、まっすぐに伝っていく。
「……問題ありません。少し、許容量を超えただけです」
何の許容量なのかを訊く余裕はなかった。私はスカートのポケットからティッシュを引き抜いて差し出した。けれど廣宮くんはすぐには受け取らず、血の伝う顔のまま、私の手元をじっと見下ろした。
「……誰にでも、するんですか」
「え?」
「こういうことを。誰にでも」
「目の前で鼻血を出している人がいたら、たぶん、誰にでも」
そうですか、と彼は短く答え、ようやくティッシュを受け取って鼻に当てた。そして、その上から、ためらいなく指で鼻を強く押し込んだ。止めたのではない。明らかに、押し込んだ。
「……また、出てきてしまいました」
自分で出したのだ、とは言えなかった。言ってはいけない種類の場面のような気がした。すみません、もう一枚、と差し出された大きな手に、私はティッシュを一枚ずつ載せていった。もう一枚。もう一枚。小さなポケットティッシュは、あっけないほど早く空になった。
赤く染まった束を、廣宮くんは捨てなかった。一枚ずつ丁寧に折りたたみ、ブレザーの内ポケットに収めていく。その手つきが、どういうわけか、大事な手紙を仕舞うときのそれに似ていた。
まだ止まりきっていなかったので、私は最後にハンカチを渡した。薄い水色の、角に小さな刺繍のあるものだ。返さなくていいからと言うと、彼は首を横に振った。
「いいえ。洗って、必ずお返しします」
彼はハンカチを両手で受け取った。卒業証書でも授与されたみたいな、恭しい手つきだった。
* * *
放課後の廊下は、西日で床が蜂蜜色に光っていた。昇降口へ向かって歩いているうちに、背中のあたりだけが、妙にひんやりと翳っていることに気づいた。光が届いていない。振り返ると、ちょうど五十センチ後ろに、廣宮くんが立っていた。
「お気になさらず」
気になる。気にならないはずがない。私の表情からそれを読み取ったのか、彼は穏やかに言葉を継いだ。
「最近、下校時間帯の不審者情報が出ています。防犯上、女子生徒の一人歩きは危険ですので」
それ以上の説明はなかった。私が足を止めれば彼も止まり、歩き出せば同じだけ歩き出す。距離は、測ったように五十センチのまま変わらない。不審者への備えとしては、この状況そのものがいちばん不審に見える気もしたけれど、口には出さなかった。心配してくれているのだと思う。私にだけ怒らない人が、私にだけ親切なのは、たぶん自然なことだから。
下駄箱の扉を開けると、上履きの上に見慣れないものが載っていた。封も切られていない新品のポケットティッシュと、四つ折りにした小さなメモ。開くと、今朝プロフィール帳で見たのと同じ端正な字が並んでいた。
『手当、ありがとうございました。ティッシュ、お返ししますね――廣宮』
ずっと私の後ろを歩いていたはずの人が、いつ、これを置いたのだろう。顔を上げて振り返ったとき、五十センチ後ろにはもう誰もいなかった。西日の差す廊下が、ただ長く伸びているだけだった。
律儀な人だな、と思った。思って、少しだけ笑った。ティッシュを鞄の内ポケットに仕舞うと、胸の奥に、日向に置いた石のような小さなぬくもりが残った。それが何なのか、そのときは確かめようともしなかった。
◇
二階の風紀委員室の窓からは、正門へ続く並木道がよく見える。彼女はゆっくりと歩いていた。鞄を肩にかけ直し、一度だけ空を見上げて、また前を向く。こちらを振り返る気配はない。それでいい。振り返らない背中を、振り返られない距離から見ているのが、僕はいちばん落ち着く。
内ポケットから、折りたたんだ束を取り出す。今日、彼女の指が一枚ずつ引き抜いて、僕の手に載せたものだ。乾きかけた赤のあいだに、細く柔らかな髪が一本、絡まっている。前髪をかき上げたとき、光の中をほどけるように落ちていった一本を、僕は見逃さなかった。
それを、静かに顔へ近づける。目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。
「……匂い、もう覚えてしまいました」
窓ガラスに、自分の顔がうっすらと映っている。正門で誰かを叱るときの顔ではない。誰にも見せたことのない、ひどく緩んだ顔だ。
「次は……もっと近くで、確かめないと」
並木道の先で、彼女の姿が角を曲がって見えなくなる。最後まで、一度も振り返らなかった。




