委員長の様子が、ちょっとおかしい
その朝、私は髪をひとつに結んで家を出た。理由は特にない。前の晩に見た動画の女の子が、高い位置でまとめたポニーテールを揺らしていて、なんとなく真似してみたくなった。それだけのことが、正門であんな事態を招くとは思っていなかった。
* * *
八時十五分の関所は、今日も滞りなく機能していた。寝癖、第二ボタン、スカート丈。廣宮くんの低い声が一つ鳴るたびに、誰かの背筋がまっすぐになる。私はいつものように人の陰に入り、いつものように名前を呼ばれるのを待った。待っている時点で、何かがおかしくなりはじめている気もする。
けれど、今日は呼ばれなかった。
門をくぐりながら横目で窺うと、廣宮くんは名簿を胸の前に構えたまま、彫像のように固まっていた。視線だけが、私の後頭部のあたりに縫い留められている。ペン先が紙の上で止まり、そこから細い線が、じわじわと名簿の端まで伸びていった。
「委員長?」
隣に立つ風紀委員の男子が、恐るおそる声をかけた。廣宮くんは返事をしない。代わりに、ゆっくりと眼鏡を外し、レンズを拭き、かけ直し、もう一度こちらを見た。それから、また外した。
「……桜井さん」
ようやく名前を呼ばれたのは、私が昇降口の手前まで進んでからだった。振り返ると、彼は眼鏡を手に持ったまま、なぜか空を見上げていた。
「その髪型は、校則の範囲内です」
「あ、うん。よかった」
「範囲内ですが」
そこで言葉が途切れた。続きを待ったけれど、続きは来なかった。廣宮くんは眼鏡をかけ直すと、私の後ろにいた男子のネクタイを指摘しはじめた。耳の先だけが、朝日に透けたように赤かった。範囲内ですが、の後に何を言いたかったのか、私は一時間目が終わるまで考えて、結局分からなかった。
* * *
おかしなことは、それだけでは終わらなかった。
二時間目の前に筆箱を開けると、シャープペンシルが一本入っていた。それ自体は普通だ。私のシャーペンなのだから。ただ、昨日の放課後にどこかで失くしたはずのものが、今朝になって戻っているのは普通ではない。しかもそれは、失くしたものと同じ薄いピンクの軸で、同じメーカーの同じ型で、そして新品だった。
私のシャーペンには、クリップの根元に小さな傷があった。去年、階段で落としたときにできたものだ。指でなぞると、いつも爪の先がかすかに引っかかる。今、手の中にあるものは、どこをなぞっても滑らかだった。
誰かが、私が失くしたことに気づいて、同じものを買って、入れておいてくれた。そう考えれば筋は通る。親切な人がいるものだ。問題は、その親切な誰かが、私の筆箱の中身を型まで把握していて、しかも私のいない間に筆箱を開けられる人だということだった。
顔を上げると、教室の隅の席で、廣宮くんがこちらを見ていた。目が合うと、彼はゆっくりと国語辞典を立て、その陰に隠れた。辞典からはみ出した肩幅は、今日もきっちり三倍だった。
* * *
昼休み、私の机に重箱は建たなかった。代わりに、白い紙袋がひとつと、四つ折りのメモが置かれていた。
『本日は臨時の委員会のため、伺えません。購買にて、桜井さんの分を確保しておきました――廣宮』
紙袋の中には、メロンパンとカレーパンが入っていた。どちらも購買でいちばん先に売り切れる二強で、私の好物の上位二つでもある。四時間目の古典は今日も二分延びたし、廣宮くんも同じ教室で同じ和歌を聞いていたはずだ。どうやってこれを確保したのかは、考えないことにした。
「ねえ、陽菜」
椅子ごと寄ってきたのは、真琴だった。中等部からの友人で、私よりずっと物事をはっきり言う。自分のお弁当の卵焼きを箸でつまんだまま、彼女はメモと紙袋を交互に見た。
「あんた、それ、本気で親切だと思ってる?」
「思ってる……つもり、だけど」
「じゃあ数えるよ」
真琴は箸を置き、指を一本ずつ折りはじめた。
「朝、あんただけ名簿に書かれない。一年のときからずっと。五十センチ後ろをついてくる。指を五回拭く。ピーマンを知ってる。好きなパンを知ってる。で、今日は?」
「……シャーペンが、新品になって戻ってきた」
真琴の指が、六本目で止まった。片手では足りなくなったらしい。
「陽菜。それ、普通は怖いやつ」
「でも、悪いことはされてないよ。助かってるし」
「助かってるのと、普通なのは別でしょ」
正論だった。正論というのは、反論できないぶん、飲み込むのに時間がかかる。私はメロンパンの表面のざらつきを奥歯で確かめるように噛みながら、真琴の言葉を、自分の中のどこに仕舞えばいいのか考えた。
私だって、何も感じていないわけではない。五十センチが測ったように正確なことも、ピーマンを知られていたことも、ちゃんと引っかかってはいる。ただ、一つひとつには説明がつく。風紀委員長だから。観察眼が鋭いから。真面目だから。説明がつくものを、わざわざ怖がる理由はない。
問題は、その説明が、毎日一つずつ増えていくことだった。
五時間目の数学の間、私はノートの最後のページを開いて、真琴が折った指の数だけ箇条書きにした。それからシャーペンの傷のことを書き足し、七つ目に「髪型、範囲内ですが」と書いて、少し迷ってから、その横に小さく疑問符をつけた。並べてみると、それはもう、ただの親切の記録には見えなかった。見えなかったけれど、ページを閉じれば、また親切の顔に戻ってくれる気もした。
◇
議題は、下校時の不審者対策だった。
風紀委員室の長机を囲んでいるのは、各学年の委員が八名と、顧問の体育教師が一人。窓際のホワイトボードには、僕が今朝までにまとめた市内の発生情報が、時刻と地点ごとに整理して貼ってある。
「では、具体策について。廣宮、何か案は」
顧問に促され、僕は資料を配った。
「下校時間帯、校内で最も危険度の高い女子生徒一名に対し、委員による重点警護を提案します」
「最も危険度の高い、というのは」
「二年A組、桜井陽菜さんです」
副委員長の男子が、資料から顔を上げた。
「根拠は」
「彼女は、とてもぼんやりしています」
沈黙が落ちた。顧問が咳払いをして、資料の二枚目をめくる。そこには、彼女の通学路と、立ち寄りやすい書店とコンビニの位置と、信号待ちで空を見上げる癖についての所見が、三ページにわたって記してあった。
「……廣宮。これは却下だ。特定の生徒だけを守るのは、風紀の公平性に反する」
「承知しました」
僕はすぐに資料を回収した。反論はしない。最初から、通るとは思っていなかった。公平性という言葉は正しい。正しいものは、守ればいい。
委員会としては、彼女を守れない。それが確認できただけで十分だった。ならば、委員会ではないところで守るだけのことだ。
回収した束を揃えながら、僕は今朝のことを思い出していた。高い位置で結ばれた髪が、門をくぐる歩幅に合わせて小さく揺れていた。普段は髪に隠れている首筋が、朝の光の中で白く見えていた。
範囲内ですが、の続きは、言わなくてよかったと思う。あれは校則ではなく、僕の許容量の話だったから。
◇
放課後、私は重箱を返しに行くことにした。昨日持ち帰った下二段を洗って、風呂敷に包み直したものだ。借りたものは早めに返す。誰かさんと違って、と思ったのは、ハンカチのことが頭の隅にあったからかもしれない。
二階の突き当たりにある風紀委員室は、ドアが半分だけ開いていた。ノックをしてみたけれど、返事はない。委員会はもう終わったらしく、中には誰もいなかった。長机の上には資料が角を揃えて積まれ、ホワイトボードには不審者情報の地図が貼られたままになっている。
長机の端に風呂敷を置いて、帰ろうとした。そのとき、窓際の机に、表紙に何も書かれていないファイルが一冊、置かれているのが目に入った。
見るつもりはなかった。本当に。ただ、そのファイルからは一枚だけ紙の端がはみ出していて、そこに見出しのような付箋が貼ってあった。付箋には、教科書に載っていそうな端正な字が並んでいた。
見覚えのある字だった。プロフィール帳で、二度読み返した字だ。
『桜井陽菜 防犯監視記録』
廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてくる。一歩ごとの間隔が、普通の人よりずっと長い。
私は、ファイルから目を離せなかった。




