平安時代編第三十一話 : 黒天の刺客、動き出す平安の闇
深いくらやみに包まれた夜の平安京。
都を覆う分厚い雲は月明かりすら遮断し、関白・藤原忠通の豪邸の奥深くは、底知れぬ漆黒と重苦しい沈黙に支配されていた。
「――それで? 報告はそれだけか」
御簾の奥から響く忠通の声は、氷のように冷たく、そして限界まで張り詰めた苛立ちを含んでいた。
床に平伏している中級貴族は、脂汗を流しながら震え上がっている。
「も、申し訳ございません! 北陸の武士どもへの見せしめとして放った百鬼夜行は、完全に消息を絶ちました。調査に向かわせた隠密衆も、かの地で妖を使役していた陰陽師も、誰一人として戻っておりませぬ……!」
「無能が」
「ひぃっ……! さ、さらに! 最近、夜な夜な都の空を飛び回り、朝廷の者たちを悪夢に陥れている『鵺』と名乗る妖の件ですが……昨晩も、忠通様が管理なさっている宝物殿や荘園が襲撃を受け、甚大な被害が……っ!」
「ええい、黙れッ!!」
ダンッ! と、忠通が床を強く蹴りつける音が響いた。
「北陸の田舎侍どもを平伏させるための計画は頓挫し、都の治安すら守れず、我が財産を妖怪風情に食い荒らされる……。貴様らのような役立たずを養うために、わしは国を動かしているのではないわ!」
散々に罵詈雑言をぶつけられた貴族が「お、お慈悲を……!」とすがるのも束の間、忠通は冷酷に言い放った。
「目障りだ。このゴミを処分しろ」
闇の中に溶け込んでいた幾人もの忍びたちが音もなく姿を現し、貴族の両脇を掴む。
「た、忠通様ァーッ!!」
引きずられていく哀れな男の絶叫が廊下に響き渡り――やがて、肉を断つ鈍い音と共に、短い断末魔が暗闇の奥に吸い込まれて消えた。
血の臭いが、微かに風に乗って漂ってくる。
「……国を治めるというのは、大変ですわね。忠通様の御苦労が忍ばれますわ」
血生臭い余韻を塗り潰すように、甘く、ねっとりとした声が闇から響いた。
いつの間にか忠通の傍らに、怪しく微笑む絶世の美女が立っている。
豪奢な衣から覗く白い肌は、暗がりにあってなお発光しているかのように艶めかしい。
「玉藻か……何用だ?」
「用がなければ、お会いしに来てはいけませんの?」
玉藻と呼ばれた女は、いやらしく絡みつくように忠通の肩へと擦り寄った。
その指先が、誘惑するように忠通の胸元をなぞる。
「そんな冷たいことを。妾はこんなにも忠通様をお慕いしているというのに……」
「戯言を。貴様の術はわかっている。わしを籠絡しようとしても無駄だ」
忠通は忌々しそうに、その手を払いのけた。
忠通は玉藻の正体をある程度察しながらも、その力を利用しているのだ。
妖の魅了など、国の頂点に立つ己には通じぬという絶対の自負があった。
「見苦しいぞ、女狐め」
部屋の隅の最も濃い影の中に、禍々しい「鴉の面」をつけた黒装束の忍びが佇んでいた。
背には巨大な黒い翼が折りたたまれている。
「あら、いたの? あまりに気配が陰気だから、存在に気づかなかったかしら」
「言葉には気をつけろ。貴様の首くらい、今すぐにでも跳ねられるぞ」
鴉の面の下から、地を這うような低い声が漏れた。
「生意気ね……下等な鳥風情、食い殺してあげてもいいのよ……?」
玉藻の切れ長の瞳がスッと細められ、背後の影がろうそくの火に揺らめくように膨れ上がる。
一つ、二つ、三つ……九つの尾のシルエットが壁に不気味に浮かび上がり、殺気が渦巻いた。
一触即発の空気を破ったのは、忠通の一声だった。
「そこまでにしておけ。鴉よ、呼び立てたのは他でもない。我が百鬼夜行を滅ぼしたという、洛北の『蒼き龍』について調べろ。……必要なら始末しろ」
その命令に、鴉と呼ばれた忍びは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻で笑った。
「わざわざ呼び出して、この俺に噂の調査? 忠通殿のお抱えの隠密どもはよほどお忙しいようですな。優秀で羨ましい限りだ」
「どいつもこいつも使えんカスどもだ。貴様には期待しているぞ」
皮肉を意に介す様子もなく言い捨てると、忠通は苛立った足取りで邸宅のさらに奥の闇へと消えていった。
残されたのは、二匹の物怪だけ。
「……人間風情が、この俺を使役した気でいるとは。屈辱の極みだ」
忍びがギリッと奥歯を鳴らす。
その声には、忠通に対する明確な殺意が込められていた。
「いい気にさせておけば良いのです」
玉藻が口元を扇で隠しながら邪悪な笑みを浮かべた。
「あの者は自分が世界の中心だと信じている哀れな傀儡。調子づけば調子づくほど、底なしの絶望へと堕ちた時の顛末が滑稽じゃありませんか。『あのお方』の理想の世を創るための、良い余興ですわ」
「……男を食い物にする、お前らしい悪趣味だな」
忍びは忌々しそうに玉藻から視線を外し、背後の暗がりへと同胞を呼び寄せた。
「姑獲鳥。聞いていたな」
「――ハッ」
空気が揺らぎ、音もなく背後に姿を現した翼を持つ女の忍び・姑獲鳥。
「洛北の蒼き龍の調査、確かに承りました」
「陰摩羅鬼も連れて行け。人間の命令とはいえ、少しばかり興味が湧いた。黒天鴉衆の力、奴らに示してこい」
「御意。必ずやご期待に添えます、八咫烏様」
姑獲鳥が深く首を垂れると同時、八咫烏の黒い翼が大きく広がり、突風と共に二人の姿は夜の闇へと溶けて消えた。
残された玉藻は、一人、狂気を孕んだ笑い声を響かせている。
都で渦巻く悪意と陰謀の波。
その深い平安の闇は、洛北の村でつかの間の平穏を過ごす蒼たちのもとへ、確実に忍び寄ろうとしていた――。
第三章の幕開けとして、主人公たちではなく敵側の視点から物語を描いてみました。
名もなき陰陽師を処刑した美女の正体が判明し、新たな敵・八咫烏を筆頭とする忍び集団**『黒天鴉衆』**が登場しました。
ついに、平安の闇が蒼たちへ本格的に牙を剥き始めます。
これまでは洛北の村で起きる出来事が中心でしたが、ここからは都を巻き込む陰謀と、人知れず暗躍する妖たちの思惑が少しずつ繋がっていきます。
第三章は、この物語の根幹に関わる謎をふんだんに盛り込んだ章です。
物語は一気に加速していきますので、明日からの掲載も宜しければご覧ください!




