平安時代編第二十九話 : 名も残さぬ処刑
鬱蒼と生い茂る木々が月明かりすら拒む、深い夜の森。
その暗闇を引き裂くように、一台の豪奢な馬車が猛スピードで駆け抜けていた。
常軌を逸しているのは、その速度だけではない。
馬車を引くのは、闇に溶け込むような漆黒の馬。
そして手綱を握る車夫は、全身が黒い靄に包まれたように輪郭がぼやけ、その顔には目も鼻も、口すらも存在していなかった。
「……忌々しい! 忌々しい田舎武士どもめッ!」
揺れる車内で、漆黒の陰陽師は血が滲むほど自身の爪を噛みちぎりながら、怨嗟の声を吐き捨てていた。
豪華な狩衣は泥と汗に塗れ、先程までの傲慢な面影は見る影もない。
「私が手塩にかけた百鬼夜行のみならず、我が至高の式神までをも……よくも、よくも……ッ!」
ギリ、と奥歯が鳴る。
だが、彼の心を支配しているのは、得体の知れない力を持ったあの蒼い龍の戦士たちへの怒りだけではなかった。
ふと、脳裏に「あのお方」の底知れぬ威圧感が過る。
――これがもし、あのお方の耳に入れば。
想像しただけで、陰陽師の額から氷のように冷たい嫌な汗がどっと吹き出した。
喉が干からび、息が荒くなる。弁明の言葉を必死に頭の中で組み立てていた、その時だった。
ギィィィンッ……!!
突然、馬車が急ブレーキをかけたように激しく揺れ、ピタリと動きを止めた。
慣性の法則に逆らうような不自然な急停止に、陰陽師は前のめりに転がった。
「おい! なぜ止まる! 誰が止まっていいと言った!!」
恐怖を誤魔化すように怒鳴り散らし、陰陽師は乱暴に御簾を跳ね上げて外へ顔を出した。
何か障害物でもあったのかと目を凝らした彼の視線は――その「存在」に釘付けになった。
森の開けた場所。
そこだけ雲の切れ間から青白い月光が降り注いでいた。 光の只中に、この世のものとは思えぬ絶世の美女が立っていた。
闇夜よりも深い漆黒の艶やかな髪が、夜風にふわりと揺れる。
透き通るような白磁の肌には、血の気を疑うほどの冷ややかさがありながらも、見る者の視線を絡めとる蠱惑的な色香が匂い立っていた。
切れ長の瞳は、底知れぬ深淵を思わせる妖しい光を宿し、血のように赤い唇が弧を描いている。
それは、背筋が凍るほど邪悪で、同時に魂を抜き取られるほど美しい、完璧な「冷たい微笑」だった。
(……なんと、美しい)
陰陽師は、己の置かれた状況も忘れ、どくどくと脈打つ欲望に目をくらませた。
こんな真夜中の森の奥深くに、あのような豪奢な唐衣を纏った女が一人でいることの異常さにすら気づかない。
傲慢な貴族の血が、彼に浅ましい声を上げさせた。
「どこの貴族の奥方が存ぜぬが、このような夜更けに一人で立っていては危ない。……どうであろう、私の馬車に乗られよ。都までお送りしよう」
体裁を取り繕い、いやらしい笑みを浮かべる陰陽師。
しかし、美女はピクリとも表情を変えなかった。
ただ、虫けらを見るような冷ややかな目で陰陽師を見下ろし、鈴を転がすような、しかし一切の温度を持たない声で淡々と紡いだ。
「――その必要は入りません」
「なに?」
「察しの悪い方ですこと。ですから名前一つ世に残すことなく死んでいくのでしょうね」
「貴様…麻呂を誰じゃと思うておる!麻呂はかの伝説のッ…」
「あのお方からの伝言です。百鬼夜行一つまともに統制できない無能は、私の理想とする世には、必要ない」
その言葉が出た瞬間、陰陽師の心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。
血の気が一気に引き、全身の毛穴が粟立つ。
「名前すら記憶していないが、役に立たぬ駒どころか、時間を無駄にさせただけの塵屑に、これ以上割く慈悲の猶予など初めから存在しない……と」
「……まさかッ!! 貴様……ッ!!」
美女の赤い唇が、さらに深く、悪意に満ちた笑みの形に歪む。
底知れぬ殺気を前に、陰陽師は半狂乱となって懐から呪符を引き抜いた。
「くっ! 死ねぇぇッ!!」
声高に呪文を叫び、放たれた呪符から巨大な『狐の式神』が顕現する。
鋭い牙と爪を持つ妖狐が、主の命に従い美女の喉笛を食いちぎ라んと一直線に飛びかかった。
だが――。
狐の式神は、美女の鼻先わずか数寸のところで、まるで絶対的な神の威光に平伏すかのように空中でピタリと動きを止めたのだ。
「な、なに……!?」
空中で身を震わせた式神は、怯えたように小さく鳴き声を上げると、ゆっくりと振り返った。
そして、今度は主である陰陽師へと、凶悪な牙を剥き出しにして唸り声を上げた。
「フフフッ……」
静寂の森に、艶やかで邪悪な笑い声が響く。
「愚かですね。……借り物の力の本流も知らないで、のうのうと御符を振るうなど」
「や、やめろ……! くるな! 私が主だぞ! うぎゃああああああぁぁぁぁッ!!」
狐の式神が、容赦なく陰陽師の首筋に食らいついた。
肉を裂き、骨を砕く凄惨な音と、汚い断末魔の絶叫が夜の森に響き渡る。
豪華な狩衣は瞬く間に引き裂かれ、馬車と周囲の土はべっとりと赤い血の海に沈んだ。
やがて絶叫が途絶え、完全な静寂が戻った血溜まりの惨状。 その凄惨な光景を前にしても、美女は衣服の裾一つ汚すことなく、ただ酷薄な笑みを浮かべて立っている。
「――安心しなさい。貴様の愚行の言い訳を聞く者など誰もいない。名も、記憶も、その肉片のひと欠片すら、この森の藻屑として綺麗に消して差し上げる」
月光が彼女の背後を照らし出した。
血塗れた大地の影に伸びる彼女のシルエットには――ゆらゆらと蠢く『九本の尾』の影が、不気味に浮かび上がっていた。
高慢だった陰陽師の最期は、皮肉にも一度も名を残すことなく幕を閉じました。
前回、蒼たちが死力を尽くして退けた敵でさえ、更なる強大な「あのお方」を前にしては、虫けら同然の存在でしかありませんでした。
謎の美女が放った「名前すら記憶していない」という一言は、この作品の敵のを象徴する台詞になった気がしています。
今回はこの世界の深淵をほんの少しだけ描きました。
そして、その深淵の正体が明かされる日も、そう遠くはありません。
次回もよろしくお願いします。




