平安時代編第十五話 : 月夜の帰還、影は静かに…
南西の空が、ひと際激しく蒼く揺らめいたのを最後に、平原からの地鳴りは完全に途絶えていた。
村を囲む防壁の櫓の上。
葵は固く結び直した袴姿のまま、重厚な和弓を握りしめ、ただひたすらに南西の闇を見つめ続けていた。
手に伝わる弓幹の冷たさが、今の静寂をより一層際立たせる。
「二人を信じてここで待つ」と村人たちの前で宣言し、気丈に振る舞ってはいたものの、彼女の小さな胸の内は、押し潰されそうなほどの不安と恐怖で激しく千切れそうだった。
(……蒼様。景行……)
あの巨大な黒い波。
そして、地を揺るがすほどの異形の怪物たち。
どれほど蒼が人知を超えた異能の力を持ち、景行が並ぶもののない武芸者であったとしても、相手は数え切れないほどの化け物なのだ。
命を落としていても不思議ではない。
もし……もし、二人とも二度と戻らなかったら――。
ぞっとするような暗い想像が脳裏をかすめるたび、葵は唇を強く噛み締め、必死に首を振った。
(いいえ……ダメです。私が信じなくて、どうするのです……!)
「……葵様?」
不意に、下から幼い声が響いた。 ハッとして見下ろすと、そこには村の小さな子――市が、不安そうに葵を見上げている姿があった。
「葵様……顔、すごくこわいよ? おてても、がたがた震えてる……」
子供の無垢で素直な指摘に、葵は息を飲んだ。
言われて初めて、自分が弓を握る指先を激しく震わせ、泣き出しそうな顔をしていたことに気づく。
「これ、市! 葵様に何たる失礼を……っ! お許しください、姫様!」
慌てて駆け寄ってきた市のお袋が、子の頭を慌ただしく下げさせながら、恐縮しきった様子で頭を下げた。
「滅相もございません」
葵は慌てて深く息を吐き、いつもの優しく柔らかな微笑みを浮かべて見せた。
「……大丈夫ですよ、市ちゃん。少し、夜風が冷たかっただけです。……二人なら、大丈夫。必ず、無事に戻ってきてくださいますから」
自分に言い聞かせるように、強く、静かに語りかける。 その言葉と迷いのない瞳に、市もお袋も安堵したように胸を撫で下ろし、夕食の仕度に戻っていった。
(そう……信じるのです。あの真っ直ぐな瞳で『必ず連れて帰る』と約束してくださった、私の選んだお方を……!)
葵は再び南西の空を仰ぎ、弓を抱きしめるようにして祈りを捧げた。
――その時だった。
カランッ…カランカラン……カランッ……!!
村の入口付近、蒼が事前に設置していった警戒装置(鳴子)から、鋭い音が村中に鳴り響いた。
「っ!?」
一瞬にして、村中に張り詰めた緊張が走る。
作業をしていた村人たちが息を飲み、手に手に鍬や竹槍を握りしめて身をかためた。
物怪の生き残りが、ここまで逃げてきたのかもしれなかった。
「皆さん、下がっていてください!」
葵は櫓から凛とした声を張り上げると、迷いなく和弓の弦を限界まで引き絞った。
驚異的な集中力と、領主の血筋ゆえの鋭い危機察知能力。
葵の意識が極限まで研ぎ澄まされていく。
周囲の風の音、虫の音さえも消え去り、彼女の視界はただ一点、気配の漂う南西の森の暗がりへと収束していった。
弦が指に食い込み、命を賭した一撃を放つべく、狙いを完璧に研ぎ澄ます。
(来なさい……! ここから先へは、一歩たりとも通しません……!)
張り詰めた沈黙の中、森の草木が揺れた。
すっと、月光の下に浮かび上がった人影。
――二人。
一人がもう一人に肩を貸し、血と土に塗れながらも、しっかりと足を踏みしめて歩いてくる二つの影。
「……え……?」
葵の視力が、その二人組の姿をはっきりと捉えた。
全身傷だらけで意識も途切れ途切れな巨躯の武士と、それを懸命に支えながら、へらへらと嬉しそうに笑っている一人の少年。
「あ……」
引き絞っていた弓から、すっと力が抜けた。
ぽろり、と手から落ちた和弓が、からんと軽い音を立てて櫓の床に転がる。
信じていた。
間違いなく戻ってくると信じていた。
けれど、生きている彼らの姿を目にした瞬間、抑え込んでいたすべての感情が一気に決壊した。
葵は櫓の階段をどうやって降りたのかも覚えていない。
着物の裾が汚れることも構わず、お淑やかで可可憐な姫としての矜持もすべて投げ打ち、彼女はただひたすらに駆け出していた。
瞳からボロボロと、大粒の涙が溢れ落ちて止まらない。
「おがえりなざい……っ!! おがえりなざいませ、おふだりとも……っ!!」
叫びながら、葵は二人の胸へと弾むように飛び込んだ。
「うわっ! 葵っ――ぐふっ!?」
重体に陥っていた景行の体に葵の体重が加わり、蒼もろとも三人でそのまま草むらへと倒れ込む。
葵は二人の服を力いっぱい抱きしめ、しゃくりあげる胸を押さえきれずに、子供のように声をあげて泣きじゃくった。
「よがっだ……っ! ほん゛どゔに゛、よがっだ……っ! ぶじで……ぶじでいでぐだざっで……っ!!」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、言葉すらまともに紡げないほど喉を震わせながら、何度も何度も二人の無事を確認するように抱きしめ直す葵。
「……葵さま……はしたのう……ござい……ます……」
ギリギリの意識を保っていた景行が、胸の激痛に顔を歪めながら、途切れ途切れの声で掠れた文句を口にした。
だがその表情は、どこか酷く穏やかで、嬉しそうでもあった。
蒼は、自分を抱きしめて号泣する葵の頭に、そっと優しく手を置いた。
傷だらけで泥まみれの顔に、いつもの、けれど今までのどれよりも温かい笑顔を浮かべて――。
「ただいま。葵」
約束を果たした少年の言葉に、平安の月光が優しく降り注ぎ、三人を温かく包み込んでいた。
***
戦いの狂乱が去り、静寂を取り戻した南西の平原。
月光が照らし出すのは、幾重にも重なり合う物怪たちの凄惨な骸と、一面にへばりついた黒く不快な血の痕だった。
その惨状の中に、ふわりと降り立つ一人の影があった。深々と被ったフードの隙間から、細い顎と抜け目のなさそうな唇が覗く。
「……聞いてた話と、違うねぇ……」
影は鼻を鳴らし、足元に転がる巨大な骸を蹴り飛ばした。
「二百は超える百鬼夜行の大群って聞いてたんだが……転がっているのは、せいぜい六十やそこら。都の奴らが怯えて大袈裟に騒いでいただけかい……?」
フードの奥から、不満げに考え込む声が漏れ出る。
――彼らが知る由もないことだが、この戦場に転がる骸は、景行が己の命と武を賭して斬り捨てた「六十余体」のみ。
蒼のケイゼル蒼龍が放った高濃度ケイオニウムの刃によって滅ぼされた百を超える群れは、すべて分子レベルで分解され、夜空の光の塵となって跡形もなく消滅していたのだ。
「……にしては、だ」
影は膝を折り、物怪の切り口を細い指先でなぞった。
「これだけの物怪を、ただの『刃物』で断ち切って全滅させた奴がいるのは確かだ。……充分人間技じゃない」
その時だった。
ゴオオオオッ……!!
骸の山だと思っていた巨大な物怪の一体が、不気味な地鳴りのような音を立ててむくりと起き上がった。
景行によって頭骨を斜めに断ち切られ、頭部の半分を失いながらも、異質な生命力で奇跡的に生き延びていた個体だ。
すで思考能力など疾うに失われており、目の前にある動く影へ、殺意だけを削り出した丸太のような剛腕を叩きつける!
しかし――襲われる人影は、避ける素振りすら見せなかった。
ザザザザザザザザンッ!!
直後、平原に響いたのは、果物を力任せに刻むような気味の悪い連続断裁音。
人影を捉えようとしていた巨大な物怪の腕、胸、そして巨躯そのものが、まるでサイコロ状に細かく刻まれ、一瞬にして肉のサイコロとなって地面へ崩れ落ちた。
その背後の暗がりには、同じく黒いフードを目深に被った二つ目の影が立ち尽くしていた。
その手には、月明かりすら反射しない歪な二本の小太刀が握られている。
「だーかーら! 言ったじゃんか!!」
たった今、巨大な化け物を瞬時に細切れにしたとは思えない、情けない泣き叫びがフードの下から響き渡った。
「俺は百鬼夜行の見物なんて嫌だって言ったろ!? これやった奴がヤバい奴だったらどうすんだよ! 」
「泣き言言ってんじゃないよ。あんたも『忍び』端くれなら、もう少しシャキッとしたらどうなんだい!」
一人目の影が呆れたように肩をすくめ、怒鳴り散らす男を振り返る。
「んなこと言ってもよぉ……こんな死骸だらけの場所に長居したくねぇよ……」
情けなく頭を抱える男を無視し、一人目の影は顎に手を当てて口端を吊り上げた。
「……でも、あんたの言う通りだね。これだけの物怪を肉片に変えたのが『どんな奴』なのかは、興味深い。……確か、この先には小さな村があったねぇ。都を追われた藤原の末姫が治めていた場所だったはずだ」
視線の先、遥か遠くに揺らめく村の小さな灯火。
「上手く立ち回れば、いい金になるかもしれないねぇ……」
「えぇー……また厄介事に首突っ込むのかよぉ……」
嫌がる男の首根っこを引っ張り、黒い影たちは夜の闇の中へとするりと溶け込んでいく。
束の間の平穏を取り戻したはずの蒼たちの元へ、新たな影が、確実に近づこうとしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
葵が涙で顔をぐしゃぐしゃにして蒼たちを迎える場面は、最後まで入れるか悩みました。
「美しく気高い姫」というイメージを崩してしまうかなとも思いました。
でも、それ以上に、一人の女の子として感情を爆発させる葵を書きたくて、この形にしました。
結果的に、今の葵らしい場面になったかなと思っています。
そして、ラストには登場した新キャラクター二人。
果たして敵なのか、味方なのか。
この二人、個人的には作中でもトップクラスに気に入っているキャラクターです。ここから先の物語でたくさん活躍する予定なので、ぜひ楽しみにしていてください。
次回も、一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。




