平安時代編第三話:平安サバイバル・コミュニケーション・エラー
邸の奥まった一室。
行灯の淡く温かな光が、静謐な室内をやさしく照らしていた。
静まり返った部屋の中で、藤原家の末姫・葵が畳の上にちょこんと膝を突き、倒れていた東雲蒼の脇腹に巻かれた麻布を、手際よく新しいものに取り替えている。
ふわりと漂う、優雅で奥ゆかしい香の匂い。
傷口に触れる葵の指先は驚くほど細く、繊細で、冷たかった。
「……あ、ありがとうございます」
「いいえ。少し染みるかもしれませんが、我慢してくださいね」
蒼の心細そうな声に、葵はいたわるようにふわりと微笑んだ。
朝の光を浴びたその横顔は、未来世界の完璧なホログラムアイドルや高精細CGすら霞んで消えてしまうほどの、圧倒的な気品と可憐さに満ちている。
(う、うわ……まじかよ。めちゃくちゃな美少女……! つか、距離が近すぎだろ……!)
難解なケイオニウムエネルギーの理論式をミリ秒単位で弾き出す蒼の天才的な脳内演算機能は、至近距離の美少女という未知の衝撃を前にして完全にフリーズしていた。
エンジニアとしての冷静さなどどこへやら、心拍数は最高速度まで跳ね上がり、内心はパニック状態である。
ドギマギしながら視線を泳がせる蒼。
――だが次の瞬間、その鼻先に、抜き身の刀よりも恐ろしい「物理的な殺意」が突き刺さった。
葵の少し後ろ。
影になった暗がりから、護衛の武士・源野景行が、まるで地獄の般若のごとき凶相で蒼を死対峙していたのだ。
手が太刀の柄にかけられており、いつでも首を跳ね飛ばせるよう全身の筋肉が固く緊張している。
「……おい。葵様の手をこれ以上煩わせるなよ、貴様」
「ひぇっ、分かってますって……!」
景行から放たれる圧倒的な「殺意の波動」に、蒼は首をすくめて全力で縮み上がった。
手当てを無事に終えた葵は、そんな男二人の殺伐とした空気に気づく様子もなく、衣の裾を整えて静かに立ち上がる。
「はい、これでもう大丈夫です。しばらくは安静になさってくださいね。……景行、あまり無理をさせてはダメですよ」
「はっ。仰せのままに、葵様」
葵が部屋を後にすると、景行は彼女の背中が見えなくなるまで、深く深く頭を下げ続けた。
そのあまりに完璧な忠節ぶりは、もはや武士の義務を超えて宗教的な信仰の域に達している。
葵が去り、重苦しい静寂が部屋に降ってきた。 一人ベッド――ならぬ畳の上に残された蒼は、自分の身体に巻き直されたゴワゴワとした布を見つめる。
(……これ、どう見ても化学繊維の包帯じゃない。手織りの本物の麻布だ。手触りも粗いし……。リアリティを追求する演出だとしても、怪我人にわざわざこんな不衛生的で伸縮性のない布を巻く理由がない。……ドラマの撮影現場、なんて生ぬるい線はもう無理があるか……?)
未だに現実逃避の余地を探そうとする蒼に、景行が低く、重低音の効いた声で語りかけてきた。
「葵様は貴様に邪気はないと仰ったが、俺は確証のないものは信じない。……貴様、何者だ。何処から来た」
「え、えーと……。ひとつだけ、めちゃくちゃ大事なこと確認させて。今って、西暦何年か分かります?」
「せいれき……? 何を言っている。怪しげな言葉で誤魔化すな」
景行の心底疑わしそうな顔を見て、蒼の脳内データベースが絶望と共に高速回転を始め出す。
(そういえば、西暦っていう概念が日本に入ってきたのって明治以降だったっけ!? 格好を見るに戦国時代みたいな甲冑じゃないし……ってことは、室町? 鎌倉? いや、この建築様式と装束の感じ、平安あたりか……!? くそっ、歴史は専門外なんだよ……!)
蒼はゼタクトにおいて最新鋭兵器ケイゼル・システムの構築には深く関わっていたが、学生時代から興味のない歴史分野の知識は平均以下だった。
「さっきから何を一人でブツブツ言っている。……怪しげな呪術でも唱えているのか」
景行が不審感を強め、再び太刀の柄に指をかけた。
(平安とか鎌倉とかって、後世の人間が便宜上つけた区分だろ!? 今生きているこの人たちに伝わる言い方ってなんだ!? 年号か!? 年号なのか!?)
考えすぎとパニックのあまり、蒼の体温が急上昇し、怪我の熱も相まって、頭頂部から排熱の蒸気――文字通りの「知恵熱の煙」が揺らゆらと立ち上り始めた。
「頭上から煙だと!? やはり妖術か! 貴様、葵様が藤原家の末姫と知り、狙って来たな!」
「ち、違う! 煙はただの知恵熱! 俺の頭がオーバーヒートしてるだけだって!!」
「藤原」というキーワードが引き金となり、蒼の乏しい歴史知識の引き出しから、ひとつの巨大な単語が飛び出した。
「藤原……!? え、藤原って……あの『この世をば わが世とぞ思う』の、藤原道長と関係ある人!?」
「なに……ッ!?」
今まさに太刀を抜きかけていた景行の動きが、ピタリと固まった。 殺気で充満していた目が見開き、驚愕の色が走る。
「……道長様を知っているのか?」
「知ってる、知ってる! 歴史の教科書で一番最初に覚える超有名人だし!」
蒼が命拾いした心地で、仰け反りながら激しく首を縦に振った。
「……道長様は、葵様の曾祖父にあたるお方だ。100年以上も昔の御方だが……なぜその名を知っている。公家や武家の限られた者しか知り得ぬ歴史の系譜……貴様、ただの流民ではないな。もしやよほどの高貴な身分の出か……?」
景行の瞳から険しさが抜け、姿勢がわずかに正正された。 蒼への警戒心が「怪しい不審者」から「何らかの事情で身分を隠して落ち延びてきた貴人」へと切り替わり、静かに太刀から手を離そうとした――まさに、その刹那だった。
ピピッ――ジジジッ……!
『――おはようございます、マスター! ご無事で何よりです! なんとか一命は取り留めたようですね!』
静寂に包まれた和室の中に、蒼の左腕に装着されたK-GEARから、この時代にはあまりに異質な、高音質のデジタル合成女性声が盛大に響き渡った。
「っ……!? なんだ、今の妖声はッ! やはり貴様、先程の呪術で悪鬼を呼び寄せていたな! 正体を現せ陰陽師めッ!!」
完全に解けかけていた景行の誤解が一瞬で吹き飛び、激昂した彼の大声で邸全体が震えた。 ジャキッ、と真剣が鞘を払う恐ろしい金属音が鳴り響く。
一方、再起動を果たしたばかりで周囲の状況がまったく見えていないAI・Karenは、いつもの能能しいトーンを崩さない。
『マスター? システム復旧直後で状況が把握できません。解説をお願いできますか? あと、その横で凄まじい大声で叫んでいる乱暴な男性はどなたですか?』
「……出来たら最初からやってるわ!!」
涙目になった蒼の絶叫と、景行の「死ねぃッ!」という怒号が平安京の静かな朝の空気に虚しくこだました。
「な、なにを大声を出しているのですか、景行!?」
和室の張りつめた空気を引き裂いたのは、騒ぎを聞きつけて奥から駆け戻ってきた葵の悲鳴のような声だった。
障子が開け放たれたその光景に、葵は息をのむ。
そこにあったのは――鬼の相で一刀のもとに斬りかからんとする景行と、床に膝をついたまま、必死の形相でその真剣を両手で挟み込んでいる蒼の姿だった。
――ガキンッ!!
甲高い金属音が響く。
ギリギリのところで蒼の手元を護ったのは、K-GEARから部分的に緊急展開された『ケイゼル・蒼龍』の掌フレーム――ナノ金属の装甲だった。
「ひ、ひええええっ……!? マジで殺されると思った……ッ!!」
蒼の額から滝のような汗が吹き出す。
ほんのコンマ数秒、フレームの展開が遅れていれば、頭骨ごと唐竹割りにされていたところだ。
『……素晴らしい反応速度です、マスター。相手の動作を分析するに、殺意は完全に満たされていましたよ。受け止めきれたのは奇跡ですね。Class-Xとの死闘を経て、マスターも順調に成長しているようです!』
切迫した状況などどこ吹く風で、K-GEARからKarenの呑気な音声プレゼンテーションが響き渡る。
「受け止められたのは奇跡じゃねえよ! つうかややこしくなるから、お前はもう黙っててくれ!!」
蒼の魂の絶叫に、Karenはさらに空気を読まず追撃をかけた。
『ですがマスター、周囲の環境データを照合中ですが……ここは、時代劇ドラマの撮影現場ですか?……こちらの姫君も随分とお美しい方ですね。』
「【Karenボイスシステム・オフ】!!」
「――っ!?」
蒼が左手のインターフェースを叩きつけ、強制的にKarenの音声機能をカットした。
K-GEARが不満を訴えるようにジジジと激しく振動したが、今はAIの愚痴につき合っている余裕など一ミリもない。
「……ほう。俺の刃を素手で止めるか」
景行の瞳から、先ほどまでの「不審者を見る目」が消えた。
代わりに宿ったのは、刃のように鋭く冷たい、本物の武芸者が向ける警戒の色だ。
(しまっ……! 完全にヤバいヤツだと思われた……!)
手負いで青白い顔をした軟弱な男だと思っていた相手が、真剣を素手で受け止めるほどの異能と硬質の甲冑を見せたのだ。
景行の中で蒼は、「正体不明の怪我人」から「恐ろしい戦闘力を隠し持った危険人物」へと一瞬で跳ね上がってしまった。
ケイゼルの復旧が掌部分だけでも完了していたおかげで命拾いしたが、今の蒼の体調でこの侍と本気でやり合えば、確実に命はない。
変身機能も死んでいる今、首元に刃を突きつけられているのと同義だ。
(どうする……!? 言い訳しろ東雲蒼! 一瞬でこの場を収めるウルトラCの嘘を絞り出せ……ッ!)
蒼は高速で思考を回転させ、青ざめた顔に必死で不敵な笑みを貼り付けた。
「……フッ、フッ、フッ……。流石は姫の忠臣。……まさかこの俺に、この力を引き出させるとはな」
「なに……!?」
景行の眉根がピクリと跳ねる。
蒼は冷や汗を流しながら、芝居がかった動作でゆっくりと白刃を解放し、立ち上がってみせた。
「驚かせてすまない。……実は俺は、姫の陰の護衛として『藤原の本家』より遣わされた者だ。共に姫を守る貴殿の実力を計るため、少々お芝居を打たせてもらった」
「本家からの……影……!?」
「そうだ。……そして先ほどの声についてだが、私は陰陽術にも精通していてね。都を守護する身として、相手は人間だけとは限らないだろう? 先ほどの声は、私が術で召喚した『式神』の声だ」
「式神……だと……?」
景行が怪しむように目を細める。
「そう! それそれ! 高等な式神だからな、たまに妙な口をきくのだ! だがこれで分かったろう? 俺は怪しい者ではない!」
(頼む……! 騙されてくれ侍さん! 平安時代なら『陰陽術』とか『式神』って言葉で押し通せるはずだ……っ!)
蒼の心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っていたが、景行はしばらく蒼の顔と、腕のK-GEARを交互に見つめた後、深く息を吐き出した。
「なるほど……。疑いが完全に晴れたわけではないが……道長様の名を知っていたのも事実。そして手負いの相手にそれ以上とどめを刺すのは、誠の武士の道に反する行い……」
チャキッ。
景行が静かに太刀を鞘へと納めた。
「……この場は刃を収めよう」
「あ、ありがと……」
緊張の糸がぶつりと切れた瞬間、蒼の膝からガクリと力が抜け、その場へ倒れ込んだ。
「――景行!! 無理はさせないようにと言ってあったでしょう!!」
二人のやり取りをハラハラしながら見守っていた葵が、顔を真っ赤にして怒声を上げた。
普段の静けさからは想像もつかない怒り様に、景行がびくりと肩を揺らす。
「っ……も、申し訳ございません、葵様! しかし、葵様の御命を守る者として、素性のわからぬ危険な者を放っておくわけには……!」
「向こうに行っていなさい! この方のお話は、私が直接伺います!」
「しかし! この怪しき男とお二人きりなど、あまりに危険――」
「景行!」
「…………っ、承知いたしました」
葵の凛とした一喝に、景行はまるで母親に叱られた子供のように肩を落とした。
そして一度蒼を苦々しく睨みつけると、足音もなく部屋を去り、屋敷の廊下の暗闇へと消えていった。
「……分かっていますよ、景行」
葵は景行が去った暗闇に向かって、ぽつりと背中越しに呟いた。
(……すごいな、このお姫様。目で見えていないのに、廊下の暗闇に潜んで自分を守ろうとしている景行の気配を完全に捉えてる……)
蒼は密かに目を見張った。
その鋭敏な気配察知能力は、未来世界のレーダーや、相棒の蓮の直感と同等、あるいはそれ以上のものに思えた。
そそくさと暗闇の奥へ気配が遠のいていき、今度こそ、静まり返った部屋に二人きりの時間が訪れる。
静寂の中、葵がしずしずと歩み寄ってきた。 そして、床にへたり込んだ蒼の目の高さに合わせて、その場に優しく腰を落とす。
「……藤原本家から遣わされた忍びというのは、嘘ですね」
「え……?」
葵は隠すことなく、真っ直ぐな澄んだ瞳で蒼を見つめていた。
「今更、忠通様たちが私の身を案じて影を遣わすなど……あり得ませんもの。……こう見えて私、人の嘘はすぐに分かるのですよ」
ふわりと可憐に微笑む葵。
だがその瞳には、誤魔化しを許さない強い意志が宿っていた。
至近距離で真っ直ぐに見つめられるたび、蒼の心拍数は再びドクドクと跳ね上がる。
「……聞かせてください。あなたがどこから来た、本当は誰なのかを」
静かな行灯の光の下、未来から来た戦士・東雲蒼は、目の前の小さな姫君に、自身の真実を語る覚悟を決めざるを得なかった。




