52 宰相の退職願
52 宰相の退職願
宰相目線
退職願は、受け取ってもらえなかった。
「まだ引き継ぎが済んでいません」
アレク殿下は、わたしの書いた紙を返された。
殿下の前に積まれているのは、先王時代の記録だった。
この国の役人は、都合の悪いことを事故として閉じるのには慣れている。開け直すのには、慣れていない。
「殿下。わたくしにも、責任がございます」
「存じています」
すぐに答えが返った。
「母上を騙した。約束を確認せず、守っているつもりでいた。スコット家の死を、事故ということで済ませた」
わたしは頭を下げた。
「あの時、わたくしが陛下をお止めしていれば」
「どの時ですか」
殿下が聞いた。
わたしは答えられなかった。
「名前を変えさせた時ですか。子供を取り上げた時ですか。家族をネズミとお呼びになった時ですか」
静かな問いだった。
「機会は、何度もありましたね」
わたしは、目を閉じた。
あの時のわたしには、国を守るという言い訳があった。後継を得なければならない。王の機嫌を損ねてはならない。宮廷を混乱させてはならない。
そのために、男爵家一つを捧げた。
自分が捧げたものを、見ないようにしていた。
「公の記録を直してください」
殿下が命じられた。
「母上が自ら望んで改名したという記述も、教師を拒んだという報告も。誰の報告を、誰が確かめずに採用したのか、名を残してください」
「承知いたしました」
「あなたのお名前もです」
「はい」
その仕事を始めて、古い記録がいかに役に立たないかを知った。
スコット男爵一家を乗せた馬車の馭者は、事故の後も生きていた。職を変え、王都の外で暮らしていた。彼の証言は、取られていなかった。
呼び戻された男は、最初、泣いて謝った。
馬が暴れた時、自分だけ逃げた。助けを呼びに行ったことにすれば、許されると思った。誰も詳しく聞かなかったので、そのままになったという。
狩猟の記録には、狼の檻を壊したキースの名がなかった。
早く帰れと命じた侍従は、王命だったと答えた。
家族の遺体を引き取った役人は、妃殿下への報告を後に回した。大げさにするなと言われたから、と答えた。
少なくとも書類の上では、殺害のために狼が放たれたと立証できるものは見つからなかった。
だが、檻を壊した者を罰せず、危険を知らせず、追い返した家族を探しにも行かなかったことは、確かめられた。
一つ一つは、小さな判断だった。
見逃す。黙る。聞かない。後で済ませる。
その先に、三人の遺体があった。
わたしは、自分の名も記した報告書を銀灰宮へ持って行った。
妃殿下は、読み終わるまで一言もおっしゃらなかった。
庭には、小さな石が三つ並んでいた。
「殺すつもりはなかったのでしょうね」
妃殿下がおっしゃった。
「はい」
「それで、誰も助けなかったのね」
わたしは返事をせず、頭を下げた。
「許していただきたいとは、申しません」
「それは助かるわ。許すかどうか、考える手間が省けるもの」
妃殿下は、報告書を閉じられた。
「三人の名前を、読み上げてください。事故の数字ではなく、名前を」
わたしは、表紙を開いた。
以前のわたしなら、必要な仕事とは考えなかっただろう。
今日は、声が詰まった。
すべて読み終えた後、妃殿下は立ち上がられた。
「これから、あなたが国のためと言うたびに、その名前を思い出してちょうだい」
わたしは退職願を出すのをやめた。
殿下に代わりの者を育てるよう命じられ、政務の合間に若い文官へ仕事を教えた。
その教材に、自分の失敗を書き加えた。
読み上げるたび、彼らがわたしを見る目が変わっていくのが分かった。
それでも、次の頁を開かなければならなかった。




