山本の命令
翌7月28日、火曜日。
霞ヶ関は、朝から冷ややかな緊張感に包まれていた。
海軍省の一室。
書類の山に埋もれ、赤鉛筆を走らせていた頼は、こめかみを軽く押さえた。
前日、石原莞爾がまとめ上げた「札と点呼の要則案」は、参謀本部内部で検討が始まりつつあった。
だが、それとは別に、東京の軍中枢を揺るがす別の難題が山積していた。
「また欧州からの電報か、、、」
頼の向かいの机で、軍務局の若い将校が青い顔をして書類を差し出す。
七月中旬、スペインでフランコ将軍らが反乱を起こしたことに端を発する『スペイン内戦』は、早くもドイツやイタリアの義勇軍・物資支援を巻き込み、ファシズムと共産主義の代理戦争の様相を呈し始めていた。
「欧州情勢はいよいよ不穏です。我が帝国としても、この動向をどう見るか、軍令部や参謀本部でも検討が続いているようです」
その難題に加え、さらに巨大な国家方針の調整がのしかかっている。
来る8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相による最高意思決定機関「五相会議」が迫っていた。
そこで正式決定される予定の『国策の基準』。
北進・南進双方を視野に入れた今後の国策をどう定めるか。
その実務的なすり合わせと防衛計画の調整に、頼は連日奔走させられていた。
窓の外に目をやれば、1940年オリンピック開催地決定を目前に控え、東京招致への期待から街は祭りを待つような熱気に包まれていた。
さらに8月1日にはベルリン・オリンピックが開幕する。
新聞各紙や街頭のラジオからは、日本選手団の活躍を期待する声と、国中を包むスポーツの熱狂が溢れ返っていた。
殺伐とした軍中枢の裏工作と、浮かれる世間の温度差は、皮肉なほどに激しかった。
そんな激務の最中、資料の束を抱えてやってきたのは、かつて現場で幾度も行動を共にした久保田中佐だった。相変わらず鋭い眼鏡の奥で、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「相変わらずですね吾妻さん。五相会議の根回しに、陸軍とのすり合わせ、、、あなたの机の上の書類を見るだけで胃が痛くなりそうですよ。この調子では、お盆どころか夏の間中、霞ヶ関の奴隷ですね」
久保田は呆れたように肩をすくめつつ、懐から一枚の極秘資料を音もなく頼の机に滑り込んでいた。
「ですが安心してください。吾妻さんが先週処理した海軍省の防衛計画案、あれの穴を突こうとしていた嫌味な連中は、俺の方で完全に論破して封じておきました。あなたの案は筋が通りすぎていました。結局、細かい言葉尻しか突けませんでしたよ。」
かつての相棒からの思わぬ援護射撃に、頼は思わず手を止めた。
「久保田中佐、、、」
「礼には及びません。吾妻さんがいてくれたからこその今の私ですから。それにあなたが潰れられては、こっちが割を食いますよ、ここまであなたをコキ使いすぎる上層部にも、少しは目にもの見せてやりたいところですから」
久保田が涼しい顔で眼鏡を押し上げたそのタイミングを見計らったかのように、執務室入口付近にいた将校たちが一斉に姿勢を正した。
「吾妻」
低く、よく通る声が響く。
顔を上げると、山本五十六が、腕を組んで立っていた。
その眼差しには、どこか呆れたような、しかし温かい色が宿っている。
「はっ」
「お前、最近ろくに執務室を出ていないじゃないか。顔色が良くないぞ」
「任務の遅れはございません。久保田中佐の協力もあり、予定通り進んでおりますが、、、」
「そういう問題じゃないと言っているんだ」
山本はふっと笑うと、頼の机の端に腰掛けた。
「お前の実家は、たしか名古屋だったな」
「はい。名古屋の熱田です」
「結婚して東京に腰を据えてから、もう何年になる? まさか、郷里の親御さんに孫の顔は見せてないのではあるまいな?」
図星を突かれ、頼はわずかに言葉に詰まった。
激動の軍務、それに追われる日々のなかで、名古屋の実家へ帰省するという選択肢は、頼の頭の中からすっかり抜け落ちていた。
「しばらく帰れておりません、、、」
「そうだろうな。いいか、吾妻。国を救うのも大事だが、自分の足元にある家族を大事にできん男が、大局を動かせるものか」
山本は肩を叩いた。
「今なら、数日の休暇を取れるよう私の方で手配してやる。安心して家族を連れて帰って来い」
「閣下、しかし、このような折に私だけ休暇など、、、」
「行け、これは命令だ。私を誰だと思っている?以前お前は、私を盾にすると言ったはずだ、わっはっは」
そのやり取りをそばで聞いていた久保田は、驚きに目を見張り、やがてふっと吹き出した。
「まさか、山本閣下自らお墨付きを下さるとは。吾妻さん、これであなたを縛る口実は一切なくなりましたね。霞ヶ関の連中がどんなに焦ろうが、山本閣下の命令じゃ誰も逆らませんよ」
その言葉には、国家を憂う軍人としてではなく、一人の部下を案じる上官の温かさがあった。




