閾(しきい)
その日の夕方、頼はいつもより少し早く帰路についた。
上大崎の自宅。
夕食の卓を囲み、五歳の絢と二歳の継が元気に茶碗を叩く音が響く。
その隣では、燈が、赤出汁をよそいながら穏やかに微笑んでいた。
「山本閣下から、少し休みを取って帰省して来いと言われたよ。しかも、久保田中佐が霞ヶ関の厄介な仕事を完璧に片付けてくれたおかげで、文句無しの休暇だ」
夕食の片付けが一段落した夜、頼は静かに切り出した。
「名古屋の実家に、絢や継を一度連れて行くのはどうだろう?燈も、東京に来て以来里帰りできていないだろう」
燈は箸を持つ手を止め、驚いたように瞬きをした。
そして、その瞳にじんわりと温かい光が宿る。
「本当に? お義母様、きっと首を長くして待っていらっしゃるわ。うちのお母様だって、両家そろって大喜びしますね」
燈の言葉に、頼はうなずきながらふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、先日、保さんから届いた手紙に、ドイツでの研究を切り上げて無事に日本へ戻ってきたとあったな。ちょうどいい。熱田へ行けば、母さんや恵子さん、それに急きょ帰国した保さんも、きっと驚くだろう」
頼の言葉に、燈は目を丸くし、それから嬉しそうにふっと笑った。
「そうなの。ドイツの様子がいよいよきな臭くなってきたからって、急きょ帰国させられたみたいなのよ。お父様も、『いつ孫の顔を見せてくれるんだ?』って言っていたそうだから、絶対に喜ぶわ」
(ドイツの混乱、、、スペイン内戦に続き、欧州全体が本格的に狂い始めている証拠か)
頭の片隅で歴史の歯車が回る感覚を覚えつつも、頼は目の前の妻の穏やかな微笑みに視線を戻した。
決まれば話は早かった。
翌日、頼は名古屋・熱田の実家へ宛てて、万年筆で手紙を認めた。
『突然の報せにて失礼いたします。東京の業務の合間を縫い、今年の盆に、妻子を連れて帰省いたします。絢も継も、元気に育っております』
数日後、東京の自宅に届いた名古屋からの返信の封を開けたとき、達筆だが少し震えた文字で「首を長くして待っている」「早く孫の顔を見せてほしい」という母親の喜びの言葉が綴られていた。
それから数日間、上大崎の家は出発の準備に追われて大騒ぎだった。
「お父さん、名古屋には汽車に乗っていくの?」
「ああ、そうだ。東京駅から汽車に揺られていくんだよ」
「やったあ!」
絢は新しいワンピースを母親と一緒に選び、継はお気に入りの木のおもちゃを小さな風呂敷に自分で詰め込もうとしてはしゃいでいる。
その無邪気な子供たちの姿を見るだけで、日々の軍務でこわばっていた頼の心も、心地よく解きほぐされていくのを感じた。
東京では、1940年のオリンピック開催地決定を巡る熱気が街を包み込み、ベルリンでの開幕を控えて世間はスポーツの興奮に沸き返っている。
その一方で、霞ヶ関の奥深くでは、国策の基準や防衛計画を巡る暗雲が着々と濃さを増していた。
だが、この瞬間の吾妻家には、そんな時代の波風は届かない。
盆の帰省という、ささやかな楽しみが静かに近づく。
荷造りを終えたトランクの横で眠る子どもたちの寝顔を見つめながら、頼はそっと息をついた。
それは、修羅の道を歩む頼に許された、束の間の、そしてかけがえのない「家族との夏」の始まりだった。
頼はトランクの横に腰掛け、胸ポケットから愛用の万年筆を抜き、そっと軸を拭いた。
その視線の先で、燈が子供たちに掛け布団を直している。穏やかな妻の背中を見つめながら、頼の脳裏には、山本から提示された海軍の次期防衛計画の数字が、どうしても明滅して消えなかった。
数年後、この国は、そして世界はどこへ向かうのか。
今はまだ、眩いばかりの夏の陽光がすべてを覆い隠している。
だが、確実に牙を剥きつつある時代の濁流から、この小さな寝顔たちを、自分は本当に守り抜くことができるのだろうか。
「頼さん、お体に障りますのであまり夜更かしなさらないでね」
燈の囁きに、頼は小さく微笑み、万年筆を箱に収めた。
今はただ、帰省の汽車の汽笛と、熱田の家族の笑顔だけを考えようと、自らに言い聞かせながら。




