仕掛/仕組
一方同日、三宅坂・陸軍参謀本部作戦課。
週明けの朝から将校たちが慌ただしく行き交い、異様な空気が廊下を満たしていた。
だが、その一室だけは、外の喧騒とは隔絶されたような熱気に包まれている。
石原莞爾大佐は、机いっぱいに広げられた書類の山へ、憑かれたように赤鉛筆を走らせていた。
昨夜、高木清寿が細密に速記した記録。
高木邸で交わされた、あの静かな議論の数々。
それらを前に、石原は幾度となく文章を書き直している。赤インクの線は幾重にも重なり、ページの余白を黒々と埋め尽くしていた。
「違う、、、」
石原は自らに言い聞かせるように呟く。
「兵を縛るための、矮小な規則ではない」
一文を、勢いよく斜線で消し飛ばす。
「目的は徹底した組織の管理だ。現場の混迷を極限まで減らし、最前線の指揮官が、一瞬の狂気や誤認に惑わされず、大局的な状況を冷徹に把握するための『構造』でなければならん」
隣では、高木清寿がその筆を止めることなく、静かに、だが圧倒されながら清書を続けていた。
昨日、吾妻頼という男が何気なく口にした、たった一言。
『列を離れる際に、札を置く』
それだけだった。
個人の行動の管理など、一兵卒の運用論に過ぎないはずだった。
しかし、石原の天才的な脳髄は、その断片を拾い上げ、帝国陸軍全体を縛り上げるほどの巨大な理論へと組み上げ始めていた。
(やはり、、、)
高木は筆を走らせながら、背筋に冷たいものが走るのを覚える。
(完全に、石原大佐自身の発想として定着している。大佐は自らがこの理論の生みの親であると信じて疑わない)
それでいい。
それこそが、昨夜あの男が仕掛けた周到な罠の正体だった。
「石原大佐」
部屋の隅で、若い参謀の一人がおずおずと口を開いた。
「離隊者に札を持たせ、行動ごとに点呼と照合を行うというこの要則ですが、、、実戦の現場ではあまりにも煩雑すぎるのではありませんか。もし前線の兵がその札を紛失でもすれば、かえって部隊全体に無用な混乱を招きかねません」
参謀の言葉に、石原はピタリと手を止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。その眼光は鋭く、凍てつくように冷たかった。
「だから、どうした」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。誰もが息を呑む。
「戦場とは、もともと混乱そのものだ」
石原は椅子から立ち上がり、窓際へと歩み寄る。
「だからこそ、その混乱に呑まれないための仕組みを、平時の段階で徹底的に叩き込んでおく必要がある。現場の阿呆どもが勝手に私情や焦燥で動き出す余地を、物理的に奪うのだ」
誰も、それ以上口を挟むことはできなかった。
石原は机上の未完の書類を、指でコン、と叩いた。
「一人の将校の誤認が、一個中隊を動かす。一個中隊の誤認が、一個師団の暴発を招く。そして、その連鎖が、一つの国家を回収不能な総力戦の泥沼へと引きずり込むのだ」
部屋に、石原の声だけが響く。
「現場の自発性などという美名の下にあるのは、ただの無責任な独断専行だ。これを縛れずして、何が国家防衛か」
沈黙が支配する中、別の参謀が冷や汗を拭いながら恐る恐る問うた。
「しかし、、、これほどの統制を、北支の最前線にいる駐屯軍の現場が、素直に受け入れるでしょうか?ましてやそこにいるのは、あなたを信奉している牟田口大佐です。彼は、あなたの満州事変での行動に心酔しています」
「だからこそ受け入れさせる」
石原は即答した。一切の妥協はない。
「これは精神論や個人の規範の問題ではない。組織を維持するための絶対的な『管理』だ。従わぬ者がいれば、軍紀違反として容赦するわけにはいかん」
高木は、黙ってその背中を見つめていた。
昨日まで、石原は現場指揮官の気概や自主性を重んじ、最前線の判断に一定の信頼を置いていたはずだった。
だが、もう違う。
「人を信じるな、仕組みを信じろ」――その思想へと、石原の脳内は完全に書き換えられていた。
「高木」
「はッ」
「この要則改正案を、至急正式な文面としてまとめろ」
「承知いたしました」
「まず、最も懸念される北支那駐屯軍の管内で試験的に運用する。その成果を元に、次期会期までに全軍への拡大を義務付ける」
参謀たちは顔を見合わせ、やがて渋々と、だが抗うことのできない威圧感に押されるように頷いた。
石原がここまで私案の段階から即断即決で推し進めるのは、近年稀に見る異常な事態だった。
会議が終わり、重苦しい空気のまま将校たちが部屋を後にしていく。
高木は山のように積まれた改正案の書類をしっかりと抱え、廊下へと足を踏み出した。
窓の外には、夏の強い日差しを浴びた皇居の深い緑が、どこまでも平穏に広がっている。
(吾妻中佐、、、)
高木は、昨夜の静かな居間で、穏やかに微笑んでいたあの男の顔を思い浮かべた。
背筋に走る悪寒は、果たして暑さのせいだけだったか。
(あなたは、石原大佐に意見を具申したわけではない。大佐の脳髄そのものを制御し、彼自身に『自分が必要性に気づき、自ら動いた』と錯覚させ続けたのだ)
その手口の底知れなさ、そしてあまりにも鮮やかな血の通わない謀略に、高木は言いようのない畏怖を覚える。
やがて、その改正案の束は幾重もの封筒へと収められ、参謀本部の最終決裁印を待つこととなる。
それはまだ、東京の机上で書かれた一枚の紙切れに過ぎない。
しかし、その紙はやがて遠く北支へと送られ、最前線で銃を構える多くの将兵の行動を、根本から縛り付けることになるのだ。
誰一人として、その小さな管理システムの導入こそが、やがて帝国の運命を揺るがす巨大な分岐点になるとは、知る由もなかった。




