時機(タイミング)
翌7月27日、月曜日の朝。
霞ヶ関の海軍省は、週初めの雑踏に包まれていたが、山本の執務室だけは重苦しい静寂に支配されていた。
机を挟んで向かい合う山本と頼。
今朝早く山本の手筈通り、海軍省の車両係を経てトヨダAA型は正式に返納された。
着席するなり、頼は静かに頭を下げた。
「閣下、昨日は子供たちに山ほどケーキを買っていただいた上、車両の融通までご配慮いただき、ありがとうございました」
山本は、湯飲みの冷たい麦茶を飲み干すと、からからと笑った。
「いや、かまわん。もともと私の姪の見舞いと言う私用に付き合わせたのだ。その礼とは言え、お父さんからの絢ちゃん、継くんへのケーキが潰れてしまっては、父親としての面目も丸潰れだろう?その大義の為なら、些細なことだ、わっはっは!」
山本は一瞬、満足げな笑みを浮かべたが、すぐにその眼光を鋭く細めた。
「しかしな、吾妻。昨日のお前の理屈は面白かったぞ。あの石原も、すっかり自分の手柄のように『現場管理のシステム化』を鼻息荒く語り出していたそうだ。参謀本部の連中も、あの男の勢いには面食らっているらしいな。だが気になるのは、お前の表情がまだ晴れていないようにみえる。石原を踊らせたところで、まだ何か引っかっているようだな、、、何をみている?」
頼は机上に置いた北支からの暗号電の断片を見下ろしたまま、小さく首を横に振った。
「石原大佐は優秀です。彼の脳内に植え付けた『首輪(管理システム)』の論理自体に綻びはありません。中央の予算や補給、通信の枠組みを縛るという点においては、あれは確かに強力な防壁になり得ます」
「では、何が問題なのだ?」
「問題は、石原大佐の理論と、現地で銃を握る連中の『空気』の間に、致命的な乖離があることです」
頼の脳裏によぎるのは、帝国陸軍の病的なまでの体質だった。
「牟田口大佐ら支那駐屯軍の現場将校たちの脳内にあるのは、石原大佐の描く高潔な国家総力戦の青写真などではありません。彼らにあるのは、ただ一つの成功体験です」
「例の満州事変だな?」
山本の呟きに、頼は重く頷いた。
「はい。彼らはこう考えています。『独断専行で仕掛け、既成事実を作ってしまえば、中央は結局それを追認せざるを得ない。満州の時だってそうだったじゃないか、我々は満州事変の英雄の石原莞爾を見習っただけだ!』と。石原自身がかつて切り開いたその『成功の幻影』が、いまや毒となって現場の末端を蝕んでいるのです」
頼は冷徹に現実を分析する。
「いくら石原大佐が中央で完璧な網を張ろうとも、現場の連中が『一度やっちまえばこっちのもんだ』と暴発する意思を持って動いているなら、命令は空手形同然です。新しい規程ごときで、その独断専行の気質を止めることはできません、、、遅すぎました。奴らの暴走を止めるには、人間(石原)の意識を変えるタイミングが、あまりにも遅かった」
執務室の空気が、さらに凍りついた。
山本は言葉を発せず、ただじっと頼の言葉を噛み締めている。
一国の海軍を背負う男にとって、陸軍の組織的狂気がもたらす破滅の足音は、もはや抽象的な脅威ではない。
「つまり、どうなるのか?」
「現地の暴発そのものは防げなくとも――重要なのは『その先』です。石原大佐に嵌めたこの首輪は、現場が勝手に始めた小さな火遊びを、帝国全土を焼き尽くす大火災へと拡大させないための最後の安全弁になる。奴らが独断専行で仕掛けたとしても、中央の補給と通信を断たれれば、それ以上の拡大は物理的に不可能です」
頼の言葉に、山本は深く息を吐き出すと、立ち上がり、窓の外の霞ヶ関の空を見上げた。
「なるほどな。目の前の小競り合いを完全に防ぐことはできずとも、それを手遅れの大惨事にさせないための『楔』を、お前はあらかじめ打ち込んでおいたというわけか」
山本が振り返る。その顔に迷いはなかった。
「現場が暴発するというのなら、その火種がいかに大きくなろうとも、海軍として、政治・予算・外交の面から拡大を阻止するのだ。焼き尽くされる前に、今から万全の体制で進めようじゃないか」
頼は静かに頭を下げた。
怪獣を完全に飼い慣らすことなどできない。あの男の脳内に植え付けた論理さえ、いつか別の狂気によってねじ曲げられる可能性はある。
だが、ただ座して破滅を待つつもりはない。
狂気と論理が交差するこの帝都で、歴史の歯車に抗うための防壁は築いた。あとは、動き出す奔流の中で、その楔がどこまで耐え抜くかを見極めるだけだ。




