甘い顛末
居間を出ると、高木清寿が恐縮した面持ちで待ち構えていた。
「石原部長は、、、今の論議に、いたく感銘を受けておられるようです。吾妻中佐、あなたは一体、何者なのですか」
「ただの海軍軍人ですよ、高木さん」
頼は短く答え、玄関へと向かう。
石原の狂気じみた眼差しから解放された瞬間、張り詰めていた神経がふわりと弛緩した。
外へ出ると、真夏の陽光が容赦なく降り注いでいるが、その熱ささえも先ほどの居間に比べれば清々しい。
トヨダAA型に乗り込むと、運転席の頼は大きく息を吐き出した。
助手席の山本は、まだ余韻を楽しんでいるのか、窓の外を流れる緑を見つめながら穏やかな笑みを浮かべている。
「面白いものを見せてもらった。やつがあれほど食いつくとはな、、、吾妻、少々予定外の寄り道をしてもいいか」
「どこへでしょうか?」
「銀座だ。子供たちに土産を買ってやろう。あれほど『ケーキ』とせがまれては、父親としても面目が立たんだろう?」
頼は驚いて山本を見た。
車内で交わした何気ない会話を、彼はずっと覚えていたのだ。
「閣下、、、いえ、山本さん。あまりに恐縮です。子供たちが知れば、一生の自慢にします」
「いいんだ。今日は一日、私の運転手として付き合わせてしまったからな。私から絢ちゃんと継くんに、美味い菓子を贈らせてくれ」
山本はそう言うと、満足げに目を閉じた。
銀座の菓子店で山積みのケーキの箱を抱えて戻ってきた山本は、子供のような笑顔を見せた。
頼が手にした家族の分と合わせ、車内は甘い香りで満たされる。
芝浦の倉庫へ向かう道すがら、助手席の山本がふと車内の山積みになったケーキの箱を眺め、豪快に笑った。
「いやあ、すまんな吾妻。絢ちゃんと継くんの喜ぶ顔を思い浮かべたら、つい買いすぎてしまったわ。わっはっは」
頼は苦笑しながらハンドルを切る。
「いえ、子供たちにとっても、これ以上の宝物はありません」
すると山本は、倉庫の入り口が見えてきてもなお、頼に減速の指示を出さなかった。
「吾妻、、、せっかくのケーキだ。電車の中で押し潰してしまってはいかん。このまま、その車で帰宅しろ」
「えっ、、、? いや、しかし、それは軍の規定上、私がそれをするわけには、、、」
「職権濫用だな。分かっている。 だが、今日は石原という難敵を相手に、私の一兵卒として命懸けの仕事をした。この車の帰路は、その戦功に対する『ささやかな休息』の代価だ。吾妻家のお父さんの休日を借り受けたわけだ、責任は私が持つ。心配するな」
山本はニヤリと笑い、続けた。
「明日の朝一番で、使いのものを自宅の門前まで迎えに行かせる。その時、車は引き取らせるから問題はない。私にはもう、直接ケーキを買って帰る子供たちはいないからな。その分、お前の子供たちが美味そうに食べる顔を想像して楽しむことにするよ」
「山本さん、、、」
その言葉に、頼は言葉を失った。いつもの演算回路が温かな感謝で満たされていくのを感じる。
「ありがとうございます。家族一同、一生の誇りにします」
そうして自宅へとトヨダAA型を走らせると、夕闇の中に自宅の明かりが浮かび上がった。
家からは、絢と継の弾んだ声が聞こえてくる。
「お父さん!」
玄関を開けると、二人が駆け寄ってくる。
頼は重苦しい戦場の記憶を脳の奥深くに沈め、いつも通りの、誰よりも優しい父親の顔を貼り付けた。
「ああ、ただいま。約束通り、一番美味そうなのを買ってきたぞ」
燈が奥から顔を出し、安堵したように微笑んだ。
「お疲れ様でした。今日は随分と遅かったのですね。いえ、頼さん。そのお顔、ただのお見舞いだけではなかったのでしょう?」
燈は鋭い瞳で頼を見つめ、襟元に手を添えた。
「いえ、頼さん、、、お疲れですね。今日はもう、何も聞かないでおきます。お夕飯にしましょう」
燈はケーキの箱をテーブルに置き、子供たちが喜ぶ姿を眺めながら、頼の手をそっと握った。
そして、家族の輪の中へ溶け込んでいく。
帝国の運命を変えるような大仕事と、子供たちがケーキを頬張るささやかな夜。
そのどちらもが、頼という男の日常だった。
彼は静かに、明日もこの日常を続けるための演算を、思考の片隅で回し続けた。




