嘘
石原の顔から血の気が引く。
「馬鹿な、、、我々の極秘備蓄の管理データを、海軍の、しかも一介の中佐が、、、?」
「この数値は、陸軍造兵廠の公式データと照合済みです。疑われるなら、今すぐ高木邸の電話からあなたの息のかかった担当へ確認してください」
「その電話をかけたとして、それを貴様が言う『解析結果』として私が認めると思うか?」
頼はさらに、解析したシリアルの一覧を叩きつけた。
「これを解析すれば答えは明白です。北支、牟田口大佐の部隊は演習をしているのではない。いつ暴発してもおかしくない実戦体制を敷いている。あなたの不拡大方針など、彼らには微塵も届いていないのです。恩賜組であるあなたに、現場の、一兵卒の気持ちなどわからないのです」
石原の肩が、微かに──しかし明確に──揺れた。
彼にとって『現場感覚』こそが、陸軍大学校の成績よりも何倍も優越していると信じている聖域だったからだ。
「なんだと!?貴様、、、私は連隊長時代、兵と同じ苦労を味わうために、自ら率先して行動した男だ、知らんのか!?兵卒の思考、行動など誰よりも知っている!」
頼は、その必死な反論を聞きながら、心の中でわずかに溜息をついた。
(やはり、この男は自分の『逸話』に酔いしれているだけだ。現場の兵ではなく、現場の兵と戯れる自分自身に陶酔している)
そして頼は憐れむような微笑を浮かべた。
「もちろん知っていますよ。あなたが真昼の安全な野原でそれをされたという、後世に語り継がれる高潔な逸話を。ですが大佐、お聞きします」
頼は一歩踏み込み、空気を一変させた。
「しかし、もしそれが夜間演習で、月も星もない漆黒の暗闇。華北の緊張した駐屯地、豊台の現場で敵と対峙している状況だとしたらどうです?一兵卒が極限の恐怖の中で黙って列を離れ、用便に行く。『暗闇の孤独な恐怖』と、大佐の衆人環視の元での野糞は本当に同じものと言い切れますか?」
石原の表情が凍りつく。その顔が、驚愕と羞恥に塗りつぶされていく。
「黙れ、、、たしかに、夜の暗闇における現場の指揮統制には盲点があるかもしれん、、、。しかし、だからといって戦場の兵卒を、まるで工場の流水作業のように縛り上げられるとでも、、、」
頼はあえて否定せず、窓の外を見つめながら続けた。
「工場の流水作業、、、?いえ、逆です。もし私が現場の指揮官なら、暗闇で誰かが消えた瞬間に、捜索などせずただ『数』を合わせるだけの単純な規則を敷きます。例えば、、、そう、列を離れる際に『札』を置くような、物理的規則です」
頼は、ただ断片的なヒントだけを置く。
石原の脳内で、最終戦争論の壮大なロジスティクスと、頼が口にした「札」という物理法則が、カチリと音を立てて噛み合った。
「札を置く、、、?いや、待て」
石原の瞳に、ぞっとするような鋭い光が宿る。
「点呼だ! 列を離れる者の『札』と、その場の『点呼』を同期させれば、拉致か用便かを秒単位で特定できる。そうか、これは戦術ではない! 『部隊管理』だ!」
石原が興奮のあまり、居間の机を激しく叩く。自分の脳内から天才的な解決策が降ってきたのだと確信している。
「高木! メモを取れ! 離隊者には必ず札を携帯させる。これなら暗闇の点呼で1人足りなくても、拉致か用便か即座に判別できる!」
さらに石原は、弾薬のシリアルを見て激昂していたはずの記憶を、頼のヒントと都合よく結合させた。
「そうだ、、、ついでに『補給の条件』も書き換えろ。実弾を使用した部隊には、弾薬消費の詳細な報告を義務付ける。不備があれば、次回の弾薬補給は停止だ。これは『陸軍の独立性』を削ぐ話ではない! 現場の暴発を、システム的に『不経済な行為』と定義し直すための、最強の軍紀だ!」
石原はしばらく黙り込んだ。
先ほどまで激昂していた男とは思えないほど、静かな目で頼を見つめる。
「吾妻、、、」
「はい」
「貴様は、本当に何を見ている、、、?」
その問いには怒りも侮蔑もなかった。
ただ、純粋な困惑と、わずかな畏怖が混じっていた。
「私が見ているのは、目の前の事象だけです」
「嘘だな」
石原は小さく笑った。
「貴様は事象ではなく、その裏で人間がどう動くかを見ている。兵の心理、組織の歪み、制度の穴、、、まるで初めから結果を知っているかのようだ」
石原の言葉を、高木は震える手で書き留めていた。
ふすまが静かに開き、山本五十六が戻ってきた。




