接触(コンタクト)
芝浦を後にし、品川から大森へ。
トヨダAA型のエンジンは、頼の掌と足裏に応えて滑らかに加速した。
11時15分、新井宿にある山本五十六邸に到着する。
頼が車を門前に横付けし、エンジンを切ると、ほどなくして玄関から私服姿の山本が現れた。
頼は素早く車を降り、後部座席ではなく助手席のドアを丁寧に開ける。
「ほう、本当に車を回してきたか」
山本がその車両を見回し、少し驚いたように目を細める。
頼は不敵に笑みを浮かべた。
「航空本部が、自動車部隊での本格運用のために調達した試験用の車両、最新型のトヨダAA型です。本日ちょうど帳簿が空いておりましたので、性能調査のテストドライブを兼ねて、私が預かって参りました。閣下、本日の私の任務は専属運転手です」
山本は苦笑して、頼の肩を軽く叩いた。
五十鈴艦長だった彼が、神通乗艦の頼と初めて対面して8年。
階級の壁などとうに意味をなさない二人の間柄だ。
「おいおい、今さら閣下なんて他人行儀な呼び方はよしてくれ。今日は山本さん、でいい」
「承知しました、山本さん」
頼が短く応じると、山本は満足そうに、三千代への見舞い品であるスイカをトランクへ積み込んだ。
二人の間に、公的な緊張感が消え、静かな呼吸が通う。
11時20分、出発。
整備された京浜国道を北上し、新橋、銀座、日本橋を抜ける帝都縦断ドライブが始まった。
窓を全開にすると、夏の湿り気を孕んだ風が車内に吹き抜ける。
頼はクラッチを淀みなく繋ぎ、帝都の喧騒を縫うように走らせた。
その所作の滑らかさに、山本が感心したように視線を向けた。
「お前、運転が身についているな。神通にいた頃は、まさかお前とドライブすることになるとは思わなかったが、随分と様になったな」
「自動車の運転は、体に染み付いているようです」
頼の答えに、山本は小さく笑った。
瀬戸内の洋上、あの神通で頼の才を初めて見た時の驚き、そして彼を中央へ引き抜いた時の確信――。
車内の他愛のない雑談の中にも、初めて対面して以来の歳月以上の二人の連帯感が漂っている。
しかし、12時15分。
上野広小路周辺に差し掛かると、車列がピタリと止まった。
昨日の黒ヒョウ騒動の名残か、街はまだ熱を帯びている。
号外を配る売り子の声、野次馬、交通整理の警察官がごった返し、中央通りは身動きが取れない。
山本は窓の外を眺め、皮肉げに呟いた。
「昨日は猛獣一頭に帝都中がひっくり返ったな。二月のあの騒乱といい、ついこの間のお定(阿部定)の騒動と、今年は騒がしい」
「怪獣は檻に戻せば済みますが、お定に切り落とされたモノは二度と元には戻りませんからね。日本という国が、陸軍という怪獣に引きずられて、大切なものを何もかも切り落とされる前に、なんとしてでも檻の鍵を閉め直したいところです」
頼がそう返すと、山本は鋭い眼光でこちらを見たが、何も言わず視線を外へ戻した。
ようやく車を路上駐車し、公園近くの洋食屋へ入る。
白いリネンが敷かれた店内は、天井の大きな扇風機が緩やかに空気を回し、蓄音機からジャズが流れていた。
周りの客は誰もが昨日から続く猛獣騒ぎを興奮気味に語り合っている。
山本は「カツレツ」を完璧な西洋マナーで平らげ、食後には大好物の「クリームソーダ」を注文した。
アイスクリームが溶け出した甘い炭酸を嬉しそうに啜るその姿は、一国の海軍を背負う男のそれではなく、ただの甘党の中年紳士そのものだ。
頼はその穏やかな光景を横目で見ながら、コーヒーのカップを置く。
約束の午後2時が、間近に迫っている。
高木邸で待ち受ける、石原莞爾という巨大な特異点。
頼が表情を戦場仕様へと切り替えたのを見て取ったかのように、山本はクリームソーダのグラスを置き、静かに口を開いた。
「吾妻、お前の論理に、狂いはないな?」
「はい、今のところは、完璧です」
「そうか。ならば、やつを存分に踊らせてやれ。」
山本はニヤリと不敵に笑うと、再びアイスクリームを掬い上げた。
頼は深く頷き、演算領域を一点へと収束させる。




