咆哮
翌7月26日、日曜日。
雲の多い窓の外からセミの声が、今日という日の蒸し暑さを告げている。
上大崎の吾妻邸は、まだ穏やかな空気に包まれていた。
「お父さん、今日はお休みじゃないの?」
五歳の絢が小首を傾げ聞いてきた。
「いや、すまない、少し仕事があって出かけるんだ」
頼の言葉に、燈は手慣れた手つきで鯵の骨を取り除きながら言う。
「山本提督と、お見舞いのお供でしたね」
「ああ、帰りは夕方になる、何か土産を買ってくるよ」
そう言い、頼は麻の白シャツにスラックスという軽装に身を包んだ。
軍人というよりも、都会の洒落た実業家のようだ。
食卓には、朝炊きの白米と焼き立ての鯵、そして燈の手による名古屋仕込みの濃い赤出汁が並ぶ。
このささやかな日常こそが、頼という演算機を動かすための唯一の栄養源だった。
頼は、脇に広げた新聞の一面を見やる。
そこには『上野の黒ヒョウ、排水溝で生け捕り!』という大見出しと、檻に戻された猛獣の写真が躍っていた。
昨日の帝都を混乱させた騒動は、ようやく幕を引いたらしい。
頼は無言で箸を置いた。
黒ヒョウは檻に戻せばいい。
だが、大陸という広大な檻から解き放たれようとしている『怪獣』は、そう簡単には飼い慣らせないのだ。
彼は心の中で、今日の戦場(高木邸)の論理を静かに組み上げていた。
午前九時半。
玄関の扉を開けると、湿り気を孕んだ生ぬるい風が肌にまとわりついた。
頼は玄関先で靴を履き、燈に向けて
「行ってくる」
と短く告げた。
燈は玄関の框まで出てくると、頼の背筋を正すようにして衣類を整えてくれた。
その手つきには、どこか夫の心労を気遣うような優しさが宿っている。
「ご無理はなさらないでくださいね」
「ああ、分かっているよ、ありがとう」
そのやり取りを遮るように、絢と継が、玄関まで駆け寄ってきて頼の足元にまとわりついた。
「お父さん!おみやげ、ケーキ食べたい!!」
絢が瞳を輝かせ言うと、継も
「けーき! けーき!」
と声を合わせる。
頼はしゃがみ込み、二人の頭を優しく撫でた。
「ああ、分かった。一番美味そうなのを買ってこよう」
頼が立ち上がると、燈は不安げな表情で頼を見送った。
それは、ただの送り出しではない、夫の心労を通り越した「魂の摩耗」を、燈は敏感に察知していた。
自分の正体が半分見透かされているのではないか――頼はそんな焦燥を、彼女の視線の中に見た。
燈は直感で嗅ぎ取っているのだ。
夫が「ただの見舞い」以上の何か、帝都の運命を揺るがすような危うい演算をしようとしていると。
頼はあえてその視線をやり過ごし、いつもの穏やかな夫の笑みを張り付けた。
「絢、継、お母さんの言いつけをよく守るんだよ」
頼はそう言い残すと、子供たちの無邪気な反応を待つこともせず、逃げるように門外へと踏み出した。
背中を突き刺す燈の視線から逃れようと、頼は目黒駅方面へと続く坂道を足早に歩き出した。
曇り空の蒸し暑さが、麻のシャツを肌に張り付かせる。
住宅街の静けさは、昨日の黒ヒョウ騒動の余韻だろうか。
頼にとってこの短い徒歩の時間は、家族という温かな記憶を脳の奥底へ格納し、思考を冷徹なシミュレーションへと切り替えるための重要なインターフェースだった。
目黒駅から山手線に乗り込み、車窓から帝都の風景を眺める。
車内にはどこか落ち着かない空気が漂っている。
頼はそのノイズを意識の端で切り離し、脳内の演算領域をある一点へと集約させていた。
高木邸。
そこに滞在する『特異点』の思考回路。
彼は、教え子たちが命懸けで得た情報を再構築し、自身の論理でそれをいかに上書きすべきか、黙々とシミュレーションを繰り返す。
田町駅で降り、芝浦の海軍倉庫群へ。
そこは人目につかない海軍の現業部隊――資材や車両の管理を担う部署の施設だった。
頼はあらかじめ手配しておいた受付で、倉庫に眠っていた連絡用のセダンの鍵を受け取る。
それは海軍が国産乗用車の性能評価を兼ねて試験調達した、まだ珍しい『トヨダAA型』だった。
艶やかな黒塗りの車体は、今の頼には兵器よりも鋭利な道具に見えた。
運転席の革シートに深く腰を下ろし、慣れた手つきでギアを入れる。
クラッチの繋がり具合やハンドルの重さ。
それらが掌や足裏に伝わってくる感覚は、かつて狭い路地を軽バンで駆け回り、荷を捌き続けた日々の記憶と重なる。
今の時代にセダンを操るのは久しいが、機械との距離感は変わらない。
頼にとって機械の挙動を把握することは、息をするのと同じくらい自然な、自身の身体の一部のような感覚だった。
鍵を捻り、エンジンが乾いた咆哮を倉庫内に響かせる。
背骨を突き抜けるような振動が、かつて路地を駆け回っていた記憶を呼び覚まし、彼の演算回路を強制的に上書きしていった。




