怪獣
7月25日土曜日。
帝都は騒然としていた。
早朝、上野動物園の檻から獰猛なクロヒョウが脱走したという一報は、瞬く間に号外となって東京の街を駆け抜けた。
警察や特別警備隊が色めき立ち、上野の町に重々しい包囲網が敷かれていく。
二月のあの騒乱の首謀者達の処刑からまだ十日余り。
ようやく静けさを取り戻しかけた東京は、今度は野に放たれた「漆黒の猛獣」の影に、不気味な怯えを見せていた。
だが、海軍省の執務室にこもる吾妻頼にとっては、そのパニックすらも、巨大なシステムが吐き出した微々たるエラーのノイズに過ぎなかった。
(檻から放たれた猛獣、か、、、。陸軍のあの天才は、もっと始末の悪い怪獣だな)
頼はゆっくりと受話器を取り、高木清寿の私邸へとダイヤルを回した。
彼の手元にある手帳には、石原莞爾のこの三ヶ月間の「毎週日曜の動向」が、詳細なログとして記されている。
石原が日曜の午後に高木邸に籠もることは、頼にとって周知の事実だ。
高木にこのバッティングを「自ら申告させる」ことこそが、頼が描いた最初のトラップだった。
最後の数字を回し終えたダイヤルが、ジココココ、、、と静かに定位置へ戻っていく。
その規則正しい機械音だけが、張り詰めた部屋に響いていた。
やがて回線がつながる単調な呼出音が二度鳴り、
『はい、高木でございます』
「高木殿、海軍の吾妻です。日曜日、山本提督とのお見舞いの件でお電話いたしました。三千代様の御加減はいかがでしょうか。閣下も日曜日を心待ちにしておられますので、改めて時間の確認をさせていただきたく、、、」
受話器の向こうで、高木が一瞬、息を呑む音がした。
高木は、自分たちが抱える「毎週日曜の定例」が、山本提督という海軍の重鎮の来訪と真っ向から衝突することに、即座に気づいたのだ。
『吾妻中佐、、、わざわざのご連絡、恐縮です。ただ、一点だけご相談がございまして』
高木の声には、隠しきれない焦燥が混じっている。
彼は、この海軍の若き中佐が、石原の動向を知らぬはずがないと踏んでいるのか、それとも本当に知らぬふりをしているのか――その真意を測りかねて言い淀んだ。
『日曜の午後は、先日のご連絡の際お伝えし忘れておりましたが、石原大佐が我が家へお見えになるのが定例となっておりまして、、、。提督とのお時間が重なりますと、大佐のことですから、議論が長引くのは避けられません。閣下のお時間を守れるか、当方も先行きが見通せなくなっておりまして、ご予定はいかが致しましょう、、、?』
「なんと、、、石原大佐もいらっしゃるのですか。それは、予定を確認せずにお電話した私が不調法でした。存じ上げませんでした、、、。」
頼はあえて言葉を切り、少しだけ間を置いた。
高木に「断ってくれるだろう」という安堵の余地を与えつつ、それを一撃で打ち砕く準備をする。
「ですが高木殿。山本閣下の性格はご存知でしょう。あの方は姪である三千代殿の体調を心から案じておられるのです。たとえ石原大佐とお話し中であろうと、閣下にとって三千代殿のお見舞いは最優先。今さら『石原がいるなら別の日に行く』などと申し上げれば、『吾妻、お前は姪の病状より、石原大佐との会談の邪魔になることを優先するのか』と、私を叱責されるでしょう。私はあくまで、山本閣下の随行としてお供するだけです。議論の場を荒らすつもりなど毛頭ございません。どうか、いつものようにお話をお聞きする形式で、端に座らせていただければそれで十分です。何より、三千代殿へのお見舞いです。お見舞いの席であれば、軍の公式会談のような硬苦しさはないはずでしょう? 形式張らない雑談の中でこそ、本音はこぼれるものです」
『承知致しました、、、大佐には、山本提督と吾妻中佐が同席される旨、申し伝えます』
受話器を置くと、頼は計算尺を机に置き、静かに笑みを浮かべた。




